第十四話
エレノア・フォン・アールデムはオスカー公爵の執務室を出たあと、ふらつく足取りで自室へと戻った。
夜が明け、窓からはうっすらと朝の光が差し込んでいる。しかし、エレノアの心には、これまで感じたことのない清々しさと、そして深い疲労感が入り混じっていた。
父に全てを打ち明けた。前世のこと、いじめられたこと、そして、この世界で悪役令嬢として復讐を誓い、結果的に『善行の呪い』に苦しめられてきたこと。
そして何よりも、ロゼを傷つけてしまったこと。
全てを話し終えた時、エレノアの心から、長年積もり積もっていた重い鎖が外れたような気がした。
父は、信じがたい話にも関わらず、エレノアの全てを受け入れてくれた。
そして、他でもないエレノア自身の行動を、『いけないこと』だと、『悪』だと叱ってくれたのだ。それは、エレノアが『女神』や『お嬢様』ではなく『人間』として扱われた、初めての瞬間だった。
あの叱責が、エレノアの心をどれほど救ったか、言葉にすることはできなかった。
まるで、暗闇の中で道に迷っていた時に、一筋の光が差し込んだような感覚。
エレノアは、自分が再び『人間』としての感情を取り戻しつつあることを、微かに感じ始めていた。
だが、まだ何も終わってはいない。
父は言った。「お前は、ロゼを傷つけた。その罪は、償わなければならない。ロゼに、きちんと謝罪しなさい」と。
エレノアは、その言葉を反芻した。
ロゼを傷つけたこと。あの虚ろな瞳と、涙を流す姿が脳裏に焼き付いている。自分がどれほど残酷なことをしたか、今なら痛いほど理解できる。
しかし、いざロゼに謝罪するとなると、エレノアの胸は激しく痛み、足がすくんだ。
(私は……私があの子を、あんな風にしてしまったのに……今さら、何を言えばいいの……? そもそも、言葉なんかで赦されるものなの……?)
罪悪感と、ロゼへの恐怖が、エレノアの心を支配した。それでも、謝罪しなければならない。そうしなければ、エレノアはいつまでも、あの『悪役令嬢』の仮面を脱ぎ捨てることはできないだろう。
朝食もろくに喉を通らず、エレノアは重い足取りで自室に戻った。
しかし、部屋の扉を開けた瞬間、エレノアは息を呑んだ。
そこに、ロゼがいた。いつものように、エレノアの朝の支度をするために、部屋の隅で待機していたのだ。
ロゼの顔色は、やはり悪かった。目の下の深い隈は消えず、その身体は以前にも増して細くなっている。エレノアの視線に気づくと、ロゼはびくりと肩を震わせ、すぐに顔を伏せた。
その反応に、エレノアの心は再び締め付けられた。ロゼは、まだエレノアを恐れている。当然だ。エレノアがロゼを、こんなにしてしまったのだから。
エレノアは、震える声で、その名を呼んだ。
「ロゼ……」
ロゼは、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、以前のような怯えだけでなく、何か、諦めにも似た虚ろな光が宿っているように見えた。
エレノアは、父に全てを打ち明ける時よりも、はるかに大きな勇気を振り絞った。
「ロゼ……わたくしは……あなたに、謝罪しなければなりません」
エレノアの声は、震えていた。謝罪の言葉は、エレノアにとって、生まれて初めて口にするものだった。前世でも、いじめっ子たちに謝罪を強要されたことはあっても、自ら心から謝罪したことなど、一度もなかったのだ。
ロゼは、エレノアの言葉に、困惑したように目を瞬かせた。謝罪など、彼女にとっては予想外の出来事だったのだろう。
「わたくしは……っ、あなたを、いじめました……。酷い言葉を浴びせ……っ、無理難題を押し付け……っ、あなたの心を……っ、深く傷つけました……っ」
エレノアの目から、涙が溢れ始めた。それは、昨夜父の前で流した涙とは違い、純粋な後悔と、ロゼへの深い痛みから来る涙だった。
「あなたの……っ、あなたの純粋な心を……っ、踏みにじり……っ、あなたを……っ、感情のない人形のように……っ、してしまいました……っ。本当に……っ、本当に、ごめんなさい……っ!」
エレノアは、その場に膝をつき、深々と頭を下げた。公爵令嬢としてのプライドも、悪役令嬢としての意地も、今は全てどうでもよかった。ただ、ロゼに、自分の罪を認め、心から許しを請いたかった。ロゼに元気になってほしかった。笑顔の似合う、あの頃のロゼに戻ってほしかった。
