第二話
エレノア・フォン・アールデムの心は、あの日以来、得体のしれない高揚感と、それから一層の虚無感に苛まれていた。
ロゼという名の小動物のようなメイドを見つけたことで、長年の復讐計画にようやく具体的な標的が定まった喜びと、しかし、それ以外のあらゆる悪行が「善行の呪い」によって捻じ曲げられてしまうという絶望。
その二つの感情が、エレノアの心の中で渦を巻いていた。
「まったく、忌々しいわね」
朝食のテーブルで、エレノアは冷めたミルクティーを一口啜った。完璧に焼き上げられたトーストも、瑞々しい果物も、彼女の食欲を刺激しない。
全てが「聖女エレノア様のために」と、心を込めて作られたものだと知っているからだ。
この数日も、エレノアは様々な「悪行」を試みた。父の書斎で高価な書類を破り捨てようとすれば、それが実は秘密裏に進行していた汚職事件の証拠となり、父は「エレノア、お前のおかげだ!」と感涙した。
執務室の窓から高価な花瓶を投げ捨てれば、それが偶然、不審者めいた男の頭をかすめ、結果的に公爵家への侵入を阻止したとして、警備隊から感謝状が贈られた。
しまいには、夜中に城の地下にある古文書庫に忍び込み、貴重な文献を燃やしてやろうと火をつけたら、なぜかその火が地下に溜まっていた毒ガスを燃焼させ、長年公爵家を悩ませていた謎の病気の原因を絶つことになったのだ。
その結果、領民たちは口々に「慈愛のエレノア様が、我々を病魔から救ってくださった!」と歓喜し、城下では盛大なパレードが行われた。
エレノアはパレードの馬車の上で、にこやかな笑顔を貼り付けながら、内心では絶叫していた。
(違う! 違うわ! 私は病気を治したかったわけじゃない! 文献を燃やして、父の頭を悩ませたかっただけなのに!)
この『善行の呪い』は、あまりにも強固だ。私がどれだけ悪意を込めて行動しても、結果は常に最善へと導かれてしまう。
だが、ロゼだけは違う。いや、違うようにしてやる。
エレノアは、ふと視線を向けた先にいる、テーブルの端で食器を並べている小柄なメイドの姿を捉えた。黒髪のショートカットが、朝日にきらめいている。
彼女には、この呪いが効かない。いや、効かせない。決して効かせてなどやらない。
エレノアは、ロゼを攻撃することで、人間への復讐を果たすことを心に誓った。それは、前世の自分が受けた苦痛を、そのまま彼女に与える行為だ。
その行為だけは、私の手で、確実に、悪として成立させたい。
「ロゼ」
エレノアが名を呼ぶと、ロゼはびくりと肩を震わせ、慌てて振り返った。その黒い瞳は、エレノアへの怯えと、しかし確かな期待を宿している。
「は、はい! お嬢様!」
「紅茶が冷めているわ。淹れたてのものを、もう一度お願いするわね。……ふふ、あなたのような無能なメイドには、これくらいが限界なのかしら?」
エレノアは、前にも増してねちねちと、嫌味を込めて言った。彼女の心には、「早く熱い紅茶をこぼして、この子の顔にでもかけてやりたい」という、どす黒い感情が渦巻いている。
ロゼは、申し訳なさそうに頭を下げた。
「も、申し訳ございません! すぐに淹れたてをお持ちいたします!」
そう言って小走りでキッチンに向かうロゼの背中を見ながら、エレノアは密かに舌打ちした。
(まだ甘いかしら。もっと、もっと、この子を追い詰めるようなことをしないと……)
数分後、湯気を立てる紅茶を運んできたロゼは、緊張した面持ちでエレノアの前に立った。
「お嬢様、淹れたての紅茶でございます」
エレノアはわざと、トレーに乗せられたカップの縁を指で弾いた。カチャリ、と軽い音を立てたカップが揺れ、中の紅茶が波紋を描く。
「あら、手が滑ってしまったわ」
エレノアは微笑みながら、わざとらしくカップを傾けた。熱い紅茶が、ロゼの白いメイド服の胸元に、じわりとシミを作っていく。
「ひっ……!」
ロゼは小さな悲鳴を上げ、思わず身を引いた。顔は真っ青になり、紅茶の熱さで肌が赤くなっている。
(ふふ……どう? 熱かったでしょう? これくらい、前世の私に比べればなんてことないわ。もっと、もっと苦しみなさい)
エレノアは冷酷な笑みを心の中で浮かべた。
「あら、ごめんなさいね。私の手が滑ってしまったようだわ。あなたも、もう少し注意しなさい。こんなところで怪我でもされたら、私の教育が行き届いていないと、周囲に誤解されてしまうでしょう?」
エレノアは、一見心配しているような口調で、しかし冷たい視線をロゼに向けた。
ロゼは震える手で服のシミを抑えながら、エレノアを見上げた。その瞳には、痛みと、困惑と、そしてやはり、どこか期待のような色が混じっていた。
「お、お嬢様……わたくしの、身を案じてくださったのですか……?」
ロゼはそう呟くと、再び目に涙を溜め始めた。
「わたくしのような未熟者が、お嬢様のお手を煩わせてしまって……! 申し訳ございません! すぐに着替えて参ります!」
そう言って、ロゼは深々と頭を下げ、慌てて部屋を飛び出していった。
エレノアは、残されたカップをテーブルに置き、苛立ちで唇を噛んだ。
(なんなのよ、あの反応は!? 熱い紅茶をぶっかけたのに、なんで感謝されるのよ!?)
