第二十一話
エレノア・フォン・アールデムの心は、ロゼの温かい寝息に包まれながら、かつてないほどの幸福感に満たされていた。
ロゼの小さな手を握りしめ、二人の指に唇を寄せた夜。それは、エレノアが長年探し求めた安らぎと、真実の愛が通じ合った瞬間だった。
憎悪に囚われていた心が、ロゼの純粋な愛によって、完全に溶かされたのだ。
翌朝、エレノアの目覚めは、これまでで最も清々しいものだった。隣には、柔らかな寝息を立てるロゼがいる。
その寝顔を見つめるたび、エレノアの胸には、優しい温かさが込み上げた。
二人の関係は、一夜にして、主従という枠を大きく超えていた。
エレノアは、ロゼの髪を優しく撫で、そっと額にキスを落とした。ロゼは、まだ夢の中にいるのか、微かに微笑んだ。エレノアは、その純粋な笑顔を守りたいと、心から願った。
日中の公爵邸では、エレノアとロゼの親密な関係が、少しずつ、しかし確実に、周囲の目に触れるようになっていた。
エレノアは、もはや「完璧な聖女」の仮面を被る必要がない。だからこそ、ロゼに対する愛情を隠そうとはしなかった。
ロゼの手に触れる時間が長くなったり、ロゼの肩に頭を預けたり、他のメイドには見せないような親密な仕草を見せることが増えた。
ロゼもまた、エレノアの傍らに立つとき、以前よりも頬を赤らめたり、エレノアの視線に気づいてそっと微笑んだりするようになった。
「ねえ、見たかしら? エレノア様とロゼ様の様子……」
「ええ、最近、やけに親密でいらっしゃいますわね」
「まさか、あのロゼが、お嬢様の特別なご寵愛を受けているのかしら?」
メイドたちの間で、囁きが広がり始めた。最初は単なる好奇心や羨望だったが、やがてそれは、二人の関係に対する憶測へと変わっていく。
公爵令嬢と、孤児院出身のメイド。その身分の差は歴然としており、これまでの常識では考えられない関係だったからだ。
そんな中、公爵家を巡る、小さな試練が訪れた。
公爵家には、エレノアの他に、長子である長兄がいた。
名はルーク・フォン・アールデム。若くして公爵家の実務を取り仕切り、次期公爵としての評判も高い、聡明で厳格な人物だ。
彼は、エレノアの『善行の呪い』が解けたことを父から聞かされ、妹の変化には気づいていたものの、彼女とロゼの関係性については、まだ詳しく知らなかった。
アールデムの血筋には男子であるルークがいるため、エレノアの結婚や世継ぎの問題は、これまで公爵家にとって喫緊の課題ではなかった。
だからこそ、エレノアは、ルークに心配をかけることなく、ロゼとの関係を育むことができていたのだ。
ある日の午後、ルークは執務室で書類に目を通しながら、老練の執事に尋ねた。
「最近、エレノアの様子が以前にも増して穏やかになったな。頬も桃色、声もはきはきしている。喜ばしいことだ」
「はい、ルーク様。エレノア様は、このところご機嫌麗しく、以前のようなお疲れの様子も見受けられません」
執事はそう答えたが、どこか歯切れが悪い。ルークは訝しげに執事を見つめた。
「……何か、気になることでもあるのか?」
執事は躊躇いがちに、しかし正直に語り始めた。
「実は……エレノア様と、メイドのロゼの間に、少々、度を超した親密さが伺われます。もちろん、お嬢様が分け隔てなく使用人や臣民を慈しんでいらっしゃるのは、いつものことではございますが……」
執事は言葉を濁したが、その意図はルークに十分に伝わった。ルークの眉間に、深い皺が刻まれた。
(エレノアが、メイドと? まさか……)
ルークは、妹のこれまでの『聖女』としての振る舞いを知っているだけに、その報せに困惑した。エレノアは、常に完璧な令嬢であり、身分を弁えた行動を取ってきたはずだ。
ルークは、その日のうちにエレノアを呼び出した。エレノアは粛々と兄のもとを訪れた。
「エレノア。最近、お前とメイドのロゼの関係について、公爵家内で妙な噂が立っているようだが」
ルークの言葉に、エレノアは一瞬息を呑んだ。しかし、もう隠す必要はない。エレノアは、毅然とした態度でルークを見つめた。
「ルーク兄様。噂は、事実です」
エレノアの潔い返答に、ルークは大きく目を見開いた。
「エレノア! 一体何を言っているのだ!? 相手は、孤児院上がりのメイドだぞ! 公爵令嬢たるお前が、そのような関係を持つなど……公爵家の名誉に関わることだ! それに、なによりお前には素晴らしい縁談がいくらでもあるではないか!」
ルークは、厳しい口調でエレノアを叱責した。彼は、公爵家の名誉と、妹の幸福を何よりも重んじているからこそ、その感情を露わにしたのだ。
