第三話
エレノア・フォン・アールデムは、鏡の中に映る自身の姿を冷めた瞳で見つめていた。
純白のシルクと繊細なレースで飾られたドレスは、彼女の小柄な体を可憐に包み込み、もふもふとした金髪は、宝石を散りばめたような編み込みで優雅にまとめられている。完璧な淑女の佇まい。
今夜、彼女は王都の社交界に正式にデビューするのだ。
「ああ、エレノア様。なんてお美しいのでしょう! まるで天から舞い降りた女神のようですわ!」
侍女たちが口々に感嘆の声を上げる。ロゼもまた、目を輝かせながらエレノアのドレスの裾を整えていた。
「そうかしら?」
エレノアは口元に完璧な笑みを浮かべた。しかし、その心は冷え切っている。
(女神? 愚かな人間どもめ。私が目指すのは、復讐の鬼よ)
社交界デビューなど、エレノアにとっては「人間たちを欺くための舞台」に過ぎなかった。この場で、もっと大きな悪事を働き、彼らの顔に泥を塗ってやる。そう心に決めていた。
馬車に揺られ、王宮の舞踏会場へと到着すると、すでに多くの貴族たちが集まっていた。
華やかなドレスや煌びやかな宝飾品、そして偽りの笑顔。エレノアは、その全てが前世で自分を苦しめた『人間』と同じに見えた。
公爵である父が、誇らしげな顔でエレノアをエスコートし、王族や有力貴族たちに紹介していく。
「こちらは、我が愛娘、エレノアでございます」
「おお、これが噂に聞くアールデム公爵令嬢か! その聡明さと慈愛の御心は、すでに王都の評判でございますぞ!」
「まさに聖女の再来ですな!」
賞賛の言葉がシャワーのように降り注ぐ。エレノアは愛想笑いを浮かべながら、内心で吐き気を催していた。
(慈愛? 聖女? くだらない。私はお前たちを奈落の底に突き落とす悪役令嬢だというのに)
立食形式のパーティーは、エレノアにとって退屈の極みだった。上辺だけの会話、偽りの賛辞。ただひたすらに時間が過ぎるのを待つだけだ。
(何か面白いことはないかしら……)
エレノアは、懐に忍ばせてきた父の短剣にそっと触れた。それは、アールデム公爵家に代々伝わる、精緻な装飾が施された短剣だ。これを無様に弄び、公爵家の権威を貶めてやろう。
エレノアは、わざと人目につくように、しかし上品さを装いながら、短剣の鞘から刃を抜き、ぶらぶらと弄び始めた。光を反射する刃が、きらめくシャンデリアの下で、鋭い輝きを放つ。
周囲の貴婦人たちが、その無作法さに顔を顰めるのが見えた。エレノアは心の中でほくそ笑む。
(いいわ、もっと醜悪な顔を見せてちょうだい)
その時、場がざわめいた。
「何事だ!?」
会場の奥で、数人の騎士たちが慌ただしく動き出す。どうやら、会場に不審者が紛れ込んだらしい。王宮の警備は厳重なはずなのに、どこから侵入したのか。
会場の貴族たちは一斉に警戒し、護衛の騎士たちが前に出る。騒然とした空気が、舞踏会場を支配した。
エレノアは内心で舌打ちした。せっかくの悪行が中断されてしまう。
(邪魔ね……)
そう思いながら、彼女は弄んでいた短剣を、無意識に、しかし素早く持ち替えた。
その瞬間、不審者が隠れていた柱の陰から、一人の男が飛び出してきた。その手には、鈍く光るナイフが握られている。男は、パーティーの中心にいた公爵夫妻――エレノアの父と母――に、一直線に駆け寄ろうとしていた。
「陛下の御名を汚す者どもめ! 貴様ら貴族の不正を暴いてやる!」
男の叫び声が、会場に響き渡る。貴族たちは恐怖に顔を歪め、悲鳴が上がる。
その時だった。
エレノアは、ただ退屈しのぎに弄んでいた短剣を、無意識に、しかし流れるような動作で投げた。それは、まるで吸い込まれるように、男の手に握られたナイフを弾き飛ばした。
キン、と乾いた音が会場に響き、男は呆然と立ち尽くす。
誰もが息を呑んだ。
王宮騎士団長が、いち早く男を取り押さえた。
「エ……エレノア!?」
隣にいた父が、驚愕の表情でエレノアを見つめる。
エレノア自身も、何が起こったのか理解できていなかった。ただ退屈で、手元にあったものを投げただけだ。武芸や武術をならったことなんかない自分に、投げナイフなどできるわけがない。
(まさか……これも、善行の呪い……!?)