ロゼは、エレノアの突然の謝罪と、その涙に、呆然としていた。彼女にとって、エレノアは常に『完璧で、何をしても正しいお嬢様』だった。
そのエレノアが、自分に頭を下げ、涙を流して謝罪している。ロゼの瞳から、大粒の涙がポロポロと溢れ始めた。
「お、お嬢様……っ!」
ロゼは、震える手でエレノアの肩に触れた。その手は、小さく、温かかった。
「なぜ……っ、お嬢様が……っ、わたくしなどに……っ、謝罪なさるのですか……っ!?」
ロゼの声は、嗚咽に混じって、かすれていた。
「わたくしは……っ、お嬢様のご期待に応えられず……っ、ご迷惑ばかり……っ、おかけして……っ。お嬢様のご指導がなければ……っ、わたくしは……っ、ずっと無能なまま……っ!」
ロゼは、震える声で訴えた。彼女は、エレノアのいじめを、常に『指導』と受け止めてきたのだ。
「違うわ……っ、ロゼ……っ! あれは……っ、あれは、指導なんかじゃない……っ! わたくしが……っ、あなたに嫌われようと……っ、あなたを傷つけようと……っ、やったことなの……っ!」
エレノアは、必死に自分の悪意を伝えようとした。ロゼに、自分の醜い部分を全て知ってほしいと思った。
ロゼは、エレノアの言葉に、さらに涙を流した。しかし、その涙は、悲しみだけではなかった。そこには、エレノアの苦しみを理解しようとする、深い慈愛の感情が混じっていた。
「お嬢様……っ。わたくしには……っ、分かります……っ」
ロゼは、エレノアの頬にそっと手を伸ばし、涙を拭った。その手は、冷たく、そして優しい。
「お嬢様は……っ、わたくしに……っ、何かを伝えたかったのですよね……っ? 言葉では……っ、伝えられない……っ、何かを……っ」
ロゼの言葉に、エレノアはハッとした。ロゼは、自分の悪意を、まるで別の意味で受け止めていた。いや、違う。ロゼは、エレノアの言葉の裏に隠された、エレノア自身の「苦しみ」を、純粋に感じ取っていたのだ。
エレノアは、ロゼの純粋さに、再び打ちのめされた。この子は、どこまでも、人を信じ、人を赦そうとする。それが、エレノアの凝り固まった心を、少しずつ溶かしていく。
「お嬢様は……っ、きっと、とても……っ、お辛かったのですね……っ」
ロゼは、エレノアの涙に濡れた顔を見つめ、そっとエレノアの手を握りしめた。
「わたくしが、どう謝罪していいか、分からない……どうしたら、ロゼ、赦してくれる……? いいえ、赦さなくても……」
エレノアは、弦の切れた楽器のような、まともな音とは呼べない声で呟いた。
すると、ロゼは、震える声で、しかし確かな意思を込めて、こう言ったのだ。
「わたくしと一緒に……っ、しあわせになってください……っ」
その言葉は、エレノアの心を貫いた。
(しあわせに……?)
エレノアは、信じられないというようにロゼを見つめた。
自分をいじめ抜いた相手に、幸せを願う。そんな純粋な心を持つロゼが、エレノアの心を深く深く揺さぶった。
「わたくしは……っ、お嬢様が……っ、しあわせになってくだされば……っ、それが……っ、わたくしの……っ、いちばんのしあわせでございますから……っ」
ロゼは、そう言うと、エレノアの顔をそっと抱きしめた。その温かさが、エレノアの全身を包み込む。
その瞬間、エレノアの全身を、奇妙な感覚が駆け巡った。
これまで彼女をがんじがらめにしてきた『善行の呪い』が、まるで張り詰めた糸が切れるように、スッと消えていくのを感じたのだ。
エレノアの心から、あの重苦しい虚無感と、善行が強制される異常な感覚が、完全に消え去った。
エレノアは、驚きと、そして途方もない安堵で、ロゼの背中にしがみついた。
「ロゼ……っ!」
ロゼの純粋な言葉と、その温かい抱擁が、エレノアの心を覆っていた分厚い氷を、完全に溶かしたのだ。
エレノアの目から、今度は、悲しみでも絶望でもない、純粋な『喜び』の涙が溢れ出した。彼女は、ようやく、この呪われた世界から解放されたのだ。
そして、その日から、エレノアの悪行が善行になるという不思議な現象は、ぴたりと止まった。エレノアは、ドジをして謝ることもあれば、自分の努力で成し遂げることも増えていく。
それは、エレノアが、ようやく『人間』として、自分の足で歩み始めた証だった。ロゼの小さな身体を抱きしめながら、
エレノアは、この温かさが、ずっと、永遠に続いてほしいと願った。




