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第十九話

 エレノア・フォン・アールデムは、自室の窓から差し込む朝日に目を細めた。


 世界は、以前と同じ色をしているのに、エレノアの目には、まるで別の場所にいるかのように鮮やかに映っていた。


 あの『善行の呪い』が解けてから、日々が、まるで生まれたばかりの雛鳥が初めて空を飛ぶかのように、新鮮な驚きに満ちている。


 彼女の行動が、ついに「意図通り」の結果をもたらすようになったのだ。


 ある日、エレノアはふと、これまで『聖女』として祭り上げられることに苦しんできた反動か、少しばかり「悪戯」を試みたくなった。


 深夜、公爵邸の裏庭に忍び込み、新しく植えられたばかりの薔薇の苗木を、一本だけ引き抜いてやろうと考えたのだ。誰にも気づかれず、ただの小さな「悪行」を犯すことで、自分の『悪役令嬢』としての自我が、まだ健在であることを確かめたかった。


 しかし、闇夜の中、足元が定まらず、エレノアは盛大に転倒した。その拍子に、彼女が引き抜こうとしていた薔薇の苗木は、土から抜け落ちるどころか、根元がさらに深く土に埋まってしまった。


「いったぁ……!」


 小さな悲鳴を上げたエレノアのすぐそばで、寝ずの番をしていた夜警の騎士が、慌てて駆け寄ってきた。


「お嬢様!? こんな夜更けに、一体何をなさって……!」


 騎士の困惑した声に、エレノアは顔を赤らめた。これまでなら、どんな不審な行動も『聖女の深遠なるお考え』として解釈されてきたはずなのに、今はただの「深夜の不審な行動」として見られている。


「その……少し、夜風に当たろうかと……」


 エレノアはしどろもどろに言い訳をした。騎士は訝しげな視線を向けたまま、エレノアが転んだことで荒れた土を直そうと腰をかがめた。すると、騎士は驚いたように声を上げた。


「おお、お嬢様! これは……!?」


 見れば、エレノアが足元でいじっていた薔薇の苗木が、転んだ拍子に偶然、土中にあった水源に触れ、以前よりも活力を増しているように見えた。さらに、その根元に偶然あった小さな土の塊が、土壌改良に最適な珍しい鉱物だと判明したのだ。


「まさか、お嬢様は、深夜に密かに庭園の土壌を視察し、水源を発見し、さらには改良までなさっておられたとは……! 流石は慈愛のエレノア様!」


 騎士は感極まった様子で、エレノアに深々と頭を下げた。

 エレノアは、その言葉に絶望に似た疲労を感じた。


(違う! 違うわ! 私はただ、苗木を抜いて、小さな悪事を働きたかっただけなのに……!)


 『善行の呪い』は、確かに解けたはずなのに、周囲の人間たちのエレノアに対する認識は、あまりにも強固だった。


 彼女がどんなに普通の行動をしても、彼らはそれを『聖女エレノア様』の偉業として解釈してしまうのだ。


 エレノアは、自室に戻ると、ロゼにその日の出来事を愚痴った。


「ロゼ、聞いてちょうだい! 私がただ転んだだけなのに、騎士がまた勝手に深読みして、私を聖女に祭り上げるのよ! もう、嫌になるわ!」


 エレノアは、むすっとした表情でロゼに訴えた。ロゼは、エレノアの愚痴に、くすりと笑った。


「でも、お嬢様。それは、お嬢様が本当に素晴らしい方だからですよ」


「違うわ! 私はもう聖女なんかじゃないのよ! 私は悪役令嬢になりたいの!」


 エレノアが頬を膨らませると、ロゼはさらに楽しそうに微笑んだ。


「ええ、存じております。けれど、無理ですよ」


「なんでロゼまでそんなこと言うの?」


「お嬢様は、優しいお嬢様でございますから」


「う……うぅ」


 ロゼの言葉は、エレノアの心を温かく包み込んだ。世間がどう思おうと、ロゼはエレノアを、ただ一人の「エレノア」として見てくれている。そのことが、エレノアにとって何よりも大切なことだった。


 エレノアは、ロゼとの日々の触れ合いの中で、少しずつ、前世の傷を癒やしていった。


 ロゼの純粋な優しさが、エレノアの心の奥底に染み込み、長年凍り付いていた感情を溶かしていく。


 ロゼもまた、エレノアの傍で、メイドとして、そして一人の人間として、めきめきと成長していった。

 エレノアの言葉は、もはや「いじめ」ではなく、ロゼの成長を促すための「指導」や「助言」として機能していた。


 ある日のこと、公爵家主催の茶会で、エレノアはうっかり紅茶のカップを落としそうになった。その際、とっさに手が滑り、紅茶が床にこぼれてしまった。かつての『善行の呪い』ならば、これが何らかの「奇跡」に繋がっていたかもしれないが、今回はただの「ドジ」だった。