「兄様には、わたくしの気持ちは分からないでしょう。わたくしは……ロゼを、心から愛しています」
エレノアは、迷いなく告げた。その瞳には、ロゼへの確かな愛情が宿っている。
ルークは、妹の言葉に愕然とした。これほどまでに、エレノアが本気の感情を抱いているとは、思ってもみなかったのだ。
彼は、エレノアが前世の記憶と『善行の呪い』に苦しんできたことを父から聞いていた。しかし、その苦悩が、まさかこのような形で、妹の心を深く変貌させていたとは。
「ルーク兄様。わたくしは、ロゼと共に生きたい。それが、わたくしの心からの願いです」
エレノアの真剣な眼差しに、ルークは言葉を失った。
彼は、妹がこれほどまでに、誰かを深く愛する感情を抱いていたことに、驚きと、そして微かな感動を覚えた。同時に、公爵家と、妹の将来に対する不安も頭をよぎった。
ルークは、その夜、父オスカー公爵の元を訪れた。
「父上。エレノアとメイドのロゼの件ですが……」
ルークは、エレノアの告白を、正直に父に伝えた。オスカー公爵は、全てを承知していたかのように、静かに頷いた。
「ルーク。エレノアは、ずっと、我々が想像もできないような苦しみを抱えて生きてきた。そして、その苦しみからエレノアを救い出したのが、ロゼなのだ」
オスカー公爵は、エレノアが前世の記憶と『善行の呪い』に苦しんできたこと、そしてロゼとの出会いと絆が、いかにエレノアを救ったかを、ルークに語り聞かせた。
ルークは、父の言葉に、少しずつ、妹の感情を理解し始めた。
彼は、厳格ではあるが、何よりも家族を大切に思う人物だ。妹が、偽りの仮面を脱ぎ捨て、心から幸せを求めている。その事実を前にして、ルークの心は揺らいだ。
「だが、父上……公爵家としての体面が……」
「体面など、娘の幸せに比べれば、何ほどのこともない」
オスカー公爵の言葉に、ルークはハッとした。彼は、今まで公爵家と自身の役割に縛られ、本質を見失っていたのかもしれない。
ルークは、数日後、エレノアとロゼを呼び出した。
「エレノア。ロゼ。……お前たちの関係を、私は認めよう」
ルークの言葉に、エレノアとロゼは、信じられないというように目を見開いた。
「だが、一つだけ条件がある。公爵家は、お前の兄である私がしっかりと支える。お前たちは、これからは公爵令嬢とメイドとしてではなく、一人の人間として、互いを支え合い、真の愛を育んでいくのだ」
ルークの言葉は、厳格な兄としての言葉であると同時に、妹の幸せを心から願う、深い愛情に満ちていた。
エレノアは、兄の言葉に、目から大粒の涙を溢れさせた。
「兄様……っ!」
ロゼもまた、感動で言葉にならない嗚咽を漏らし、深々と頭を下げた。
兄の理解を得たことで、エレノアとロゼの関係は、公爵家において、確かなものとなった。公爵家の使用人たちも、ルーク公爵の意向を受けて、二人の関係を表面上は受け入れるようになった。
しかし、二人の関係を快く思わない貴族からの妨害や嫌がらせは、水面下で始まった。
社交界では、エレノアとロゼの親密さを訝しむ声や、公爵家の体面を貶める行為だと批判する声が上がり始めた。
エレノアは、そのような陰口や視線に、かつてのいじめの記憶が蘇り、一瞬、心がざわつくこともあった。
だが、エレノアはもう独りではない。
ある日、エレノアがロゼと共に街を散策していると、一部の貴族の取り巻きたちが、ロゼを侮辱するような言葉を投げかけてきた。
「ほう、あれが噂のメイドか。公爵令嬢に媚を売って、一体何を企んでいるのやら」
「所詮、孤児院上がりの下賤な女が、身の程を弁えず……」
ロゼは、俯き、身体を震わせた。エレノアの心に、かつての怒りが込み上げる。
だが、エレノアは、怒りに任せて行動することはしなかった。彼女は、ロゼの手を強く握りしめ、貴族たちを真っ直ぐ見据えた。
「あなた方が、何を言おうと構いません。わたくしがロゼを大切に思う気持ちは、何一つ揺らぎませんから」
「私も、お嬢様を守るためなら、どんな言葉にも負けません!」
エレノアとロゼの言葉に、貴族たちは一瞬ひるんだ。その毅然とした態度に、彼らは何も言い返すことができなかった。
ロゼは、エレノアの言葉と、その温かい手に、顔を上げてエレノアを見つめた。その瞳には、エレノアへの深い信頼と、そして愛情が宿っていた。
エレノアは、ロゼと共に、そうした小さな試練を一つ一つ乗り越えていった。
それは、二人の絆を、より強固なものにしていくことだった。
エレノアは、真の幸せを掴むためには、こうした困難を乗り越える必要があることを、ロゼと共に学び始めていた。
(つづく)




