第十三話
エレノア・フォン・アールデムは、震えるこぶしで父の部屋のドアをたたいた。ドアが開くと、父はおどろきの声を上げた。
「エレノア? どうしたのだ、こんな時間に……」
父、オスカー公爵が眉をひそめてエレノアを見つめた。いつもの冷静沈着な公爵としての表情は、エレノアの尋常ではない様子を見て、一瞬で消え去った。
エレノアは、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を父に見せることなど、今まで考えたこともなかった。完璧な令嬢でなければならないと、常に自分を律してきた。だが、もう、限界だった。
「お父様……っ、うっ……うう……」
エレノアは、言葉にならない嗚咽を漏らしながら、父の胸に飛び込んだ。オスカー公爵は、突然の娘の様子に驚きながらも、すぐにその小さな身体をしっかりと抱きしめた。
「エレノア、一体何があったのだ? こんなに怯えて……誰かに何かされたのか?」
オスカー公爵の声は、娘を案じる父としての優しさに満ちていた。その温かさに触れ、エレノアの涙はさらに溢れ出した。
エレノアは、嗚咽を漏らしながら、断片的な言葉で、しかし必死に、これまでの全てを語り始めた。
「わ、わたし……っ、わたくしは……この世界の人間じゃありません……っ」
「……何? いきなりなにを言い出す……」
オスカー公爵は、娘の言葉に眉をひそめた。理解できないという顔だ。
「わたしは……前の人生で……『ルイ』という名前でした……。日本という、別の世界で……いじめられて……いじめられて……泥のパンを食べてっ……頭を踏みつけられて……、最期は……屋上から……突き落とされて……っ!」
エレノアの言葉は、たどたどしく、支離滅裂だった。しかし、その瞳には、嘘偽りのない、壮絶な過去の記憶が宿っている。
オスカー公爵は、最初は娘が錯乱しているのかと思った。しかし、エレノアの瞳の奥に宿る深い苦痛と、その震える小さな身体から伝わる絶望が、彼の心を揺さぶった。
「そして……っ、この世界に……アールデム公爵令嬢として……っ、やってきました。私は……人間への復讐を……誓ったんです……っ!」
エレノアは、父の胸の中で、絞り出すように語る。
「悪役令嬢になって……っ、私を苦しめた人間どもと同じように……っ、この世界の人間を……っ、苦しめてやろうと……っ」
オスカー公爵は、娘の言葉に息を呑んだ。転生? 復讐? にわかには信じがたい話だ。
しかし、エレノアの苦痛に満ちた表情は、演技ではない。
娘が何を言っているのかはわからないが、何を言っているのかはわかっていた。
「だけど……っ、私には……『善行の呪い』というものが……っ! どんな悪事を働いても……っ、全て……善行に転じてしまうんです……っ!」
エレノアは、これまでの全ての「悪行」が、いかにして『善行』に捻じ曲げられてきたかを、泣きながら語った。
植木鉢のいたずらが庭園を活性化させたこと。
毒薬が疫病を終息させたこと。
聖杯を壊そうとした行為が、秘密条約を発動させたこと。
そして、死のうとしたことまで、この世界は『善』に転じてしまった、と。
「何をしても……っ、私は『聖女』に祭り上げられ……っ、私の心は……っ、ずっと空っぽで……っ、誰にも……っ、誰にも理解してもらえない……っ!」
エレノアの嗚咽は、悲鳴のようだった。彼女がどれほどこの『善行の呪い』に苦しめられてきたか、オスカー公爵は初めて知った。娘は、ずっと一人で、この途方もない苦痛に耐えてきたのだ。
「そして……っ、ロゼ……っ、ロゼにだけは……っ、この呪いが効かなかったんです……っ!」
エレノアは、父の胸から顔を上げ、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で訴える。
「わ、わたしは……っ、この子をいじめました……っ。私が前世でされたように……っ、一番弱いロゼを……っ。罵倒し……っ、無理難題を押し付け……っ、心を傷つけ……っ、最後には……っ、涙を流させました……っ」
エレノアは、ロゼの虚ろな瞳を思い出し、再び嗚咽が込み上げた。
