第五話
エレノア・フォン・アールデムは、自室の床に飛び散ったミルクと、割れたカップの破片、そしてそこから滲み出るロゼの血痕を、茫然と見つめていた。
ロゼは、震える手で血を拭い、ひたすら謝罪の言葉を繰り返す。
「申し訳ございません、お嬢様……わたくしが、不注意で……」
その声は、小さく震えていた。だが、ロゼは泣かなかった。ただ、健気に、そしてどこか怯えたような瞳でエレノアを見上げていた。
エレノアは、生まれて初めて、他者の「痛み」を、自分の行いによって生じさせたことを実感していた。それは、彼女が望んだ「復讐の成就」とは全く異なる、鉛のように重い罪悪感と、混乱だった。
(こんなはずじゃなかった……私は、ただ、この子を傷つけて、満足したかっただけなのに……)
エレノアは、ロゼに伸ばしかけた手を、震えながら引っ込めた。あの時、いじめっ子に突き飛ばされた自分と同じだ。傷つき、恐怖し、そして誰からも助けを求められない。
ロゼは、あの時の自分と同じだった。その事実に、エレノアは激しい吐き気を覚えた。
結局、ロゼは自分で後始末を終え、包帯を巻いた指を隠すように部屋を出て行った。エレノアは、その夜、一睡もできなかった。
翌日。エレノアの心は、前日の出来事によって深くかき乱されていた。ロゼの純粋な瞳、そして彼女の指から流れた血が、脳裏に焼き付いて離れない。
(あの子が、私と同じ痛みを感じた……。それは、私が望んだことのはずなのに、なぜ、こんなに胸が苦しいの?)
エレノアは、自分の感情が理解できなかった。復讐を誓い、悪役令嬢として生きると決めたはずなのに、なぜ、罪悪感に苛まれるのか。
それは、「善行の呪い」が、ロゼへのいじめにだけはかからないという、唯一の例外だったからかもしれない。
善行に転じることで得ていた不本意な称賛と、いじめによって得た確かな「悪行」の感覚。その乖離が、エレノアの心を蝕んでいた。
エレノアの悪行は、さらに苛烈になった。
それは、もはや単なる「いたずら」や「ものを壊す」というレベルではない。「人に手を挙げる」行為へとエスカレートしていった。だが、ここでも「善行の呪い」が牙を剥く。
例えば、彼女は公爵家を訪問していた武術指南役に、わざと足を引っかけて転ばせようとした。しかし、指南役はエレノアの足の動きを無意識の「体術」と判断し、それを応用した新たな護身術を考案。それが「アールデム流護身術」として広まり、王族にまで教えられることになった。
「エレノア様のおかげで、我が国の安全がより盤石になりました!」と、王族から感謝状が贈られる始末である。
またある時は、エレノアは自身の乗る馬のたてがみを無理矢理引っ張り、暴れさせて周囲を混乱させようとした。しかし、その行為が偶然にも、馬の首に絡まっていた毒蛇を振り落とす結果となり、馬の命を救っただけでなく、毒蛇が街に侵入するのを防いだとして、エレノアは「動物を愛する慈悲深き聖女」と讃えられた。
どんな悪意を込めても、全てが善行に転じてしまう。エレノアは、自分の存在そのものが、この世界の「善」を強制する呪いに囚われているような気がして、絶望した。
その一方で、エレノアのロゼへの行為は、さらに巧妙で陰湿なものへと変わっていった。
物理的な暴力ではなく、精神的なプレッシャーをかける行為が増えた。
例えば、ロゼに何日もかかるような膨大な量の刺繍作業を命じたり、夜中に無理難題な依頼をしたりした。
「ロゼ、この刺繍は明日までに仕上げなさい。もし、一つでも糸のほつれがあったら……分かっているわね?」
エレノアは、ロゼの疲弊した顔を見て、満足感を覚えた。
徹夜で作業を続けるロゼの姿を、エレノアは自室の陰からじっと観察した。ロゼの目は赤く、顔色は悪く、指先には針の跡がいくつも残っていた。
(苦しみなさい。もっと、もっと苦しみなさい。そうすれば、私の心が少しは満たされるはずだわ。この間のは一時の気の迷い。私は人間が嫌いでなければならないんだ)
しかし、ロゼは決して音を上げなかった。どんなに無理な命令でも、どんなに嫌な仕事でも、彼女は「お嬢様のためなら」と、必死に食らいついてきた。
そして、翌日。ロゼが持ってきた刺繍は、疲弊しているにも関わらず、完璧な仕上がりだった。
「お嬢様、何とか、間に合いました……」
ロゼは今にも倒れそうな顔で、しかし達成感に満ちた瞳でエレノアを見上げていた。
エレノアは、ロゼのその姿を見て、激しい苛立ちと、同時に、拭いきれない困惑を感じた。
(なぜ……なぜこの子は、こんなにも……!)
エレノアの行動は、ロゼを確実に傷つけていた。ロゼの顔から、以前のような無邪気な笑顔が消え、目の下には常にクマができていた。
エレノアの言葉に、ロゼはびくりと肩を震わせ、顔色を青ざめさせるようになっていた。それは、エレノアが望んだ「復讐の成果」のはずだった。
だが、ロゼは決してエレノアを恨むような言葉を口にしなかった。むしろ、傷つきながらも、エレノアへの忠誠心と、微かな「淡い好意」を失わなかった。
ある夜、エレノアがロゼに、深夜にわざと難しい本を読ませるといういじめをしていると、ロゼが唐突に、震える声で尋ねた。
「お嬢様は……なぜ、わたくしに、これほど多くのことをお教えくださるのですか……?」
エレノアは、眉をひそめた。
「何を言っているの? これは、あなたのような無能なメイドに、公爵家で働く厳しさを教えているだけよ」
「ですが……わたくしのような孤児院上がりのメイドには、これほど高価な本に触れる機会など、滅多にございません。お嬢様は、わたくしが、一人前のメイドとして、立派に生きていけるようにと……ご指導くださっているのですか?」
ロゼの瞳には、再び、感謝と、そしてエレノアへの絶対的な信頼が宿っていた。
エレノアは、その言葉に、息を呑んだ。
(違う……! 私は、お前を苦しめているだけなのに……!)
エレノアは、自分がロゼを傷つけることで、かえってロゼが「成長」しているという事実に直面し、激しく動揺した。ロゼの純粋な受け止め方が、エレノアの悪意を捻じ曲げ、ロゼ自身を強くしているように見えたのだ。
「善行の呪い」が、ロゼに対する行動の領域にまで浸食し始めているのか。
いや、違う。これは、ロゼの純粋さが生み出す、予期せぬ結果だ。
エレノアの心は、深い矛盾に苛まれた。彼女は『善行の呪い』にとらわれないロゼを傷つけたい。だが、傷つけているはずのロゼが、なぜか自分を慕い、自分の行動によって成長していく。
エレノアは、この泥沼のような状況から抜け出せないことに、焦燥感を覚える。
このままでは、ロゼが本当に立派なメイドになってしまい、いじめの対象として「面白く」なくなってしまうかもしれない。
(もっと……もっと、この子を壊す方法を……!)
エレノアの悪意は、もはやロゼを傷つけることだけでなく、ロゼの「純粋さ」そのものを打ち砕くことへと向かい始めていた。
それは、かつて自分が苦しんだ「心の破壊」を、ロゼにも味わわせたいという、歪んだ願望へと変化していった。
(つづく)




