第十話
エレノア・フォン・アールデムは呆然と立ち尽くしていた。ロゼが部屋を出て行った後も、床に残されたロゼの涙の跡が、薄いシミとなってエレノアの目に焼き付いている。
孤児院での思い出を、幼い頃の希望を、言葉で踏みにじってやった。
そして、ロゼは、声も出せずに泣き崩れた。それは、エレノアが前世で味わった屈辱と絶望、そのものだった。
復讐は、確かに成就した。
しかし、そこに喜びはなかった。
エレノアの心臓は、激しい不整脈のように打ち続け、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。胃の奥からこみ上げてくる吐き気に、エレノアはその場に膝をついた。
(これは……何……?)
エレノアは、自分の感情が理解できなかった。
復讐を果たしたはずなのに、なぜこんなにも苦しいのか。なぜ、胸の奥が締め付けられるように痛むのか。ロゼの涙が、エレノア自身の心の奥深くにある、癒えない傷を抉り出したかのようだった。
その夜、エレノアはがくがくと体を振るわせ、カチカチと歯の根を鳴らしながら、一睡もできなかった。
目を閉じれば、ロゼの悲しみに満ちた顔と、止まらない涙が鮮明に蘇る。そして、その涙が、前世の自分自身の顔と重なり合うのだ。
いじめられていた頃のエレノア――ルイは、誰も自分の苦しみに気づいてくれないことに絶望した。誰もが自分に無関心で、誰もが傍観者だった。だからこそ、エレノアは「人間への復讐」を誓い、この世界で悪役として振る舞おうとした。誰かを傷つけることでしか、自分の存在価値を証明できない、と。
しかし、ロゼは違った。ロゼは、エレノアにいじめられながらも、エレノアを慕い、エレノアの言葉を「指導」として受け止めてきた。その純粋さが、エレノアの悪意をねじ曲げ、ロゼ自身を成長させてきたのだ。
そして今、エレノアは、ロゼの涙によって、自分が最も憎むべき「いじめる側」の人間になってしまったことを、突きつけられていた。
(私は……あいつらと同じなんだ……同じになってしまったんだ……)
エレノアは、自分の手が汚れていくような感覚に苛まれた。その手で、純粋なロゼを傷つけてしまった。その事実は、エレノアの心を深く深く蝕んでいく。
これまで彼女を悩ませてきた『善行の呪い』は、悪事を働いても意図せず善行に転じるという理不尽さだった。
しかし、ロゼへのいじめは、その呪いから唯一外れる、エレノアが望んだ通りの「悪」だった。
だが、その「悪」が、エレノアの心にこれほどまでの深い罪悪感と苦痛をもたらすとは、彼女は想像だにしなかったのだ。
翌日。エレノアは、重い足取りで食堂へと向かった。ロゼと顔を合わせるのが怖かった。
ロゼは、いつものようにテーブルの準備をしていた。だが、その顔は、以前よりもさらに血色を失い、目の下の隈は、深く暗い影を落としている。エレノアの視線に気づくと、ロゼはびくりと肩を震わせ、すぐに顔を伏せた。
エレノアは、ロゼのその変化に気づいた。以前は、エレノアに呼ばれれば、疲弊していても瞳を輝かせていたロゼの姿は、そこにはなかった。
ロゼは、エレノアを恐れている。そのことが、エレノアの胸を深く締め付けた。
(私が、この子をこんなにしてしまった……)
エレノアの心は、自己嫌悪でいっぱいになった。
しかし、それでも彼女は、いじめを止めることができなかった。止めれば、再び『善行の呪い』にがんじがらめにされ、復讐を果たす術を完全に失ってしまう。
ロゼをいじめることだけが、エレノアにとって、自分が「悪役」であり、復讐を誓った人間であることを実感できる、唯一の手段だったのだ。それは、歪んだ依存関係だった。
エレノアは、ロゼへのいじめを、さらに巧妙化させた。今度は、ロゼが最も苦手とすること、つまり「失敗」を誘うような仕掛けを張り巡らせた。
例えば、ロゼに、普段は他の熟練メイドが扱うような高価で繊細な美術品の掃除を命じた。それも、足場の悪い場所で、だ。
「ロゼ、この燭台、明日までに完璧に磨き上げなさい。ただし、もし少しでも傷をつけたり、落として壊したりしたら……あなたは公爵家の財産を損ねたことになるわ。わかっているわね?」
エレノアは、ロゼの瞳から、怯えと絶望を引き出すのを楽しみにしていた。
ロゼは、その命令に、顔を真っ青にした。彼女は元々ドジで不器用だ。高価な美術品を扱うなど、これまでの経験からしても、失敗する確率が高い。
「は、はい……お、お嬢様……」
ロゼは震える手で燭台を受け取ると、その場に立ち尽くした。エレノアは、そのロゼの姿を冷酷な笑みで見つめた。
(さあ、今度はどうかしら? これで失敗すれば、あなたは自己嫌悪に陥り、私を恨むだろう。そして、私の復讐は、確実に一歩進むのだわ)
しかし、エレノアの予想は、またしても裏切られた。
ロゼは、燭台を磨く作業に、信じられないほどの時間をかけた。眠ることも忘れ、食事もろくに摂らず、ひたすら燭台に向き合った。そして、数日後。ロゼが持ってきた燭台は、完璧に磨き上げられ、新品のように輝いていた。
「お嬢様……、磨き上げました……」
ロゼの声はかすれ、その身体は今にも倒れそうだった。しかし、その瞳には、以前のような怯えだけでなく、確かな達成感と、微かな「意思」が宿っているように見えた。
「わたくしは、お嬢様のご期待を裏切りたくありませんでしたから……」
ロゼは、そう言って、深々と頭を下げた。その言葉に、エレノアの心は再び激しく揺さぶられた。
(なぜ……なぜ、そんなにまでして、私の期待に応えようとするの……!? 私が望むのは、お前の失敗と、絶望なのに!)