彼女の脳裏には、前世でいじめっ子に泥水をかけられた時の、屈辱と怒りが蘇る。しかし、ロゼは、あの時の自分とは全く違う反応を示した。……そして、ロゼの体を直接的に傷つける、という自身の行いに、後悔を覚えた。暴力は、間違っていた。
しかしエレノアは、ロゼが自分を慕い、自分の言葉を善意として受け取ることに、強い苛立ちと、微かな居心地の悪さを感じていた。それは、彼女の復讐心を鈍らせる、予期せぬ感情だった。
その日の午後。エレノアはロゼに、普段は執事が掃除するはずの、城の最も古く、埃っぽい書庫の掃除を命じた。
「ロゼ、この書庫の掃除は、あなたに任せるわ。隅々まで、塵一つ残さず綺麗にしなさい。ただし、本に傷一つ付けてはならないわよ? あなたが無能でないことを、ここで証明してみせるがいいわ」
エレノアは、わざと高飛車に、そして冷たく言い放った。こんな面倒な仕事を押し付ければ、ロゼはきっと音を上げるだろう。
しかし、ロゼは目を輝かせた。
「は、はい! お嬢様! わたくしに、このような大役を任せてくださるのですか!」
ロゼは満面の笑みでそう言うと、張り切って書庫へと向かっていった。
エレノアは、数時間後に書庫を訪れた。真っ暗な書庫の中で、ロゼが埃まみれになりながら、黙々と作業を続けている。
「どうかしら? 進んでいる?」
エレノアが声をかけると、ロゼは振り返り、顔を煤で汚しながらも笑顔を見せた。
「はい! お嬢様! 大変でございますが、たくさんの本に触れることができて、とても勉強になります! おかげで、もっとお嬢様のお役に立てるメイドになれると確信いたしました!」
ロゼは、埃だらけの指で、嬉しそうに古びた本の背をなぞった。
エレノアは言葉を失った。埃と煤にまみれ、汗だくになっているロゼの姿は、悲惨の一言に尽きるはずなのに、なぜか彼女は輝いて見えた。
(この子、本当に頭がおかしいんじゃないの……?)
エレノアは内心で毒づいた。自分のいじめが、ロゼにとって「成長の機会」になっていることに、エレノアは怒りよりも、ある種の畏怖すら感じ始めていた。
他のあらゆる「悪行」が善行に転じる中、ロゼへの「いじめ」だけが、唯一呪いの影響を受けずに、悪として成立している。
だが、その悪すらも、ロゼの純粋な心によって、彼女自身の糧になっているように見えた。
エレノアは、いじめの効力に疑念を抱き始めた。このままでは、ロゼが傷つくどころか、ますます成長してしまうのではないか。
(もっと……もっと苛烈なことをしないと……。この子を、確実に、壊してやらないと……!)
エレノアの心に、より深く、よりねじれた悪意が宿っていく。
しかしその根底には、ロゼの純粋さに対する、拭い去れない困惑と、ほんのわずかな恐怖が混じり始めていた。
(つづく)




