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第二十話

 エレノア・フォン・アールデムは、胸の奥でトクン、と鳴った鼓動に、静かに目を見開いた。


 公爵邸の図書室に差し込む夕焼けの光が、ロゼの黒髪を茜色に染め上げていた。


 ロゼの小さな手が、エレノアの指をそっと包み込む。


 その温かさは、エレノアがこれまで経験したどんな奇跡よりも、確かなものだった。


 絵本の読み聞かせを終えた後、ロゼが零した「夢のような心地」という言葉。


 そして、エレノアの手に重ねられた、ロゼのやわらかい指。


 それらがエレノアの心を、これまで経験したことのない甘く、そして戸惑いを伴う感情で満たしていた。


(これは……何?)


 エレノアは、自分の心に生まれたばかりの感情に、名前をつけることができなかった。


 友情、信頼、家族愛。


 これまでロゼに抱いていた感情は、確かにそれらのどれにも当てはまる。


 しかし、今この瞬間、ロゼに触れているこの感覚は、それら全ての感情を凌駕するほど、特別で、そして胸を締め付けるほど切ないものだった。


 それは、まるで春の嵐のように突然訪れ、エレノアの心の奥底を揺さぶる、抗いがたい力を持っていた。


 エレノアの凍り付いた感情が、ロゼの温かさによって、少しずつ、しかし確実に溶かされていくのを感じた。


 エレノアは、ロゼの顔をゆっくりと見つめた。夕日に照らされたロゼの横顔は、いつもより少し幼く、そしてほんのりと赤く染まっている。その瞳は、エレノアを見上げ、期待と、そして微かな不安を宿していた。


(まさか……私が、この子に……?)


 エレノアの脳裏に、前世で読み漁った『悪役令嬢もの』のライトノベルの描写が蘇った。


 主人公が、攻略対象の男性に抱く『恋心』。その甘酸っぱさ、胸の高鳴り、そして相手を独り占めしたいと願う独占欲。


 それら全てが、今、エレノア自身の心の中で、ロゼに対して沸き上がっていることに気づいたのだ。


 それは、まさに小説の中で読んだ感情と寸分違わず、エレノアを混乱させた。


 なぜ、自分が、最もいじめた相手に、このような感情を抱くのか。なぜ、憎むべき人間に対して、これほどまでに心が高鳴るのか。


 エレノアは、自身の過去の行いを思い出し、激しい自己嫌悪に襲われた。


 あの、ロゼを傷つけた数々の悪意。それらが、今、この温かい感情の前に、あまりにも醜く、愚かに思えた。この愛は、罰なのか、それとも赦しなのか。エレノアの心は、激しい問いかけに揺れ動いた。


 それは、エレノアにとって、あまりにも衝撃的な発見だった。前世でいじめられ、人間への復讐を誓ったエレノアが、この世界で、まさか、人を『愛する』という感情を抱くとは。


 しかも、その相手が、かつて自分が『いじめ』の対象として、精神的に追い詰めようとしたメイドのロゼだという事実に、エレノアの心は激しく動揺した。


 しかし、その動揺の中に、微かな、しかし確かな『幸福感』が芽生え始めていた。その幸福感は、これまでの『善行の呪い』による空虚な称賛とは全く異なる、魂の奥底から湧き上がるような、本物の温かさだった。


 ロゼはまどろみの中で、エレノアの沈黙に不安になったのか、重ねていた手を少しだけ引こうとした。


 その小さな動きに、エレノアの心臓は再び大きく跳ねる。


 ロゼの僅かな戸惑いが、エレノアの心を焦燥させた。


 この温かさが、この光が、消えてしまうのではないかという、根源的な恐怖がエレノアの心を支配した。


「お、お嬢様……?」


 その声に、エレノアはハッとして、ロゼの手をそっと握りしめ直した。まるで、大切な宝物が指の間からこぼれ落ちてしまうのを恐れるかのように、強く、しかし優しく。


「……お願い、はなさないで……」


 その手は、エレノアの心の奥底に眠っていた、誰かに触れ、触れられたいという、純粋な願望を呼び覚ますようだった。


「……ロゼ」


 エレノアは、震える声でロゼの名を呼んだ。


 その声は、完璧な公爵令嬢のものではなかった。


 ただ一人の、恋に戸惑い、そして初めての感情に震える少女の声だった。その声には、長年の孤独と苦悩が溶け込み、今、ようやく本心を曝け出せる相手を見つけた安堵が滲み出ていた。


