第十二話
エレノア・フォン・アールデムの心は、深い闇の底に沈んでいた。
どれだけ足掻いても、どんな悪事を企てても、全てが善行に転じてしまう『善行の呪い』。
それは、エレノアの存在そのものを、憎悪の対象である『善』の道具として捻じ曲げ、彼女を精神的に追い詰めるだけだった。
公爵家への寄付金横領の計画も、聖杯を破壊しようとした行為も、全てが世間から『慈愛と叡智の聖女』としての評価を決定づける結果に終わった。
エレノアは、完璧な淑女の仮面を被り続けることに、心底疲弊していた。その笑顔の裏側では、常に絶望と狂気が渦巻いている。
「もう……限界だわ……」
エレノアは、冷え切った自室の暖炉の前に座り込んでいた。燃え盛る炎が、彼女の顔を赤く照らすが、エレノアの瞳に光は宿っていない。
ロゼへのいじめだけが、唯一の『悪行』として成立していたはずだった。しかし、ロゼはエレノアの言葉と行いによって、心身ともに深く傷つき、ついには感情すら見せない虚ろな人形のようになってしまった。
そのロゼの姿は、エレノアの心を切り裂き、激しい罪悪感と自己嫌悪を植え付けた。
(私が、この子をこんなにしてしまった……。復讐を果たすはずが、私はただ、前世のいじめっ子たちと同じことを繰り返しただけだ……)
エレノアは、自分の手が、血で汚れているように感じられた。復讐の対象である人間を傷つけたはずなのに、そこに満足感は一切なく、ただ、深い空虚だけが残された。
エレノアは、この『善行の呪い』から逃れるには、もはや最後の手段しかないと悟った。
自殺。
それは、自らの命を絶つという、究極の悪行だった。
自分が死ねば、さすがに善行には転じまい。
自殺は、この世界において、最も忌み嫌われる大罪の一つだ。自殺は完全な禁忌とされ、その罪はたとえ王族であろうと許されない。
彼女が死ねば、公爵家の名声は地に堕ち、人々は悲しみ、そしてエレノアは、この偽りの人生から解放される。
何より、あの『聖女』という称号から逃れられる。
ようやく悪役令嬢になることができる。
(これが、最後の復讐だわ……。この世界に、私が『悪』であったことを、刻み付けてやる……!)
エレノアの瞳に、狂気に似た、しかし確かな決意の光が宿った。
その日の深夜。エレノアは、公爵家の奥深くに保管されている、秘蔵の毒薬を取り出した。
それは、古文書によると、一滴で即死に至る、非常に強力な毒だという。エレノアは、震える手でその小瓶を握りしめた。
「さようなら……愚かな人間ども……。そして、呪われた私……」
エレノアは、小瓶の蓋を開け、震える唇へと近づけた。その時、彼女の脳裏に、ロゼの疲弊した顔が鮮明に浮かんだ。
涙を流し、虚ろな瞳でエレノアを見上げていたロゼ。
(ごめんなさい、ロゼ……。あなたを、こんな風に苦しめてしまった……)
エレノアの目から、一筋の涙が溢れ落ちた。それは、純粋な後悔の涙だった。
それでも、エレノアは毒を飲み込もうとした。この苦しみから解放されるために。
だが、その瞬間、奇妙なことが起こった。
エレノアが毒薬を口に含もうとした途端、部屋の窓から、けたたましい鳥の鳴き声が響き渡った。その声に驚いたエレノアの手から、小瓶が滑り落ち、床に激しく叩きつけられた。
パリン! と乾いた音を立てて小瓶は砕け散り、中からこぼれ出た液体が、床に敷かれた絨毯に吸い込まれていく。
エレノアは、その予期せぬ事態に呆然とした。しかし、その直後、さらに驚くべきことが起こったのだ。
翌朝。王都は、騒然となっていた。
数日前から王都を襲っていた謎の疫病が、一晩にして奇跡的に終息したというのだ。高熱と全身の倦怠感、そして奇妙な発疹を伴うその疫病は、多くの人々を苦しめ、死者さえも出始めていた。公爵家も、この疫病対策に頭を悩ませていたところだった。
だが、その疫病が、まるで嘘のように消え去ったのだ。
調査にあたった医師たちは、口々に「奇跡だ!」と叫んだ。そして、ある一つの共通点に気づいた。それは、公爵家から流出した、謎の『解毒成分』だった。