エレノアは、ロゼの成長を目の当たりにするたびに、強い苛立ちと、同時に、拭いきれない困惑を感じた。
ロゼは、エレノアがどんなに悪意を込めても、それを「指導」と受け止め、ひたすら耐え、そして成長してしまうのだ。
だが、今回のロゼの言葉には、以前までのような純粋な「感謝」や「憧れ」だけでなく、何か、抗いがたい「意思」のようなものが感じられた。
それは、エレノアに、かつてないほどの動揺を与えた。
エレノアは、ロゼのその姿に、激しい矛盾を覚えた。いじめを続けることで、ロゼは成長し、同時にエレノアの心は深く傷ついていく。この歪んだ関係の中で、エレノアは自己の存在意義を見失いつつあった。
その日の夜、エレノアは再び、前世の記憶に苛まれていた。
高校の体育祭。クラスメイトが皆楽しそうにしている中で、自分だけが孤立し、誰にもパスをもらえず、ただグラウンドの隅で立ち尽くしていたこと。
修学旅行。グループ決めから外され、班に入れず、一人で部屋に閉じこもっていたこと。
そして、文化祭の準備。誰も自分に声をかけず、一人で道具を運んでいると、背後から「あいつ、マジで役立たずだな」という嘲笑が聞こえてきたこと。
あの時、エレノアは、自分が「何もできない役立たず」だと決めつけられ、誰からも必要とされないことに絶望した。
だからこそ、今、ロゼを「何もできない役立たず」だと罵り、その希望を砕こうとしていたのだ。
しかし、ロゼは、エレノアの言葉に屈せず、むしろ「お嬢様のご期待に応える」という強い意思を示し、成長してみせた。そのロゼの姿は、エレノアが前世でなりたかった自分そのものだった。
いじめに負けず、困難を乗り越え、自分の存在価値を証明する人間。
(私が、この子を苦しめることで、この子を私自身がなりたかった姿にしている……?)
エレノアの頭の中で、混乱が渦巻いた。
彼女はロゼを傷つけたいのに、その行為が、ロゼを強くし、自分自身がかつて望んだ「強さ」を与えている。
そして、そのロゼの「強さ」が、エレノアの心に、さらに深い罪悪感を刻みつけていく。
エレノアは、ロゼの存在が、もはや自分にとって悪意の捌け口だけではないことに気づき始めていた。
ロゼは、エレノアの歪んだ復讐心が生み出した被害者でありながら、同時に、エレノア自身の心の傷を映し出す鏡であり、そして、エレノアがこの世界で唯一、本物の感情を向けられる存在でもあった。
その感情は、憎悪だけではなかった。ロゼの純粋さに触れるたびに、エレノアの心には、微かな、しかし確かな「痛み」と、「居心地の悪さ」、そして「動揺」が生まれていた。
日を追うごとに、ロゼは、エレノアの言葉に明確な拒絶や、不満を口にすることはなかったが、その表情や仕草に、これまでは見られなかった「疲弊」と「諦め」の影を深く落とすようになった。
エレノアの命令に対し、ただ黙って頭を下げ、無言で作業に取り掛かる姿。その無言の「反抗」は、エレノアの心を、以前よりも強く締め付けた。
(この子を……もうこれ以上、傷つけたくない……)
エレノアの心に、これまでになかった感情が芽生え始めていた。それは、復讐心とは異なる、ロゼに対する、微かな「庇護欲」と「後悔」だった。
しかし、その感情を、エレノアはまだ明確に認識することができなかった。
彼女は、依然として「善行の呪い」と、ロゼへのいじめという歪んだ関係性の中で、もがき苦しんでいた。
エレノアは、自分の精神が限界に近づいていることを感じていた。
この状況から抜け出さなければ。だが、どうすればいいのか、その答えは、まだ見つからなかった。




