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第十五話

 エレノア・フォン・アールデムの心は、羽が生えたかのように軽かった。


 ロゼの「わたくしと一緒にしあわせになってください」という純粋な言葉と、温かい抱擁。それらが、エレノアを縛り付けていた『善行の呪い』という重い鎖を、完全に解き放ったのだ。


 心から虚無感が消え、温かい感情が満ちていくのを感じた。それは、まるで長年囚われていた暗闇の中から、ようやく光の射す場所へと辿り着いたかのような、途方もない安堵だった。


 彼女は、二度と戻らないだろうと思っていた「普通」の感情を、少しずつ取り戻し始めていた。


 その日から、エレノアの周りでは、奇妙な現象がぴたりと止まった。


 朝食のテーブルで、わざとミルクをこぼせば、メイドが「お嬢様、大丈夫でございますか!?」と慌てて拭きに来て、「食べ物を粗末にしてはいけません!」と普通に叱られた。


 庭の植木鉢をでたらめに並べ替えれば、庭師が困惑した顔で元に戻し、「お嬢様、もしや遊びで……?」と訝しげな視線を向けられた。


 これまでどんな悪事を働いても称賛されてきたエレノアにとって、それは新鮮で、そしてどこか居心地の良い感覚だった。


 エレノアは、初めて自分の行動が、意図した通りの結果をもたらすことに感動した。


 悪いことをすれば悪いこととして叱られ、失敗すれば失敗として認識される。それは、あまりにも当たり前のことなのに、エレノアにとっては、まるで奇跡のようだった。


(私は……本当に、人間になったんだ……!)


 エレノアの心は、深い安堵と、新たな自由への喜びで満たされた。失われたはずの「人間性」が、確かにそこにあることを実感するたびに、彼女の胸には温かいものが込み上げた。


 ロゼとの関係も、急速に変化していった。


 以前のような、エレノアの命令に怯え、虚ろな瞳で従うロゼの姿は、そこにはもうなかった。


 エレノアが心から謝罪し、ロゼが「しあわせになってください」と受け入れたことで、二人の間には、主従関係を超えた、新しい絆が芽生え始めていた。


 ロゼは、まだエレノアの過去のいじめによって心に負った傷が完全に癒えたわけではなかったが、エレノアが謝罪したことで、その瞳には再び輝きが戻り始めていた。


 疲労の影はまだ残っているものの、以前のような死んだような顔色は消え、微かな血色が戻ってきている。そして何よりも、エレノアに対する彼女の眼差しは、純粋な好意と信頼に満ちていた。


 エレノアが、ロゼに優しく声をかけると、ロゼは以前のように怯えることなく、少しだけ照れたように微笑むようになった。


 エレノアは、そのロゼの小さな変化に、胸が温かくなるのを感じた。ロゼの笑顔が、エレノアの心を優しく包み込み、癒やしていくかのようだった。


 エレノアは、自分がロゼを傷つけたことの償いとして、これからはロゼに優しく接し、彼女が一人前のメイドとして、そして一人の人間として、自信を持って成長できるよう、心から手助けをしようと決意した。


 ある日、エレノアはロゼに、新しいメイド服を贈った。それは、公爵家で働くメイドの中でも、熟練した者しか着用を許されない、上質な生地でできたものだった。


「ロゼ。あなたがこれまでの私の無理難題によく耐え、公爵家のために尽くしてくれた証よ」


 エレノアは、心からの感謝を込めて言った。以前なら、こんな贈り物をするなど、考えもしなかっただろう。その言葉には、偽りも打算もない、純粋なエレノアの心が込められていた。


 ロゼは、真新しいメイド服を震える手で受け取ると、その目に大粒の涙を浮かべた。


「お、お嬢様……! わたくしのような者に……っ」


 ロゼは、メイド服を抱きしめ、嗚咽を漏らした。その姿を見て、エレノアの胸に温かいものが込み上げた。この涙は、以前の悲しみや絶望の涙ではない。純粋な喜びと、感謝の涙だ。それは、エレノアがロゼに与えたいと心から願った、本当の「幸せ」の涙だった。


「あなたは、本当に素晴らしいメイドよ、ロゼ。私が保証するわ」


 エレノアは、ロゼの頭を優しく撫でた。ロゼは、エレノアの手の温かさに、まるで子犬のように身を預けた。二人の間に流れる空気は、穏やかで、温かかった。それは、エレノアが長年求めていた、真の安らぎの瞬間だった。