実は、エレノアが手にしていた毒薬は、公爵家が長年研究していた、ある特殊な植物から抽出された『猛毒』だった。しかし、その植物は、特定の条件下で熟成されると、その毒性の一部が変質し、強力な『解毒成分』に変化する特性を持っていたのだ。そして、エレノアが毒を落とした絨毯の素材には、その解毒成分と反応し、それを蒸発させる特殊な鉱物が微量に織り込まれていた。
エレノアが毒を落とし、それが絨毯に吸い込まれた際、解毒成分が室内に蒸発し、その部屋の窓から飛び立った鳥たちが、その解毒成分を体内に取り込み、王都中に散らばっていったのだ。鳥たちは疫病の感染源となっていた昆虫を捕食し、その体内に取り込んだ解毒成分が、間接的に疫病を終息させるという、まさかの奇跡を引き起こした。
「エレノア様が、この疫病から我々を救ってくださった!」
「聖女エレノア様が、自らの命を顧みず、解毒剤を世に放ってくださったのだ!」
「奇跡だ! これぞまさしく、エレノア様の慈愛と叡智の証! アールデム公爵家は、この国の守護者そのもの!」
民衆は熱狂し、王族までもがエレノアを『救国の聖女』として称賛した。エレノアの功績を称える盛大な式典が、王都の広場で執り行われることになった。
エレノアは、祭壇の上で、にこやかな笑顔を貼り付けながら、内心で絶叫していた。
(違う……! 私は、死にたかっただけなのに……! なぜ、こんなことに……!)
彼女の心は、完全に壊れかけていた。何をしても、何を企んでも、全てが善行に転じる。
自殺さえも、この世界は『善』に捻じ曲げたのだ。
エレノアは、もはや自分の意志で「悪」を成すことができない。
彼女の存在そのものが、この世界の『善』を強制するための道具であるかのようだった。
エレノアは、鏡に映る自分の顔を見た。完璧な淑女の笑顔。だが、その瞳の奥には、深い絶望と、狂気に似た虚ろな光が宿っていた。
視線を、群衆の中にいるロゼの姿に移した。ロゼは、以前よりもさらに痩せ細り、その瞳には、かつての輝きは失われ、ただ虚ろな光が宿っているだけだった。エレノアの言葉に、もはや怯えも見せず、ただ機械的に従うだけになっていた。
(私が……この子を、こんな風に……)
エレノアの胸に、激しい後悔がこみ上げてきた。他の全ての悪行が善行に転じても、ロゼへのいじめだけは、確実に彼女を傷つけた。
その事実が、エレノアの心を切り裂いた。彼女は、ロゼを傷つけたいと思っていたはずなのに、ロゼが本当に心を壊してしまったら、エレノアに残されるのは、何一つない空虚だけだと悟ったのだ。
祭典が終わった夜。
エレノアは、公爵執務室の前に立ち尽くしていた。もう自分だけでは支えきれない。父に全てを打ち明けなければならない。このままでは、自分が本当に壊れてしまう。もう、一人では耐えられない。
扉の向こうから、父の執務の音が微かに聞こえる。
エレノアは、震える手で、ゆっくりと扉に触れた。
そして、これまで誰にも見せたことのない、涙と嗚咽にまみれた声で、静かに、しかし必死に、その名を呼んだ。
「お父さま……!」
その声は、完璧な公爵令嬢エレノア・フォン・アールデムのものではなかった。
それは、前世で壮絶ないじめに遭い、全てを失い、それでも誰かに助けを求めていた、一人の傷ついた少女――伊地和ルイの声だった。
エレノアは、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を父に見せることなど、今まで考えたこともなかった。完璧な令嬢でなければならないと、常に自分を律してきた。だが、もう、限界だった。
扉の向こうから、驚いたような父の声が聞こえる。
「エレノア? どうしたのだ、こんな時間に……」
「お、とう、さま。ああぁ、ああ、うわああああああ!」
エレノアは、返事をすることもできず、床に座り込み、父を見上げてただ嗚咽し続けた。彼女の心は、指先でつついただけで、壊れてしまいそうなほどひび割れていた。
エレノアは、自分の苦しみをすべて父に打ちあけた。




