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第十八話

 エレノア・フォン・アールデムは、朝の光が差し込む自室で、ロゼが淹れてくれた紅茶を一口飲んだ。

 熱すぎず、ぬるすぎない、完璧な温度。


 そして、エレノアの好みを正確に捉えた、優しい甘さ。それは、かつてエレノアがロゼに意地悪く「紅茶が冷めている」と嫌味を言っていた日々からは想像もできない、温かい一杯だった。


 父オスカー公爵とロゼに、自身の全てを打ち明けてから数週間が経った。


 あの夜以来、エレノアの心は、まるで長年覆われていた分厚い氷が溶け出すように、温かい感情で満たされていった。


『善行の呪い』は完全に消え去り、エレノアの行動は、意図した通りの結果をもたらすようになった。


 うっかり何かを落とせば、それはただの「ドジ」として扱われ、誰もそれを深読みして「偉業」などとは言わない。


 誰かに嫌味を言えば、相手は素直に眉をひそめ、気分を害する。その当たり前の反応が、エレノアには何よりも尊く、心からの安堵を与えた。


 公爵家の人々や領民たちのエレノアに対する認識は、まだ完全には変わっていない。彼らは依然としてエレノアを『慈愛の聖女』と呼び、その行動の一つ一つを深読みし、称賛する。


 しかし、エレノアはもう、その偽りの評価に苦しむことはなかった。父が、そしてロゼが、ありのままの自分を受け入れてくれている。その確かな絆がある限り、エレノアはもう、誰の目も気にすることなく、自分自身の足で歩んでいけると感じていた。


 ロゼとの関係は、エレノアの心の解放に何よりも大きな影響を与えた。


 以前のような主従関係は、もはや形骸化していた。エレノアがロゼを「いじめ」の対象としていた頃の、あの歪んだ関係性は、温かい信頼と、互いを思いやる心へと変貌を遂げたのだ。


 ロゼは、エレノアの過去の苦しみを理解し、それでもエレノアを慕い続けることを選んでくれた。その純粋な愛情が、エレノアの凝り固まった心を少しずつ解きほぐしていった。


 ロゼは、もうエレノアを恐れてはいない。エレノアの言葉に怯えることもなく、その瞳には、以前のような虚ろな光は一切見られなかった。代わりに、エレノアに向けられるのは、深い信頼と、そして微かな甘えが混じった、柔らかい眼差しだった。


 ある日の午後、エレノアは自室のバルコニーで読書をしていた。その傍らには、ロゼがテーブルの整理をしていた。静かで穏やかな時間。エレノアは、ふと、ロゼの動きが以前よりも格段に洗練されていることに気づいた。


「ロゼ。あなたのメイドとしての腕、随分と上がったわね」


 エレノアが言うと、ロゼは作業の手を止め、少し照れたように微笑んだ。


「お嬢様のご指導のおかげでございます。以前のわたくしでしたら、こんなに効率よく作業を進めることなどできませんでした」


 ロゼの言葉に、エレノアは複雑な気持ちになった。ロゼの成長は、確かにエレノアの「いじめ」によって促された部分も大きい。


 しかし、エレノアはもう、そのことを悔やむだけでなく、ロゼがその経験を自身の糧にしたことを、心から称賛できるようになった。


「そうね。あなたの努力も、素晴らしいものよ」


 エレノアは、心からの笑顔でロゼに言った。ロゼは、エレノアのその笑顔を見て、嬉しそうに目を細めた。以前は決して見せなかった、心からの、飾り気のない笑顔だった。


 エレノアは、ロゼに、これまで自分一人で抱え込んできた悩みや、他愛ない日常の出来事を話すようになった。完璧な令嬢としての振る舞いから解放されたことで、エレノアは、まるで子供のように、ロゼに甘えることもあった。