「ロゼは……っ、もう……っ、感情のない人形のようです……っ! 私が……っ、私が、こんなにしてしまった……っ。人間に復讐を果たしたはずなのに……っ、こんなに……っ、こんなに、苦しいんです……っ!」
エレノアは、自分の指先を震えさせながら、その手がロゼを傷つけたことをこころから悔やむように見つめた。復讐を誓ったはずの心が、今は激しい後悔と罪悪感に苛まれている。
「わたしは、ロゼに絶対してはいけないことをを、してしまって、あの子が、ロゼが、壊れてしまって……! おねがいしますお父さま! わたし、どうしたらいいの!? ロゼをどうしたら助けられるか! おねがい、おねがい、教えて! お父さま!」
オスカー公爵は、黙ってエレノアの言葉を聞いていた。その顔には、驚きと、信じがたいという困惑と、そして何よりも、娘への深い悲しみと愛情が入り混じっていた。
彼は、エレノアの頭を優しく撫でた。
「エレノア……よく、話してくれたな」
オスカー公爵は、娘の言葉を信じた。自分の愛する娘が、こんなにも深く苦しんでいたのだ。転生や呪いの話は、常識では考えられないことだ。
だが、目の前で嗚咽し、全てを打ち明けるエレノアの苦痛は、紛れもない真実だった。
「辛かっただろう。一人で、ずっと、こんなに苦しんでいたのだな」
オスカー公爵の言葉が、エレノアの心の奥底に、温かい光を灯した。誰も、エレノアの苦しみを理解しようとしなかった中で、初めて、父がその痛みに寄り添ってくれたのだ。
オスカー公爵は、エレノアを抱きしめたまま、静かに、しかし確かな声で語りかけた。
「エレノア」
その声は、優しかったが、同時に、公爵としての、そして父としての、揺るぎない威厳を宿していた。
「お前が、どれほど苦しんでいたか、今、初めて知った。お前がどんな過去を持ち、どんな復讐を誓ったとしても、父として、お前の全てを受け入れよう。決して、お前を一人にはしない。あらゆることからお前を守ろう。公爵としてではなく、ひとりの父親としてだ」
エレノアは、父の言葉に、信じられないというように顔を上げた。
(受け入れる……? こんな私を……?)
前世で、誰も自分を受け入れなかった。いじめられた自分を、誰も救おうとしなかった。だからこそ、エレノアは人間を憎んだのだ。
「だが、エレノア」
オスカー公爵の声に、少しだけ厳しさが加わった。
父は言った。「お前は、ロゼを傷つけた。その罪は、償わなければならない。ロゼに、きちんと謝罪しなさい」と。
エレノアは、ハッとして息を呑んだ。
父の言葉は、エレノアにとって、これまでの人生で一度も経験したことのないものだった。
それは、彼女を『慈愛の聖女』として祭り上げる言葉ではない。彼女の『悪行』を『善行』に捻じ曲げる言葉でもない。
ただ、純粋に、「いけないこと」を「いけないこと」として、明確に指摘する言葉だった。
オスカー公爵の言葉は、エレノアの心を、鈍器で殴りつけるような衝撃を与えた。
だが、それは、痛みだけではなかった。
(……叱られ、た……?)
エレノアは、目を見開いた。完璧な公爵令嬢として、誰もエレノアを叱る者はいなかった。
エレノアのすることは全て『善』とされ、常に称賛されてきた。誰からも『人間』として扱われず、ただ『聖女』という偶像として祭り上げられてきた中で、父は、初めてエレノアを『人間』として、その罪を指摘し、叱ってくれたのだ。
それは、エレノアにとって、激しい後悔と、そして何よりも、胸が張り裂けそうなほどの「喜び」だった。
自分は、人間として見てもらえている。父が、私を、人間として叱ってくれたのだ。
「お父さま……!?」
エレノアは、再び父の胸に顔を埋めた。
今度の涙は、悲しみと絶望だけではなかった。
そこには、深い後悔と、そして、人間として再び受け入れられたことへの、途方もない安堵と歓喜が混じり合っていた。
オスカー公爵は、娘の震える背中を優しく撫で続けた。
長きにわたる『善行の呪い』に苦しめられてきたエレノアの、本当の戦いは、父の理解と叱責によって、ようやく、癒やしと再生の方向へと動き出したのだ。




