第一話
「ああ、なんて醜悪で清々しい朝かしら!」
エレノア・フォン・アールデムは、純白の天蓋付きベッドの上で、やわらかなシルクのシーツに包まれながら、高らかに宣言した。
窓から差し込む朝日は、きらめく金髪を柔らかく照らし、陶磁器のような白い肌を艶やかに浮かび上がらせる。
年の割に小柄な体は、ふかふかの羽毛布団にすっぽりと埋もれてしまいそうだが、その瞳には、並々ならぬ意志と、どす黒い復讐心がぎらついていた。
エレノアは、この世界におけるアールデム公爵家の令嬢である。
その血筋は王家に連なる大貴族であり、広大な領地と莫大な富を持つ、まさにこの国の支配者層の一角だった。
公爵令嬢として与えられたこの体は、完璧な美貌と、生まれ持った聡明さを兼ね備えている。
周囲のメイドや執事たちは、彼女のことを「慈愛のエレノア様」「完璧な淑女」と持ち上げ、その行動の一つ一つに感嘆の声を上げていた。
だが、エレノアにとって、そんなものは偽りの仮面に過ぎない。
この体の中に宿るのは、前世で『伊地和ルイ』という、日本の女子高生の魂である。
ルイは、その奇妙な名字のせいで、幼稚園の頃から高校生に至るまで、壮絶ないじめを受けてきた。
陰口、無視、隠し撮り、SNSでの誹謗中傷、物を隠される、教科書を破られる、廊下で突き飛ばされる……。その苦痛は、身体的なものだけでなく、心を深くえぐるような精神的なものも多かった。教師もルイのことを助けなかったし、それどころか無視し、加害者どもを叱ることもしなかった。
そして、高校最後の夏休み前。加減を知らない馬鹿な同級生に、校舎の屋上から突き落とされたのだ。コンクリートの冷たい地面が迫る中、ルイはただ、願った。
(もし次の人生があるなら、今度こそ、あいつらを……『人間ども』を、同じ目に遭わせてやる……!)
そうして目覚めたのが、この異世界、このエレノア・フォン・アールデムという公爵令嬢の体だった。
転生直後は、状況を理解するのに戸惑ったものの、やがてルイは歓喜した。
流行りの『悪役令嬢もの』のライトノベルを読み漁っていた彼女は、自分こそがその『悪役令嬢』になれる存在だと確信した。
物語の中の悪役令嬢は、自分を貶めようとする者たちに真っ向から立ち向かい、あるいは暗躍し、最終的には見事な復讐を遂げて、新しい幸せを掴む。
(今度こそ、この力と地位を使って、人間どもへの恨みを晴らしてやる……!)
ルイは前世の名前を捨て、エレノアになった。
*****
その日から、エレノアは密かに「悪行」を企てるようになった。
まずは手始めに、庭の手入れをしている庭師たちに嫌がらせを仕掛けることにした。
庭園の片隅に丁寧に並べられた植木鉢の列。これをわざと、でたらめに配置し直してやろう。
庭師が困惑し、眉をひそめる顔を想像するだけで、エレノアの口元には笑みが浮かんだ。
午後のティータイム。メイドたちに紅茶を淹れさせ、自室のバルコニーで優雅にそれを嗜んだ後、エレノアは庭へと向かった。
「お嬢様、どちらへ?」
後ろから声をかけてきたメイドに、エレノアはにこりと微笑んだ。
「少し、庭を散策しようかしら。この美しい花々を、間近で愛でたいの」
完璧な淑女の笑顔に、メイドは感動したように胸に手を当てた。
しかし、エレノアの心には、「美しい花々が枯れてしまえばいい」というどす黒い思いがあった。
人気の少ない庭の奥、色とりどりの花が咲き誇る一角に、庭師たちが手入れのために一時的に置いたらしい植木鉢の列が目に留まった。よし、これだ。
エレノアは周囲に人がいないことを確認すると、サッと身をかがめた。
そして、まるで幼い子供が積み木遊びをするかのように、植木鉢をでたらめな位置に動かし始めた。
植木鉢を壊してはいけない。それは暴力であって、悪行ではない。
あえて花が日陰になるように、あるいは風通しが悪くなるように、無造作に、いや、悪意をもって配置を変えていく。
(これで、あの庭師たちが困り果てる顔を見るのが楽しみだわ……)
エレノアは満足げに立ち上がり、何食わぬ顔でその場を後にした。
しかし、数日後。エレノアの耳に入ってきたのは、思いもよらない報告だった。
「エレノア様のおかげで、花壇の植物が格段に元気になりました!」
主任庭師が満面の笑みで、エレノアに深々と頭を下げている。
「は……? どういうことかしら?」
エレノアは内心で激しく動揺した。自分がやったことは、確かに植木鉢をでたらめに並べ替えるという「いたずら」だったはずだ。
「ええ、あの日、お嬢様が植木鉢を動かされた後、日当たりの問題と風通しの悪さが劇的に改善されたのです! 我々も気づかなかった盲点でした! まさか、お嬢様がそこまでお見通しだったとは……やはり慈愛のエレノア様!」
主任庭師は感極まった様子で、エレノアの手を握りしめ、何度も感謝の言葉を述べた。
エレノアの頭の中は、「?????」でいっぱいだった。
(なんで、なんでなの……!? 私がやったのは、ただの嫌がらせよ! それが、なぜ良いことになってるの……!?)
