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第十六話

 エレノア・フォン・アールデムの心は、静かな波のように揺れていた。


 『善行の呪い』から解放された清々しさと、ロゼとの間に芽生えた温かい絆。それは、エレノアが長年求め続けた安らぎであり、人生における確かな光だった。


しかし、同時に、彼女の心には新たな重荷がのしかかっていた。これまでの自分が、いかに多くの人々を欺き、いかに歪んだ形で彼らの善意を利用してきたか。


その事実が、エレノアの心を締め付けていた。


 父、オスカー公爵との対話は、エレノアに大きな勇気を与えた。父は、信じがたい『転生』や『呪い』の話を全て受け止め、何よりもエレノア自身を『人間』として叱ってくれた。そのことで、エレノアは、自分が独りではないことを、心の底から実感した。


 だが、エレノアには、まだ果たさなければならないことがあった。


「お父様……私、これまで私が悪意をもって接してしまった方々に、きちんと謝罪したいのです」


 エレノアは、ある日の夕食後、執務室に父を訪ね、決意を口にした。


 オスカー公爵は、静かに娘の言葉を聞いた。


「それは、お前が自分自身の罪と向き合い、償おうとする、尊い決意だ、エレノア。しかし、皆が皆、お前をゆるすとは限らない。中には、深く傷つき、お前を憎む者もいるかもしれん。それでも、お前は進むのか?」


 父の言葉に、エレノアは迷わず頷いた。


「はい。たとえ憎まれ、裁かれることになっても、真実を伝えたいのです。そして、裁きを受け入れたい」


 エレノアの瞳には、かつての狂気にも似た光ではなく、真の覚悟が宿っていた。オスカー公爵は、その娘の成長した姿に、深く頷いた。


「分かった。では、私が手配しよう。場所は、公爵家の広間。時間はお前に任せる」




 数日後。公爵家の広間には、異例の光景が広がっていた。


 公爵家で働く者たち、領地の主要な商人や職人、そして騎士団の幹部まで、エレノアによってかつて「善行の呪い」の対象となった者たちが、一堂に会していたのだ。


 庭師、料理人、会計士、警備隊長、そして主任メイド。彼らは皆、エレノアが何を語るのか、訝しげな、あるいは期待のこもった表情で、広間の中心に立つエレノアを見つめていた。


 エレノアは、公爵令嬢として完璧なドレスを身につけ、毅然とした表情で皆の前に立った。


 エレノアの視線が、群衆の片隅に立つロゼの姿を捉えた。ロゼは、不安げな表情でエレノアを見守っている。その瞳と目が合った時、エレノアの心に、微かな温かさと勇気が灯った。


 エレノアは、深呼吸をして、静かに語り始めた。


「皆さま。本日は、お忙しい中、お集まりいただき、誠にありがとうございます」


 その声は、広間に響き渡り、皆の視線がエレノアに集中する。


「わたくし、エレノア・フォン・アールデムは、本日、皆さまに、これまで隠してきた、重大な真実をお話しするために、ここにおります」


 エレノアの言葉に、広間はざわめいた。一体、何が語られるのか。


「わたくしは……この世界で生まれたものではありません。前の世界において、深い苦痛と憎悪を抱え、殺され、この世界において新しい命をさずかりました」


 その言葉に、再びざわめきが起こる。エレノアは、意を決して、続けた。


「わたくしは、この世界で、自らを『悪役令嬢』と称し、復讐を果たすことを誓いました。皆さまを欺き、傷つけるために、様々な『悪行』を企ててまいりました」


 エレノアの告白に、広間は静まり返った。誰もが、信じられないという顔で、エレノアを見つめている。


 エレノアは、一つ一つの「悪行」を、詳細に語り始めた。


「あの時、わたくしが庭の植木鉢をでたらめに並べ替えたのは、庭師の方々を困らせるための、単なるいたずらでした。それが、植物を活き活きとさせたのは、わたくしの意図とは異なる結果でした」


 主任庭師は、驚きと困惑の表情で立ち尽くしている。


「公爵家の料理長に、毎日同じ料理ばかりと嫌味を言ったのは、料理人としての魂を奮い立たせるためなどではございません。ただの、わたくしの不満と悪意から出た言葉でした」


 料理長は、信じられないというように、大きく目を見開いた。


「傾いた鐘楼に石を投げたのは、鐘を直すためではございません。鐘を壊して、皆さまを困らせるためでした。それが、鐘の詰まりを直したのも、偶然の産物です」


 エレノアは、苦痛に顔を歪めながらも、真実を語り続ける。


「社交パーティーで短剣を弄び、悪党の襲撃を防いだと言われましたが、あれはただの退屈しのぎでした。護身術の腕など、その時のわたくしにはございません。貴族の皆様の危機察知能力が高いと言われたのは、私の遊びから起きた奇跡です」


 以前、エレノアを称賛した貴族が、顔色を変えて呆然としている。


「食料庫の食料を腐敗させようとしたのは、貧しい領民に届ける経路を効率化するためではございません。ただ、公爵家を困らせ、人々に害をなそうとした悪意です」


「公爵家を護る結界に干渉したのは、結界を弱め、魔物の襲撃を招こうとしたためでした。それが結果的に強化に繋がったなど、わたくしの知るところではございません」


 そして、エレノアは、最も重い罪を告白した。


「公爵家から孤児院へ送られる寄付金を、わたくしは横領しようと企みました。橋に細工をし、魔物の襲撃を誘発させたのは、金貨をばら撒かせ、子供たちの希望を奪うためでした」