 ある夜、エレノアは、公爵家の一員として出席しなければならない退屈な晩餐会から戻り、疲弊しきっていた。


「ああ、もう嫌だわ、ロゼ。あの人たちの顔を見るのも嫌になる」


 エレノアは、ドレスのコルセットを緩めながら、ロゼに愚痴をこぼした。かつてなら、誰にも見せなかった弱い部分だ。


 ロゼは、エレノアの背中に回り、慣れた手つきでコルセットを解いてくれた。


「お疲れ様でございます、お嬢様。わたくしが、お嬢様の肩をお揉みしましょうか?」


 ロゼは、優しい声で尋ねた。その手は、小さくても、エレノアの疲れを癒やす温かさを持っていた。


「ええ、お願いするわ」


 エレノアは、素直に甘えた。ロゼの指が、エレノアの肩を優しく揉む。その心地よさに、エレノアの強張っていた心がゆっくりと解けていくのを感じた。


「お嬢様は、本当に大変でいらっしゃいますね。わたくしには、お嬢様のお気持ち、少しだけですが、分かります……」


 ロゼの言葉に、エレノアは振り返った。ロゼの瞳は、エレノアへの深い共感と、そして温かい愛情に満ちていた。ロゼは、エレノアの苦悩を、表面的な部分だけでなく、心の奥深くで理解しようとしてくれていたのだ。

「ありがとう、ロゼ。あなたがいてくれて、本当に良かった」


 エレノアは、ロゼの小さな手をそっと握った。ロゼは、エレノアの温かい手に、少しだけ驚いたように目を見開いたが、すぐに嬉しそうに微笑み、エレノアの手を握り返してくれた。


 ロゼもまた、エレノアに本心を打ち明けるようになった。


 彼女は、孤児院での生活のこと、公爵家に来てからの不安、そしてエレノアへの「指導」に対する戸惑いや、それでもエレノアを慕い続けた理由などを、訥々(とつとつ)と語った。


「お嬢様が……わたくしを『無能』と仰った時も、わたくし、悔しい気持ちよりも、もっと頑張らなくては、と……」


 ロゼがそう言うと、エレノアは思わずロゼの手を強く握りしめた。

「ごめんなさい、ロゼ。本当に酷いことを……」


「いいえ、お嬢様。あの時のわたくしには、お嬢様のお言葉が、奮い立たせるための叱咤激励のように聞こえたのです。わたくしは、お嬢様がわたくしに、期待してくださっているのだと、そう思っていましたから……」


 ロゼの言葉は、エレノアの心を切なくさせた。


 エレノアの悪意が、ロゼの純粋さによって、ここまで捻じ曲げられていたのだ。


 しかし、その「捻じ曲げられた善意」が、ロゼを成長させ、そして今の二人の関係を築いた。その事実に、エレノアは深い感慨を覚えた。


 エレノアは、以前よりもずっと、素直に感情を表現できるようになった。嬉しければ心から笑い、悲しければ素直に涙を流す。完璧な令嬢としての仮面を脱ぎ捨てたエレノアは、人間らしい喜怒哀楽を取り戻し、その表情は以前よりもずっと豊かになった。


 公爵家の人々も、エレノアの変化に気づき始めていた。以前のような、どこか冷たく完璧すぎた令嬢ではなく、より人間らしく、親しみやすいエレノアの姿に、彼らは徐々に惹かれ始めていた。


 もちろん、まだ『聖女』というレッテルは簡単には剥がれないが、エレノアはもう、そのことに苦しむことはなかった。


 彼女は、ロゼとの日々の触れ合いの中で、少しずつ、前世の傷を癒やしていった。


 ロゼの純粋な優しさが、エレノアの心の奥底に染み込み、長年凍り付いていた感情を溶かしていく。


 それは、エレノアにとって、まるで新たな人生の始まりだった。復讐心に囚われていた日々は過去となり、これからはロゼと共に、真の幸せを築いていく。その未来が、エレノアの心を温かい光で満たしていた。


 エレノアは、ロゼの小さな手を握りしめ、静かに、しかし確かな幸せを噛み締めていた。

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