「ああっ、お嬢様!」


 周囲の侍女たちが慌てて駆け寄ってくる。エレノアは、顔を赤くして謝罪した。


「ごめんなさい! 手が滑ってしまって……」


 すると、そこにロゼが素早く駆けつけ、手際よく布巾で紅茶を拭き取り始めた。その動きは、以前の不器用なロゼからは想像もできないほど、洗練されたものだった。


「お嬢様、みなさま、お怪我はございませんか? お召し物が汚れた方はいらっしゃいませんか?」


 ロゼは、エレノアと、周囲の面々の顔を見て回った。その瞳には、純粋な優しさが宿り、その所作には、主任メイドを任せられるほど、見事なものだった。


「ええ、大丈夫よ。ありがとう、ロゼ。助かったわ」


 周囲の貴族たちは、エレノアの「ドジ」な一面と、ロゼの素早い対応を見て、ざわめき始めた。


「あら、エレノア様も、やはりお年頃の令嬢ですわね。微笑ましいこと」


「だが、あのメイドは素晴らしい。エレノア様の教育が行き届いている証拠だ」


 エレノアは、またもや複雑な表情を浮かべた。自分のドジが、ロゼの褒め言葉に繋がるのは嬉しいが、相変わらず『聖女』としての深読みは健在だ。


(いつになったら、私はただの『エレノア』として見てくれるのかしら……)


 しかし、エレノアの心は、以前のように絶望することはなかった。隣にはロゼがいてくれる。その事実が、エレノアに、困難な状況を乗り越える力を与えていた。


 エレノアとロゼは、これまで以上に多くの時間を共に過ごすようになった。


 公爵邸の庭園を散策したり、書庫で本を読んだり、時には二人でこっそりキッチンに忍び込んで、簡単な菓子作りに挑戦したりもした。


 菓子作りでは、エレノアがレシピを読み間違えて材料を入れすぎたり、火加減を間違えて焦がしてしまったりと、失敗ばかりだった。そのたびに、ロゼはくすくす笑いながら、エレノアの失敗をフォローしてくれた。


「お嬢様、大丈夫ですよ。次はきっとうまくいきます!」


 ロゼの励ましに、エレノアは素直に笑うことができるようになった。


 失敗を恐れず、新しいことに挑戦する楽しさを、エレノアはロゼから学んでいた。


 それは、前世で「失敗は許されない」「失敗したらもっといじめられる」と常に完璧を求められていたエレノアにとって、かけがえのない経験だった。


 そんな穏やかな日々の中で、エレノアとロゼの間に流れる空気は、明らかに変化していた。


 エレノアがロゼに触れる手つきは、より優しく、そして意識的になった。


 ロゼもまた、エレノアの視線に気づくと、頬をほんのり染め、少しだけ俯くようになった。


 二人の間に芽生えた感情は、友情というにはあまりにも深く、そして甘いものだった。


 ある日の夕暮れ。公爵邸の図書室で、エレノアはロゼに、絵本の読み聞かせをしていた。それは、ロゼが幼い頃、孤児院で唯一読ませてもらえた、大切な絵本だった。


「……そして、王子様は、お姫様を優しく抱きしめ、二人は永遠に幸せに暮らしました、とさ」


 エレノアが読み終えると、ロゼは静かに目を閉じていた。


「ロゼ?」


 エレノアが声をかけると、ロゼはゆっくりと目を開け、エレノアを見つめた。その瞳は、夕焼けの色を映して、どこか潤んでいるようだった。


「お嬢様……。わたくし、夢のような心地でございます」


 ロゼは、そう言って、エレノアの手に、自分の小さな手を重ねた。エレノアの指が、ロゼの指をそっと包み込む。


 二人の間に、甘い沈黙が流れた。エレノアの心臓が、トクン、と大きく鳴った。ロゼの温かい手が、エレノアの心を、優しく撫でている。


 それは、エレノアにとって、生まれて初めての、純粋で、温かい「恋心」の萌芽だった。ロゼもまた、エレノアの心と同じように、深い愛情を育んでいることを、エレノアは確信した。


 この穏やかな日々が、永遠に続いてほしい。エレノアは、ロゼの温かい手を感じながら、心からそう願った。


(つづく)

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