 孤児院の院長が、顔を青ざめ、震える手で胸元を抑えた。


「そして、公爵家に伝わる『光の聖杯』を壊そうとしました。公爵家の権威を失墜させ、国に混乱をもたらすためです。それが、秘密条約と魔力制御装置を発見する結果になったのは、わたくしの悪意とは全く関係のない、偶然の出来事でした」


 エレノアは、涙を流しながらも、全てを語った。その告白は、広間に集まった全ての人々の心を揺さぶった。


 最後に、エレノアは、胸元から公爵家の短剣を取り出した。それは、公爵令嬢として正式に継承された、エレノア自身の短剣だ。


 エレノアは、その短剣を、きらめく石畳の上にそっと置いた。そして四つん這いになり、髪をまくりあげて、自分の白い首筋を全員に差し出した。


「これらが、わたくしがこれまで犯してきた、紛れもない『悪行』の全てです」


 エレノアの声は、震えていた。


「わたくしは、皆さまを欺き、傷つけようといたしました。その罪は、決して許されるものではありません。どうぞ、この短剣で、わたくしを裁いてください。刺しても、耳や鼻を削いでも、首を刎ねてもかまいません」


 エレノアは、深々と頭を下げた。裁きを求めるその姿は、あまりにも痛々しかった。


 広間は、静寂に包まれた。誰もが、言葉を失い、エレノアと、石畳に置かれた短剣を交互に見つめている。

 

最初に動いたのは、主任庭師だった。彼は一歩前に出ると、震える声で言った。


「お、お嬢様……わたくしどもは、お嬢様のあの『いたずら』のおかげで、庭師として新たな視点を得ることができました。たとえそれが、お嬢様の悪意からであったとしても、結果として我々の仕事の質が向上したのは事実でございます」


 料理長も、困惑した顔で続いた。


「わたくしも……お嬢様のお言葉が、どれほど辛いものであったか、今となっては理解できます。ですが、あの時、わたくしは料理人として、慢心していたのかもしれません。お嬢様のお言葉で、わたくしの料理は、確かに変わりました」


 彼らは、エレノアの告白に動揺しつつも、これまでの『聖女』としてのエレノアのイメージが強すぎるためか、彼女の悪意を完全に受け入れられないでいるようだった。結果として得た『善行』が、彼らの心を縛っているのだ。


 しかし、誰も、短剣を手に取ろうとはしなかった。彼らは、エレノアを裁くことができない。


彼女の「悪行」は、結果的に彼らに恩恵を与えてきたため、直接的に害を受けた者がいないからだ。


 だが、全員がエレノアを赦したわけではなかった。


 警備隊長は、口を真一文字に結んだまま、黙ってエレノアを見つめていた。彼の表情は複雑で、怒りとも困惑ともつかない感情が渦巻いているようだった。


エレノアの告白は、彼の『聖女』という認識を根底から揺るがし、彼は未だその事実を受け入れられずにいる。

 

孤児院の院長は、青ざめた顔で震えながら、エレノアから目を逸らした。彼女の瞳には、エレノアの悪意が純粋にロゼや子供たちに向けられたことへの、深い恐怖と不信感が宿っているようだった。彼女にとって、エレノアの悪意は、決して『善行』に転じることのない、許しがたい罪なのだ。


 他の使用人たちの中にも、エレノアの言葉に動揺し、困惑する者、視線を泳がせる者、そして、これまでのエレノアへの信頼が揺らぎ、警戒の視線を送る者もいた。


彼らは、エレノアを裁くことはできない。しかし、簡単に『赦す』と口にすることもできない。真実の重みが、広間を満たしていた。


 エレノアは、彼らの反応を静かに見つめた。誰も裁こうとしない。しかし、誰もが心から赦したわけでもない。それが、現実だった。


 エレノアは、その現実を受け入れた。かつての彼女ならば、これに絶望しただろう。だが、今のエレノアの心には、不思議なほど穏やかな感情が宿っていた。


 裁かれなくとも、真実を告白した。それが、エレノアにとっての償いの第一歩だった。


全員が出ていったあと、エレノアは、石畳に置かれた短剣を、ゆっくりと拾い上げた。そして、その視線をロゼに向けた。


 ロゼは、エレノアの隣にそっと寄り添い、エレノアの告白を聞きながら、ずっと涙を流し続けていた。その涙は、悲しみだけでなく、エレノアの勇気と苦痛に寄り添う、深い共感の涙だった。


 エレノアは、ロゼの小さな手を握りしめた。ロゼは、エレノアの握り返す手に、そっと力を込めた。


 この瞬間、エレノアは、自分がもう独りではないことを、確信した。


父が、そしてロゼが、ありのままの自分を受け入れてくれる。その事実が、エレノアに、この困難な状況を乗り越える勇気を与えた。


彼女は、これまでの苦しみも、決して無駄ではなかったのだと、初めて思えるようになっていた。


エレノアは領内に「私を断罪したくなったときは、いつでもおいでください。私は、粛々と裁きを受け入れます」とお触れを出した。


 エレノアは、短剣を鞘に収め、静かに広間を後にした。その隣には、ロゼが、寄り添うように歩いていた。

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