 ロゼは、エレノアに握られた手に、少しだけ力を込めた。


 その小さな手が、エレノアの心を温かく包み込む。ロゼの手のひらから伝わる体温が、エレノアの全身にじんわりと広がり、心の奥深くを溶かしていく。


 それは、エレノアの凝り固まった心を解き放ち、新たな感情の扉を開く鍵となるようだった。


 二人の間に、甘い沈黙が再び訪れた。エレノアは、ロゼの瞳を真っ直ぐ見つめた。


 その瞳の奥には、エレノアと同じような、戸惑いと、しかし確かな愛情が宿っていることを、エレノアは感じ取った。


 言葉を交わさずとも、二人の心が共鳴し合っているのが分かった。


 互いの心が、まるで磁石のように強く引き合い、一つになろうとしている感覚。


 エレノアは、ロゼの手を握ったまま、ゆっくりと、しかし確かな声で語りかけた。一言一言、心の中で何度も反芻し、偽りのない真実だけを紡ぎ出すように。


「ロゼ……わたくしは……あなたが、大切よ。誰よりも、何よりも……。この世の何物にも代えがたい、わたくしの光……」


 その言葉は、エレノアの心の奥底から、偽りのない真実として溢れ出たものだった。


 それは、かつて憎悪と復讐に囚われていたエレノアが、初めて心から誰かに向けた、純粋な愛の告白だった。


 ロゼは、エレノアの言葉に、大きく目を見開いた。その瞳から、大粒の涙が、ポロポロと溢れ始めた。その涙は、夕日の光を反射して、きらきらと輝いていた。


「お、お嬢様……っ!」


 ロゼは、嗚咽を漏らしながら、エレノアの手を、両手で包み込むように握りしめた。


 その涙は、悲しみではなく、純粋な喜びと、そしてエレノアへの深い愛情から来るものだった。


 ロゼの震える指先が、エレノアの指に絡みつき、離そうとしない。まるで、この瞬間が永遠に続くことを願うかのように。


「わたくしも……っ、お嬢様が……っ、大切でございます……っ。お嬢様が……っ、わたくしを……っ、受け入れてくださってから……っ、わたくしの世界は……っ、光に満ちています……っ。お嬢様は……わたくしの、太陽でございます……っ。わたくしの、全て……っ」


 ロゼは、そう言うと、エレノアの身体にそっと顔を埋めた。その小さな身体が、エレノアの腕の中にすっぽりと収まる。


 エレノアは、ロゼの温かい身体を抱きしめ、その柔らかな髪を優しく撫でた。ロゼの震える声と、温かい吐息がエレノアの首筋にかかり、ゾクンと背筋に甘い電流が走る。それは、肉体的な感覚を超え、魂が触れ合うような、抗いがたい幸福感だった。


 エレノアは、ロゼの純粋な愛情に触れ、改めて自身の心に芽生えた感情が『恋』を超えた『愛』であることを確信した。


 それは、前世でいじめられ、人を信じることをやめたエレノアにとって、奇跡のような出来事だった。


 憎悪に囚われていた心が、ロゼによって、真の愛を知ることができたのだ。


 ロゼの存在は、エレノアにとって、暗闇の中を照らす一筋の光であり、凍てついた心を溶かす温かい炎だった。ロゼは、エレノアが人生で初めて見つけた、真実の幸福の源だった。


 エレノアは、ロゼの存在が、もはや自分にとって悪意の捌け口でもなければ、歪んだ自己確認の道具でもないことを悟った。


 ロゼは、エレノアの心の傷を癒やし、エレノアに人間としての感情を取り戻させてくれた、唯一無二の存在だった。そして、何よりも、エレノアが心から愛し、守りたいと願う、大切な人だった。この子のためならば、どんな困難も乗り越えられる。そう、エレノアは確信した。


 その夜、エレノアはロゼと共に、静かに寝台に横たわっていた。


 公爵令嬢とメイド。身分の差は歴然としていた。


 しかし、二人の間には、その差を乗り越える、確かな絆と愛情があった。


 身分や過去、そして世間の目など、二人の心を繋ぐ糸の前では、何の意味も持たなかった。


 二人の魂は、今、完全に一つになったかのように感じられた。


 エレノアは、ロゼの小さな手を握りしめ、そっと唇を寄せた。ロゼは、少しだけ身体を震わせたが、拒絶することなく、エレノアの唇を受け入れた。


 触れ合った唇から、温かい体温と、微かな甘さが伝わる。それは、二人の間に芽生えた『愛』が、確かに通じ合った瞬間だった。


 エレノアの心は、これまでの全ての苦痛と孤独が、この瞬間のためにあったのだと、理解した。


 エレノアの心は、幸福感に満たされた。この温かい感情が、ずっと、永遠に続いてほしい。エレノアは、ロゼの温かい手を感じながら、心からそう願った。


 この手だけは、絶対に離さない。何度転生しても、どんな世界にいても、この温かさだけは、もう二度と手放さないと誓った。


 ロゼは、エレノアの腕の中で、安らかな寝息を立てていた。


 その寝顔は、まるで無垢な子供のようだった。エレノアは、その寝顔を見つめながら、これからロゼと共に歩む未来に、限りない希望を見出していた。


 外は、満月が輝き、夜空には無数の星が瞬いていた。まるで、二人の新しい始まりを祝福しているかのように。

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