第十七話
エレノア・フォン・アールデムは、公爵家の広間での告白を終え、ロゼと共に自室へと戻っていた。
広間には、エレノアの言葉が残した波紋が、まだ静かに広がっているだろう。
誰もエレノアを裁こうとはしなかったが、それは赦されたわけではない。真実の重みが、人々の心に確かな跡を残したはずだ。
エレノアの心は、不思議なほど穏やかだった。裁かれる覚悟で臨んだ告白は、エレノアに新たな解放感をもたらした。
父に全てを打ち明け、『善行の呪い』から解放されたエレノアは、もはや偽りの仮面を被る必要がない。
人々の目に自分がどう映るか、完璧な令嬢として振る舞わなければならないという強迫観念から、少しずつ自由になり始めていた。
その隣には、いつもロゼがいた。広間での告白の間、ロゼは一言も発さず、ただエレノアの隣に寄り添い、共に涙を流してくれていた。その純粋な共感が、エレノアの心をどれほど支えたか、言葉では言い表せない。
ロゼは、エレノアにとって、もはやただのメイドではなかった。彼女は、エレノアの最も深い秘密を知り、それでも隣にいてくれる、かけがえのない存在だった。
自室に戻ると、エレノアはロゼに微笑みかけた。
「ロゼ、今日はありがとう。あなたがいてくれて、本当に心強かったわ」
ロゼは、まだ涙の跡が残る顔で、しかし嬉しそうに微笑んだ。
「お嬢様が、ご自身の心のままに話されたこと、わたくし、とても……嬉しかったです」
ロゼの言葉は、エレノアの心を温かく包み込んだ。ロゼは、エレノアが『聖女』の仮面を脱ぎ捨て、一人の人間として真実を語ったことを、心から喜んでくれているのだ。
その日の夜。公爵執務室に、エレノアとロゼは、父オスカー公爵と共にいた。
オスカー公爵は、エレノアに全てを打ち明けられた夜から、娘の過去の苦しみに深く心を痛めていた。エレノアの転生の話、壮絶ないじめの記憶、そして復讐を誓いながら『善行の呪い』に苦しんできたこと。全てが彼の想像を絶するものだった。
「エレノア。今日は、よくぞ皆に真実を話してくれた。お前のその心の強さは、並大抵のものではない」
オスカー公爵は、エレノアの頭を優しく撫でた。
「だが、まだ話していないことがあるだろう? お前が、あの日本という世界で、具体的にどんな苦しみを味わってきたのか……。もし、話せるのなら、私とロゼに聞かせてほしい」
オスカー公爵の言葉に、エレノアは息を呑んだ。父は、エレノアの心の奥底に封じ込めていた、最も辛い過去に触れようとしていた。ロゼもまた、不安げな、しかし真剣な眼差しでエレノアを見つめている。
エレノアは、一瞬ためらった。あの忌まわしい記憶を、再び口にするのは、あまりにも苦痛だ。
しかし、父とロゼは、エレノアが『人間』として生きることを受け入れてくれた、大切な存在だ。
彼らに、自分の全てを知ってほしい。そうすることで、エレノアは、本当に過去を乗り越えられるのかもしれない。
エレノアは、深呼吸をした。
「……はい、お父様。ロゼ。全て、お話しします」
エレノアは、前世での自分の名前、『伊地和ルイ』として生きていた頃の記憶を、ゆっくりと、しかし鮮明に語り始めた。
「私は……『伊地和ルイ』という、どこにでもいる日本の女子高生――こちらでいう高級学校の在籍者でした」
エレノアの言葉に、オスカー公爵とロゼは、真剣な表情で耳を傾けている。
「私の名字は、少し変わっていて……それが原因で、幼稚園の頃から、いじめられるようになりました」
エレノアは、最初の『いじめ』の記憶を語った。
幼稚園での、名前をからかわれ、おもちゃを隠されたこと。
小学校での、無視や陰口。
中学校での、持ち物を隠されたり、教科書を破られたりする日常。
「毎日が、地獄でした。学校に行くのが怖くて、朝が来るたびに、吐き気がしました。誰も助けてくれなかった。先生も、親も、見て見ぬふりをするんです。『我慢しなさい』と……」
エレノアの声は、途中から震え始めた。ロゼは、エレノアの手をそっと握った。その温かさが、エレノアに語り続ける勇気を与えた。
「高校に入って、いじめはさらにエスカレートしました。SNSでの誹謗中傷、隠し撮り、そして……っ」
エレノアは、一度言葉を詰まらせた。その時の記憶が、まるで昨日のことのように蘇る。
「体育祭では、私だけが孤立しました。鬼ごっこで追い詰められ、転んだところに、わざと足を踏みつけられました。誰も、私にパスをくれない。私はただ、グラウンドの隅で、一人立ち尽くしていました……」
