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第四話

 エレノア・フォン・アールデムは、自室の窓から差し込む午後の光の中で、紅茶を嗜んでいた。


その視線の先には、磨き上げられた国王陛下賜りのティーセットが、きらめく輝きを放っている。まるで、埃一つない鏡のように。


(なぜ、こんなことになるのよ……!)


 エレノアはカップを握る手に、思わず力を込めた。


 数日前、ロゼにあのティーセットを磨くように命じた時、エレノアの心には確かな悪意があった。不器用でドジなロゼのことだ、きっと一つや二つ、傷をつけるだろう。


あるいは、落として割ってしまうかもしれない。そうすれば、ロゼは深く絶望し、そしてエレノアは、その純粋な悲しみに満足できるはずだった。


 だが、結果は真逆だった。


 ロゼは震える手でティーセットを受け取った後、丸一日かけて、それはそれは丁寧に磨き上げたのだ。主任メイドが驚くほど、ティーセットは以前にも増して輝きを増し、まるで新品のように生まれ変わった。


「ロゼは、エレノア様の大切なティーセットを、わたくしの想像を遥かに超えるほど完璧に磨き上げました! これほど繊細な作業を成し遂げるとは……エレノア様のご指導の賜物ですわ!」


 主任メイドは感極まった様子で報告し、ロゼは得意げに、しかし少し照れたようにエレノアを見上げていた。ロゼの瞳には、成功を褒めてもらいたいという純粋な期待が宿っていた。


(褒めるわけがないでしょう! 私が望むのは、お前の失敗と、絶望よ!)


 エレノアは内心で叫んだが、口から出たのは「よくやったわ、ロゼ。少しは見込みがあるようね」という、冷たいながらも承認の言葉だった。


ロゼはそれを最高の褒め言葉と受け取り、目を輝かせていた。




 エレノアの「善行の呪い」は、日増しに強固になっていく。

 最近では、彼女が意図しない形で、王都の住民たちからも「聖女エレノア様」と崇め奉られるようになっていた。


 例えば、彼女は王都を巡回する際、貧困地区の惨状を見て「こんなに醜い場所、視界に入れたくないわね」と吐き捨て、たまたま手に持っていたぴかぴかのリンゴを地面に投げ捨てた。


すると、そのリンゴが偶然にも、病に苦しむ孤児の口に転がり込み、彼の命を救ったとして、「これは病魔を退治する黄金のリンゴ! エレノア様が自ら施しを与えてくださった!」と大々的に報じられたのだ。


そのことに歓喜したお父さまは孤児院の支援に乗り出し、すべては娘エレノアのおかげだ、とほめたたえて回った。


 また、彼女は公爵家を運営する会計士の帳簿の数字を、わざと書き換えて混乱させようとした。それが結果的に、長年隠蔽されてきた不正会計を発見する手助けとなり、会計士は「エレノア様の天賦の才が、私に真実を見抜かせた!」と彼女を称賛した。


 どんなに悪意を込めても、どんなにひねくれた行動を取っても、全てが善行に転じてしまう。


エレノアは、その異常なまでに『完璧』な状況に、強い孤独を感じていた。誰も、彼女の苦悩を理解しない。


誰も、彼女の悪意に気づかない。


彼女は、まるで金色の檻に閉じ込められた鳥のように、外から見れば美しいが、内側では深く傷つき、もがいていた。


 夜。誰もいない自室で、エレノアは静かに泣いていた。


「なぜ……なぜなのよ……」


 前世の記憶が、鮮明に蘇る。陰湿ないじめ、嘲笑、そして屋上から突き落とされた時の絶望。


 あの時、彼女は復讐を誓った。今度こそ、人間を傷つけ、自分を苦しめた世界に報いを受けさせると。


しかし、この世界は、それを許さない。


 エレノアは、自分の体が、自分の意図しないところで「善」を振りまく道具に成り下がっているような気がして、吐き気がした。彼女はただ、悪役令嬢として、復讐をとげたかっただけなのに。


 その時、ドアがノックされた。


「お嬢様、ロゼでございます。何か、お困りですか?」


 控えめな声に、エレノアは慌てて涙を拭った。ロゼだ。こんな夜更けに、なぜ。


「……何でもないわ。もう寝なさい」


「ですが、お嬢様のお部屋から、微かに声が聞こえましたので……」


 ロゼの声には、かすかな心配が滲んでいる。


(この子には、私の醜悪な顔を見せられない。……? いや、むしろ見せるべきだ)