 しかし、『善行の呪い』が解けたエレノアには、新たな試練が待ち受けていた。


 長年の間、「慈愛の聖女」として祭り上げられてきた彼女の評判は、一朝一夕で変わるものではない。


 周囲の貴族や領民たちは、エレノアの行動が変わったことに気づかない。


 彼らの目に映るのは、依然として『完璧で慈愛に満ちた聖女エレノア様』なのだ。


 エレノアがドジをしてコップを割れば、周囲の侍女たちは顔色一つ変えず、「ああ、エレノア様は、自ら試練を与え、より高みを目指しておられるのだ!」と深読みし、賞賛する。


 エレノアが領地の視察で、偶然、道端で転んで泥だらけになれば、領民たちは「エレノア様は、民の苦しみを分かち合うため、自ら泥の中へ飛び込まれた!」と感動し、さらに崇拝の念を強める。


「エレノア様は、やはり慈愛の聖女でいらっしゃる!」


「エレノア様がいらっしゃる限り、我が国は安泰だ!」


 エレノアの耳には、これまでと同じ称賛の言葉が届く。それは、もう呪いによって強制されるものではないと分かっているのに、それでもエレノアの心は、複雑な思いに苛まれた。


(私は……もう、聖女なんかじゃないのに……)


 エレノアは、自分の行動がもたらす「意図しない結果」に、まだ戸惑いを隠せないでいた。


 長年染み付いた「聖女」というレッテルを剥がすことは、想像以上に困難だった。


 彼女がどんなに普通の行動をしても、周囲はそれを『聖女エレノア様』の偉業として解釈してしまうのだ。


 その視線が、エレノアには重苦しく感じられた。人々が抱く理想の『聖女』と、ありのままの『人間』としての自分との間に、埋めようのない溝が横たわっているように思えたのだ。


 エレノアは、この新たな苦悩を、父オスカー公爵に打ち明けた。


「お父様……私は、もう、聖女ではありません。ただの、エレノアです。ですが、周囲はまだ、私を聖女として祭り上げます。この状況が、まだ少し、苦しいです」


 オスカー公爵は、娘の言葉に優しく微笑んだ。その瞳には、深い理解と、変わらぬ愛情が宿っていた。


「エレノア。それは、お前がどれほど素晴らしい存在であるか、人々が知っているからだ。お前の心に宿る真の慈愛は、たとえ呪いがなくとも、人々の心を惹きつける。だが、心配することはない。人は、時間をかければ、必ず真実を見る目を養うものだ」


 オスカー公爵は、エレノアの頭を優しく撫でた。その手は、エレノアがまだ小さな頃、悪夢を見て怯える彼女を何度も慰めてくれた、温かい手だった。


「お前は、もう、偽りの仮面を被る必要はない。これからは、お前自身の足で歩めばいい。お前の行動が、例え人々の期待を裏切るものであったとしても、父として、私はお前を支えよう。お前がありのままのエレノアとして生きていくことこそが、私にとって、何よりも尊いのだ」


 父の言葉に、エレノアの目から、再び涙が溢れた。それは、安心と、感謝の涙だった。


 エレノアは、自分がもう独りではないことを、心の底から実感した。父が、そしてロゼが、ありのままの自分を受け入れてくれる。


 その事実が、エレノアに、困難な状況を乗り越える勇気を与えた。彼女は、これまでの苦しみも、決して無駄ではなかったのだと、初めて思えるようになっていた。


 エレノアは、ロゼと共に、少しずつ、新しい生活を築き始めていた。


 ロゼは、エレノアの指導――もはやいじめではない、純粋な教育と助言――の下、めきめきとメイドとしての腕を上げていった。


 彼女の小さな身体には、以前のような怯えはなく、自信に満ちた動きが加わっていた。エレノアもまた、ロゼに頼られることで、公爵令嬢として、そして一人の人間として、責任感と自信を深めていく。ロゼの成長が、エレノア自身の成長にも繋がっていた。


 時には、エレノアがドジをしてロゼに助けられることもあった。


「お嬢様、お怪我はございませんか!?」

 エレノアが階段で転びそうになった際、ロゼがとっさに支えに来てくれた。エレノアは、恥ずかしそうに顔を赤くしながらも、「ありがとう、ロゼ」と心から感謝の言葉を述べた。


 ロゼは、そんなエレノアの姿を見て、嬉しそうに微笑んだ。その笑顔は、エレノアが最も大切にしたいと願う、純粋な輝きを放っていた。


 かつては想像もできなかった、普通の、温かい日常が、そこにはあった。朝、ロゼが淹れてくれる、少しぬるめの紅茶。


 庭園で、ロゼと共に新しい花を植える時間。


 夜、一日の出来事を語り合う、他愛ない会話。


 その全てが、エレノアにとって、かけがえのない「幸せ」だった。エレノアは、ようやく、本当の意味での「幸せ」とは何かを知り始めていた。


 それは、誰かに祭り上げられることでもなく、復讐を果たすことでもなく、ただ、愛する人と共に、ありのままの自分でいられることだと。

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