第十一話
エレノア・フォン・アールデムは、自室の寝台の上で、膝を抱えて丸まっていた。
肌に触れるシーツの感触すらも不快に思えるほど、彼女の心は荒んでいた。
ロゼの涙、そしてあの純粋な眼差しが、エレノアの脳裏から離れない。復讐を誓ったはずの心が、今は得体のしれない罪悪感と、自己嫌悪でがんじがらめになっている。
どれだけ悪意を込めても、全てが善行に転じてしまう『善行の呪い』。それは、エレノアの精神を限界まで追い詰めていた。
公爵家への寄付金横領の計画も、結局は魔物撃退という形で、エレノアを『神の御加護を持つ聖女』として祭り上げる結果に終わった。
その日以来、エレノアは公爵令嬢としての振る舞いさえも、ままならなくなっていた。
笑顔を貼り付ける口元は震え、視線は虚ろで、誰とも目を合わせることができない。
周囲の侍女や執事たちは、彼女の疲弊を『聖女としての重責によるもの』と解釈し、一層の崇拝の眼差しを向けてくる。その全てが、エレノアには拷問に等しかった。
「もう……嫌だ……!」
エレノアは、掠れた声で呟いた。復讐どころか、自分はただこの呪いに弄ばれ、偽りの偶像として生きることを強いられている。
前世で、いじめっ子たちの言いなりになるしかなかった、あの時の自分と何も変わらないではないか。いや、あの時よりも、もっと深く、精神的に追い詰められている。
この呪いから逃れるには、どうすればいいのか。
悪行を尽くしても、それが善行に転じるのならば、いっそ、この世界で最も忌み嫌われるような、取り返しのつかない大罪を犯すしかないのではないか。
そうすれば、さすがの『善行の呪い』も、もう私を聖女として祭り上げることはできないだろう。
エレノアの脳裏に、一つの悪行が浮かんだ。
公爵家に代々伝わる、最も神聖視されている家宝――『光の聖杯』。それは、数百年前に建国された際に、初代国王がアールデム公爵家に授けたとされる、国宝級の美術品であり、公爵家の権威の象徴そのものだった。
いかなる時も厳重に保管され、年に一度の祭礼でしかお目見えしない、触れることすら許されない品だ。
(これを……壊してやろう)
エレノアの瞳に、狂気に似た輝きが宿った。これを壊せば、公爵家は権威を失い、エレノアは『聖女』どころか『国賊』として糾弾されるだろう。そうなれば、ようやく、この『善行の呪い』から解放される。
その夜、エレノアは密かに、しかし確かな決意を胸に、公爵家の宝物庫へと忍び込んだ。
分厚い扉と厳重な警備を潜り抜け、エレノアは宝物庫の最奥に厳かに飾られた『光の聖杯』の前に立った。
黄金に輝く聖杯は、その美しさとは裏腹に、エレノアには自分を閉じ込める『善』の象徴に見えた。
エレノアは、震える手で聖杯に触れた。ひんやりとした金属の感触が、エレノアの肌に伝わる。その瞬間、彼女の脳裏に、かつて公爵家の一員として教え込まれた聖杯の歴史が蘇った。
『光の聖杯は、アールデム公爵家の繁栄の象徴であり、国の光そのもの。この聖杯が砕け散る時、アールデムの栄光は地に堕ち、国は闇に包まれるだろう』
エレノアは、その言葉を思い出し、心の中で嘲笑した。
(ならば、この手で、全てを終わらせてやるわよ)
エレノアは、聖杯を両手で持ち上げ、全身の力を込めて、床に叩きつけようとした。キン、と金属音が響き、周囲の宝石が振動でカタカタと鳴る。
その時、奇妙なことが起こった。
エレノアが聖杯を床に叩きつけようとした瞬間、聖杯の底が、まるで接着剤が剥がれるように、パカリと開いたのだ。
そして、聖杯の中から、古びた巻物と、小さな水晶が転がり出てきた。
エレノアは、その予期せぬ事態に、動きを止めた。
(な……何、これ……?)
エレノアが聖杯を壊そうとしたことが、まさか、隠された仕掛けを発動させた……?