 エレノアは、ロゼへの行動だけが、この「善行の呪い」から唯一外れる行為だと信じていた。ロゼを傷つけることでしか、自分の中の『人間への恨み』を実感できない。


「ロゼ、帰りなさい」


 エレノアが言うと、ロゼは静かに部屋に入ってきた。その小さな手には、温かいミルクのカップが握られている。


「お嬢様、もしや、お疲れでいらっしゃいませんか? 眠れない夜は、温かいミルクが一番でございます」


 ロゼは、エレノアの前にミルクを差し出した。その瞳は、エレノアの顔を真っ直ぐに見つめている。エレノアは、自分の目が少し赤くなっていることを、ロゼが気づいていると察した。


(馬鹿な子。なぜ、こんな夜遅くに……)


 エレノアは、ロゼの純粋な優しさに、またも苛立ちを感じた。同時に、こんな夜に、自分を心配してくれる存在が、ロゼしかいないという事実に、微かな寂しさも覚える。


「……いらないわ。あなたは私の部屋に勝手に入って、何をしようというの? 不届き者ね」


 エレノアは冷たく突き放した。


 ロゼは悲しげに顔を伏せた。


「申し訳ございません。わたくし、ただ、お嬢様のことが……」


「黙りなさい! あなたのような下賤なメイドが、私の心を理解できるはずがないでしょう。早くここから出て行きなさい!」


 エレノアは声を荒げた。ロゼの肩がびくりと震え、ミルクのカップを落としそうになる。


(これでいい。この子が傷つく顔が見たかったのよ)


 エレノアの心は、冷たい氷で覆われているようだった。


 しかし、ロゼは、瞳に涙を滲ませながらも、一歩も引かなかった。


「お嬢様……わたくしは、お嬢様のことが、心配なのです」


 その言葉は、エレノアの心を、鈍器で殴りつけるような衝撃を与えた。


(心配……? この私が、お前に心配されるだと……!? うそだ、うそだ! 人間は人を心配したりしない!)


 前世では、誰も自分を心配してくれなかった。誰も自分の苦しみに気づいてくれなかった。だからこそ、エレノアは復讐を誓ったのだ。


 ロゼの純粋な眼差しが、エレノアの心の奥底に眠っていた、癒えない傷に触れる。


 エレノアは激しく動揺し、思考が混乱した。なぜこの子は、こんなにも自分に純粋な感情を向けてくるのか。なぜ、自分のいじめにも屈しないのか。


「出て行きなさい! 二度と私の前に現れるな!」


 エレノアはそう叫び、近くにあったクッションをロゼに向けて投げつけた。


 クッションはロゼの小さな肩に当たり、彼女は後ずさりながら、ミルクのカップを床に落としてしまった。カップが割れる音と、ミルクが飛び散る音だけが、静寂に包まれた部屋に響き渡る。


 ロゼは割れたカップと飛び散ったミルクを見て、小さく息を呑んだ。


「……申し訳、ございません」


 そう呟くと、ロゼは深々と頭を下げ、割れたカップの破片を拾い始めた。


 エレノアは、ロゼのその姿を見て、凍りついた。


 割れたカップの破片で、ロゼの指先から、真っ赤な血が滲み出ている。


 エレノアは、初めて、誰かを「本当に」傷つけた、という事実を、この目で確認した。


 ロゼの小さな指から滴る血を見て、エレノアの心臓が激しく脈打った。それは、復讐の成就とは程遠い、言いようのない「痛み」だった。


(こんなはずじゃ……違う、違うの、私は、ただ……)


 エレノアの脳裏に、前世のいじめで自分が傷ついた光景がフラッシュバックする。指先を足で踏みつけられて、爪を割られたり、皮を剝がされたりした、悲惨な記憶が。


 目の前のロゼは、あの時の自分と同じように、傷ついていた。


 エレノアは、全身が震えるのを感じた。


「ロゼ……!」


 彼女は、血を流しながら割れたカップを拾い続けるロゼに、伸ばしかけた手を、震えながら引っ込めた。


 この瞬間、エレノアは、自分の「悪行」が、確かに誰かを傷つけるという事実に直面し、これまでの「善行の呪い」とは異なる、本物の罪悪感と、混乱に苛まれていた。


(つづく)

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