しかし、エレノアが次の言葉を発するより早く、周囲の貴族たちがざわめき始めた。
「なんと……エレノア様が、悪党から公爵夫妻をお守りになられたのか!?」
「短剣を弄んでいるように見せかけて、実は悪党どもの気配を感じ取っておられたのだ! さすが慈愛のエレノア様!」
「危機察知能力に優れたお方! あのお年で、これほどの武芸の腕も持たれているとは……まさに聖女の再来です!」
エレノアの耳に届くのは、またもや賞賛の嵐だった。彼女の行動は、「退屈しのぎの無作法」ではなく、「卓越した危機察知能力と護身術」として解釈されてしまったのだ。
父は、最初は驚いていたものの、すぐに状況を理解し、満足げに頷いた。
「皆様がご無事でなりよりです。我が娘エレノアは、幼少の頃より周囲の気配を敏感に察知する能力に長けておりまして。まさか、この場でそれが発揮されるとは……」
父の言葉に、貴族たちはさらに感嘆の声を上げる。エレノアは、貼り付けた笑顔の裏で、歯ぎしりをする思いだった。
(違う! 違うわ、お父さま! 私は貴様らを救いたかったわけじゃない! ただ、この退屈なパーティーを台無しにしたかっただけなのに!)
だが、その心からの叫びは、誰にも届かない。
翌日。公爵家では、エレノアの偉業を讃える声がこだましていた。
「エレノア様はまさに救国の英雄です!」
「公爵令嬢の座だけでなく、王族の護衛隊の指揮官に就任していただきたい!」
侍女や執事たちが、興奮した様子でエレノアに語りかける。
ロゼもまた、目を輝かせながらエレノアを見上げていた。
「お嬢様は、本当にすごい方です……! わたくし、あの時、心臓が止まるかと思いました。でも、お嬢様は冷静で、一瞬で危機を救ってくださって……!」
ロゼの純粋な憧れの眼差しが、エレノアの胸をチクリと刺した。
(違う……ロゼだけは違うかもしれないけれど、『人間』は復讐の対象……! 絶対に悪行を成功させて見せる!)
エレノアは、ロゼへの行動が唯一の「悪行」として残っていることに、ある種の執着を抱き始めていた。
他の全てが善行に転じてしまう中で、ロゼを傷つけることだけが、彼女にとって「人間への復讐」を実感できる唯一の手段だったのだ。
その日の午後。エレノアはロゼを自室に呼び出した。
「ロゼ、あなた、私の部屋の掃除は得意かしら? ではこれを手入れしなさい」
エレノアは、部屋の隅に置かれた、お気に入りのティーセットを指差した。それは、国王陛下から贈られた、貴重な宝石があしらわれた逸品だ。
「は、はい! 精一杯努めさせていただきます!」
ロゼは元気よく返事をした。
「そう。では、これを磨いてちょうだい。ただし、よ? このティーセットは、非常に繊細な作りをしているの。もし、一つでも傷をつけたり、欠けさせたりしたら……どうなるか、分かっているわね?」
エレノアは、ゆっくりと、しかし確かな悪意を込めてロゼに告げた。彼女の瞳は、ロゼの怯える顔を見たいという欲望に燃えていた。
ロゼの顔から、さっと血の気が引いた。彼女は元々不器用で、よく物を壊してしまう癖があったからだ。
「は、はい……! わ、わたくし、全力を尽くします……!」
震える手でティーセットを手に取るロゼを見ながら、エレノアは心の中で冷酷に笑った。
(さあ、今度はどうかしら? この子が大切にされているティーセットを壊せば、私への失望と、自責の念に駆られるはず。それとも、また何か、都合の良い「善行」に転じるというのかしら?)
エレノアの心に、期待と、そして一抹の不安がよぎる。この『善行の呪い』が、ロゼへの「いじめ」にまで及んでしまうのではないかという、漠然とした恐怖が。
彼女は、ロゼがティーセットを持って去っていく後ろ姿を、じっと見つめていた。
(つづく)