そこに、けたたましい物音が響き渡り、警備の騎士たちが慌てて宝物庫に駆け込んできた。
エレノアが聖杯に触れた際に、宝物庫の警報装置が作動したらしい。
「お、お嬢様! 一体何を……!?」
騎士たちは、聖杯から転がり出た巻物と水晶に気づき、驚愕の声を上げた。
その後の混乱の中、公爵家の学者たちが駆けつけ、巻物と水晶を調べていく。
そして、その結果に、公爵家は、いや、国全体が、歓喜と驚愕に包まれることになる。
巻物には、かつて王家がアールデム公爵家に授けた『光の聖杯』は、実は二重構造になっており、その中に、国の未来を左右する重大な秘密が隠されていることが記されていた。
それは、隣国との和平を永続させるための『秘密条約』の最終条項と、その条項を発動させるための『魔力制御装置』の設計図だった。
そして、この秘密は、あまりにも重大であったため、聖杯の中に隠され、特定の時期に、特定の条件が満たされた場合にのみ、姿を現すように仕組まれていたのだ。
そして、その『特定の時期』とは、まさに今、隣国との関係が再び悪化し始めた、この瞬間だった。
そして、聖杯から出てきた水晶は、その『魔力制御装置』の核となる部分だった。
「エレノア様が、この国の危機を救ってくださった!」
「聖女エレノア様が、秘密条約の最終条項を発動させるためのきっかけを作ってくださったのだ!」
「奇跡だ! これぞまさしく、エレノア様の慈愛と叡智の証! アールデム公爵家は、やはりこの国の光そのもの!」
公爵家は、エレノアの『聖杯を壊そうとした行為』を、あたかも『聖杯の秘密を見抜いていた』かのように解釈し、大々的に祭り上げた。王族までもがエレノアを称賛し、彼女の功績を称える盛大な式典が執り行われることになった。
エレノアの心は、完全に壊れかけていた。
(もう……嫌だ……! 何をしても、何を企んでも、全てが善行に転じる……! 人間たちを苦しめられない、悪役令嬢になれない!)
彼女は、祭壇の上で、にこやかな笑顔を貼り付けながら、内心で絶叫していた。この世界は、私を悪役にさせてくれない。私を、復讐者として認めない。
まるで、私が存在すること自体が、この世界の『善』を強制するための道具であるかのようだ。
エレノアは、鏡に映る自分の顔を見た。完璧な淑女の笑顔。だが、その瞳の奥には、深い絶望と、狂気にも似た光が宿っていた。
彼女は、もはや自分の意志で「悪」を成すことができない。それは、前世でいじめられ、人間への復讐を誓ったエレノアにとって、最も耐え難いことだった。
エレノアは、ただ一つ、この呪いが影響しない行為に、最後の拠り所を見出そうとした。
それは、ロゼへのいじめだった。
ロゼは、エレノアの度重なるいじめによって、心身ともに疲弊しきっていた。目の下の隈は消えず、顔色は悪く、その小さな身体は以前にも増して細くなっていた。しかし、エレノアの命令には、もはや怯えも見せず、ただ黙って従うだけだった。
その日の夜、エレノアはロゼを自室に呼び出した。ロゼは、以前のように震えることもなく、ただ静かにエレノアの前に立った。
「ロゼ……」
エレノアの声は、なぜか震えていた。
「あなた……あなたは、一体どこまで、私の嫌がらせに耐えられるのかしら?」
エレノアは、ロゼの顔を覗き込んだ。その瞳には、すでに涙はなく、ただ虚ろな光が宿っているだけだった。
ロゼは、エレノアの言葉に、何も答えなかった。ただ、エレノアの視線から逃れるように、わずかに顔を伏せるだけだ。
そのロゼの姿を見て、エレノアの心に、言いようのない寒気が走った。ロゼは、もはやエレノアのいじめによって傷つくことすら、諦めてしまっているのかもしれない。
(私が……この子を、こんな風に……)
エレノアは、自分がロゼに与えている行為が、どれほど残酷なことなのかを、この時初めて、深く実感した。彼女はロゼを傷つけたいと思っていたはずなのに、ロゼが本当に心を壊してしまったら、エレノアに残されるのは、何一つない空虚だけだと悟ったのだ。
だが、それでも、エレノアは止まれない。ロゼへのいじめだけが、この呪われた世界で、唯一自分の悪意が成就する場所。
それが、エレノアの最後の希望だった。歪みきった、しかし確かな、最後の希望。
エレノアは、ロゼを徹底的に打ち砕くためであり、そして何よりも、この「善行の呪い」から逃れるための、エレノア自身の最後の抵抗を、無意識のうちに求めていた。
彼女の心の闇は、底なし沼のように深く、エレノアはもがき続けた。
(つづく)