エレノアの瞳から、涙が溢れ落ちる。ロゼは、エレノアの頬を優しく撫でた。
「昼休みには、給食のパンに、知らないうちに画鋲が仕込まれていました。気づかずに食べたら、口の中が血だらけになって……。それでも、誰にも言えなかった。言えば、もっと酷い目に遭わされる、と……」
オスカー公爵は、エレノアの言葉に、顔を青ざめていた。彼の愛する娘が、そんなにも残酷な経験をしてきたのか。
「修学旅行では、グループ決めから外され、一人で部屋に閉じこもりました。皆が楽しそうにしている声が、私の部屋まで聞こえてきて……。私は、自分が『誰からも必要とされない人間』なのだと、深く絶望しました」
エレノアは、その時の孤独と絶望を、絞り出すように語った。ロゼは、エレノアの手を、両手で包み込むように握りしめた。
「文化祭の準備では、誰も私に声をかけてくれませんでした。一人で道具を運んでいると、背後から『あいつ、マジで役立たずだな』という嘲笑が聞こえてきました。私は、自分が『何もできない役立たず』だと決めつけられ、その言葉が、私の心を深く深く傷つけました……」
エレノアは、その言葉が、どれほど彼女を苦しめたか、今も鮮明に覚えている。だからこそ、エレノアはロゼを「無能」だと罵り、その希望を砕こうとしたのだ。
「そして……っ、高校最後の夏休み前……っ」
エレノアは、最も辛い記憶を語ろうとして、再び言葉に詰まった。身体が震え、呼吸が乱れる。
「校舎の屋上から……っ、突き落とされて! 殺されたんです……っ!」
その言葉に、オスカー公爵は息を呑んだ。ロゼもまた、両手で口元を覆い、大きく目を見開いている。
「地面が迫る中、私はただ……っ、願いました……っ。もし次があるなら、今度こそ、あいつらと同じ目に遭わせてやる、と……っ」
エレノアは、嗚咽を漏らしながら、全てを語り終えた。前世で、いじめられ、助けを求めることもできず、ただ耐えるしかなかった無力感。それが、彼女を『悪役令嬢』として復讐を誓わせた、原動力だった。
オスカー公爵は、エレノアの震える身体を、そっと抱きしめた。
「エレノア……。辛かったな。本当に、辛かっただろう」
父の声は、優しさに満ちていた。その温かさが、エレノアの心の奥底に染み渡る。
「お前は、決して悪くない。お前は、本当に、よく耐え抜いた」
オスカー公爵は、エレノアの髪を優しく撫で、その涙を拭った。
ロゼもまた、エレノアの隣に寄り添い、涙を流していた。その瞳には、エレノアへの深い共感と、そして揺るぎない愛情が宿っている。
「お嬢様……っ。わたくしには……っ、お嬢様のお気持ちが……っ、痛いほど、分かります……っ」
ロゼは、そう言うと、エレノアの小さな手をぎゅっと握りしめた。その手は、冷たく震えていたエレノアの手に、温かさと安心を与えた。
「わたくしも……っ、孤児院にいた頃……っ、体が小さくて、ドジばかりで……っ、周りの子たちに……っ、からかわれたり……っ、仕事を押し付けられたりしましたから……っ」
ロゼの言葉に、エレノアはハッとした。ロゼもまた、自分と同じように、いじめの経験をしていたのだ。だからこそ、エレノアの『いじめ』を、彼女は『指導』と受け止め、耐えることができたのかもしれない。
エレノアは、ロゼの顔を見つめた。その瞳には、エレノアと同じような悲しみと苦痛の記憶が宿っている。
「ロゼ……」
エレノアは、ロゼの手を強く握り返した。
オスカー公爵は、そんな二人を、温かい眼差しで見守っていた。
「エレノア、ロゼ。お前たちは、もう独りではない。これからは、お互いを支え合い、共に生きていくのだ。もちろん、私もいる。お前たちのような娘を持てて、私は本当に果報者だ」
父の言葉が、エレノアとロゼの心に深く響いた。
エレノアは、ロゼと、そして父と、固い絆で結ばれていることを実感した。これまでの苦しみも、決して無駄ではなかった。この出会いと、この温かさのために、あの地獄を耐え抜いてきたのだと、エレノアは初めて思えるようになった。
エレノアは、もう復讐を求めることはない。
あの『善行の呪い』から解放され、ロゼとの真の絆を得た今、エレノアの心は、憎悪ではなく、愛と希望に満たされていた。
彼女は、これからは、自分自身の足で、本当の幸せへと歩んでいくだろう。
その夜、エレノアは、生まれて初めて、安らかな眠りにつくことができた。長い悪夢から覚め、ようやく辿り着いた、真の安らぎだった。