これが、エレノアを苦しめることになる『呪い』の始まりだった。
その日以来、エレノアは様々な「悪行」を試みた。
公爵家の料理人に、いつも同じ料理ばかりとねちねちと嫌味を言った。
すると料理人は「お嬢様の飾らぬご意見により、わたくしは料理人としての魂を再起させることができました!」と感涙し、料理の味が格段に上がってしまった。
傾いている鐘楼の鐘を、石を投げて落としてやろうとした。だが石は、古びて錆びついた機構の詰まりを外し、鐘は清らかに鳴り響き、街の人々は「聖女エレノア様のお導きで、鐘が直った!」とエレノアに喝采を浴びせた。
社交パーティーで退屈しのぎに、公爵家の短剣をぶらぶらさせてだらしなく遊んでいたら、偶然にも貴族を恨む悪党からの襲撃を防ぐことになり、「よからぬ気配を感じて会場を回っておられたのだ! さすがエレノア様!」と誤解され、またもや称賛の嵐だった。
どんな悪事を働いても、結果はいつも『善行』に転じてしまう。
(なんなの、これ……!? 私が望むのは、人間への復讐なのに……!)
エレノアは、自分が「善人」として祭り上げられ続けることに、激しい苦痛を感じ始めていた。
彼女の魂をがんじがらめにする『善行の呪い』。そんなものがあるわけないと思いつつも、そんなものがあると思うしかなかった。
ある日のこと。
公爵邸の廊下を歩いていると、けたたましい音と、水の跳ねる音が響いてきた。
見慣れないメイド服を着た小さな女の子が、廊下に水をぶちまけて、ずぶ濡れになっている。手元から滑り落ちたらしいバケツが、転がっていた。
黒髪のショートカットで、小柄なその少女は、顔を真っ青にして震えていた。そういえば、近く孤児院から迎えて、メイドになってもらう女の子がいると聞いていた。おそらくこの子だろう。
(フン、見るからに弱々しいわね。こんなドジっ子、いじめの格好の的じゃない)
エレノアの顔に、ニヤリとした笑みが浮かんだ。
これは、絶好の機会だ。この「善行の呪い」が、どこまで効くものか試してやる。
エレノアは一歩、少女に近づいた。
「あらあら、あなた、どうしたのかしら? そんなにびしょ濡れになって。まるで捨てられた子犬のようだわね」
エレノアは、これ以上ないほどねちねちと、嫌味たっぷりの声で少女に語りかけた。普段の「慈愛のエレノア様」からは想像もつかないような、冷ややかな声だった。
少女は怯えたように目を泳がせ、どもりながら「も、申し訳ありません、お嬢様……!」と謝った。
「まったく、これでは床が滑るわ。人が怪我でもしたらどうするの? それに、あなたが風邪をひいたり怪我をしたりすれば、ほかのメイドの手もわずらわせるのよ? もう少し考えて行動しなさい」
エレノアはさらに言葉を重ねる。少女の顔は、みるみるうちに青ざめていった。
しかし、少女の口から出た言葉は、エレノアの予想とは全く異なるものだった。
「お、お嬢様……いま、わたくしの心配をしてくださったのですか……?」
少女は震える声でそう言うと、次の瞬間には、目に涙を溜めて、感動したようにエレノアを見つめていた。
「わたくしのような、ドジで無能なメイドに、お嬢様がわざわざお声をかけてくださって……! しかも、風邪を引かないか、怪我をしないかと……わたくしのことまで心配してくださるなんて……!」
少女は感動に打ち震え、メイド服の裾をぎゅっと握りしめた。
「わたくし、ロゼと申します! お嬢様のご期待に応えられるよう、もっともっと頑張ります!」
その瞳は、エレノアに対して、尊敬と、そしてほんのわずかな「淡い好意」を宿していた。
エレノアは呆然とした。
(なんなの、こいつ……。こんなわかりやすい嫌味を言ってるのに、なぜ感動してるのよ!?)
しかし、そのロゼという少女の純粋な、あまりにも純粋な反応は、エレノアの頭の中で、ある記憶を呼び覚ました。
それは、前世で自分がされていた「弱い者いじめ」の光景だった。
いつも、自分より弱く、反抗できない存在を狙って、執拗に追い詰めていたあの忌まわしい記憶。
エレノアの心に、ぞっとするような暗い笑みが広がった。
(そうか……この子なら、いじめられるだけいじめてもかまわないよね……)
エレノアの魂を、彼女が決して持ってはいけないものが汚していく。
(私のやることなすこと全て、善行に転じるというのなら、この子への「いじめ」で、その呪いをといてやるわ!)
エレノアは、ロゼの小さな肩越しに、誰もいない廊下の向こうを見据えた。
この純粋で、ひたむきなメイドをいじめ抜くことで、私は前世の恨みを晴らす。
この子だけは、私の手で、確実に傷つけてやる。
そう決意したエレノアの心は、久方ぶりに、得体の知れない高揚感に満たされていた。
(つづく)
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