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おまけ 

 エレノア・フォン・アールデムの心は、差し込む朝日のように穏やかで、満ち足りていた。


 隣には、柔らかな寝息を立てるロゼがいる。その小さな手を握りしめ、エレノアはそっと唇を寄せた。


 ロゼが目覚め、恥ずかしそうに微笑む。そんな日常が、エレノアにとって何よりも大切な宝物となっていた。


 誓いの儀式から、季節は何度か巡った。エレノアの生活は、大きく変わっていた。


 かつて彼女を縛り付けていた『善行の呪い』は、完全に消え去った。


 エレノアは、もはや『聖女エレノア』ではない。彼女の行動は、意図しない形で善行に転じることもなく、失敗すれば素直に失敗として認められ、謝罪する。


 誰かに不適切な言葉を使えば、相手は素直に眉をひそめ、不機嫌になる。その全てが、エレノアにとって、ようやく『人間』としての自由を得た証だった。――もちろん謝罪はきちんとする。


 公爵家の人々や領民たちのエレノアに対する認識は、緩やかに変化していった。


 相変わらず彼女を『慈愛の聖女』と呼ぶ者もいたが、エレノアはもう、その言葉に苦しむことはない。


 彼女はただ、ありのままの自分として、公爵令嬢としての義務を果たし、ロゼと共に、公爵家と領民のために尽力する日々を送っていた。


 エレノアの誠実な行いは、人々の心を少しずつ、しかし確実に動かしていった。彼女の行動の裏に、かつてのような歪んだ悪意がないことを、人々は肌で感じ始めていたのだ。


 ロゼもまた、エレノアの傍らで、見違えるように成長した。


 かつての怯えや疲弊は消え失せ、その瞳には自信と輝きが宿っている。メイドとしての腕前は、公爵家の中でも随一と言われるほどになり、他のメイドたちからも尊敬される存在となっていた。


 ロゼのドジは、相変わらず健在だったが、もう誰もそれを揶揄することはない。むしろ、エレノアが優しくフォローし、ロゼも素直に「申し訳ございません!」と謝る姿は、公爵家の中で、温かい微笑ましい光景として受け入れられていた。


 エレノアは、ロゼの成長を目の当たりにするたびに、胸が熱くなった。自分が傷つけたはずのロゼが、こんなにも強く、美しく成長してくれた。それが、エレノアにとって何よりの救いだった。


 エレノアとロゼは、毎日多くの時間を共に過ごした。


 朝食を共にし、公爵家の執務を手伝い、時には領地の視察にも二人で赴いた。エレノアが難題に直面すれば、ロゼが持ち前の観察力と、エレノアの「指導」で培われた知恵で助言し、エレノアもまた、ロゼの細やかな気遣いに支えられた。


 ある日、領地視察中、エレノアがうっかり足元の石につまずき、泥に転びそうになった。


「ああっ、エレノア様!」


 ロゼが慌てて駆け寄る。エレノアは、両手で顔を覆いながら「ああ、恥ずかしいわ!」と、素直に顔を赤らめた。


「エレノア様、お怪我はございませんか?」


 ロゼは、エレノアの服の泥を優しく払いながら、心配そうに尋ねた。


「ええ、大丈夫よ。ありがとう、ロゼ。また助けられてしまったわね」


 エレノアは、照れたように笑い、ロゼの手を握った。かつての『聖女』ならばありえない、人間らしい失敗と、素直な感謝の言葉。


 その姿に、視察に同行していた領民たちは、以前のような『聖女』としての深読みではなく、ただ温かい眼差しを向けていた。


「エレノア様も、聖女ではなく、女の子になられましたなあ」


 そんな声が、エレノアの耳に届く。その言葉に、エレノアは心からの喜びを感じた。


 夜、二人は公爵邸の庭園を散策することが日課となっていた。


 満月が輝く夜空の下、エレノアはロゼの肩にそっと頭を預けた。


「ねえ、ロゼ。わたくし、本当にしあわせだわ」


「わたくしもでございます、エレノア様」


 ロゼは、エレノアの手を優しく握りしめた。二人の間に流れる空気は、穏やかで、温かく、そして限りなく甘い。


 エレノアは、ロゼの髪に顔を埋めた。その柔らかな感触と、ロゼから香る優しい匂いが、エレノアの心を安らぎで満たす。


「わたくし、前世で、復讐を誓った人間という存在が、こんなにも愛おしいと思える存在と巡り合えるなんて、夢にも思わなかったわ」


 エレノアの言葉に、ロゼはくすりと笑った。


「わたくしも、まさかお嬢様が……いえ、エレノア様が、こんなわたくしを選んでくださるとは、思いもしませんでした」


「あなたがいたからこそ、わたくしは呪いから解放され、本当の自分を取り戻せた。あなたは、わたくしの光よ」


 エレノアは、ロゼの頬にそっとキスをした。ロゼは、照れたように身を寄せた。


 そんなある日のこと。


 エレノアとロゼが、公爵執務室で父オスカー公爵と談笑していると、オスカー公爵が、どこか楽しげな表情で言った。


「そういえば、最近、東の国から取り寄せた珍しい書物を読んだのだ。なぜか妙に薄い本ばかりだったり、流麗な挿絵が多い本ばかりだったのだが」


 エレノアとロゼは、オスカー公爵に視線を向けた。


「その書物には、お前たちのような関係のことも書いてあった。彼らの国では『ガールズ・ラブ』というそうだ」


 オスカー公爵の言葉に、エレノアとロゼは、同時に顔を赤らめた。


「お、お父様っ!?」「お、お養父(とう)様っ?」


 エレノアとロゼが慌てて抗議すると、オスカー公爵は楽しそうに笑った。


「何だ、恥ずかしいことなどあるまい。女同士だからなんだというのだ。お前たちの愛は、誰にも胸を張って良いものだ」


 ルーク兄様もまた、その場に居合わせ、二人の反応を見て、静かに微笑んでいた。彼の瞳には、妹の幸せを心から祝福する、兄としての温かい愛情が宿っている。


 エレノアは、ロゼと顔を見合わせた。ロゼの頬は、林檎のように赤く染まっている。


(ガールズ・ラブ……。そうか、そんな愛の形があってもいいんだ)


 エレノアは、その言葉を心の中で反芻した。それは、身分や性別など、あらゆる壁を超えた、二人の純粋な愛を表現する、最適な言葉のように思えた。


 二人の薬指には、誓いの儀式で交換したシンプルな銀の指輪が、きらきらと輝いている。それは、宝石一つない、ただ純粋な輝きを放つ、二人の愛の証だった。


 悪役令嬢になれなかった公爵令嬢エレノア・フォン・アールデムと、元見習いメイドのロゼ。


 二人は、手を取り合い、温かい光の中で微笑んだ。


 前世で壮絶ないじめに遭い、人間への復讐を誓った少女は、この世界で、真の愛と、かけがえのない伴侶を見つけた。


 そして、全てを乗り越え、二人は共に、永遠の幸せへと歩み始めるのだった。


 二人の物語は、ようやくはじまり……まだ、途中なのだ。


 しかし、ふたりなら、かならず成し遂げるだろう。


(おまけエピソード おしまい)

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