第5話 少女・包丁・初仕事(終)
研ぎ石が擦れる乾いた音と、指先に伝わる刃の僅かな厚み。その些細な変化も逃すまいと、コテツは神経を尖らせた。包丁は、刀と少し構造が異なる。よく切れる硬い刃金が露出するのは、刃先のみ。それ以外を、柔軟な地金で挟んだ構造になっている。表面を硬い鋼で包めば、耐久力は上がる。しかし、やわらかく錆びにくい鋼で覆った方が、日常の道具としては長持ちするのだ。つまり、包丁の切れ味を担うのは、その僅かな刃先だけ。
包丁の鍛冶は、想像よりも刀鍛冶との共通項が多かった。しかし、研ぎの工程における繊細さと緊張感は、刀鍛冶を上回るかもしれない。まして今回造る一振りは、ただ鋭く研ぎ澄ませばよいというものではない。
(そろそろ、か。……今度こそ)
コテツは研ぎ作業を辞め、刀身に魔力を込める。ミウの包丁造りを再開してから半月、数えきれないほど繰り返した、切れ味を確かめるための作業。左の人差し指に軽く刃先を押し当て、すっと包丁を引く。そして、祈るように指先を見つめた。今まで幾度となく、「うまくいった」と思った瞬間に、赤い水滴が滲み始めたことか。
悔しさと血の味を噛み締めながら、刃を打ち直し続けた。数にして55本目の包丁。数秒。数十秒。刃の痕をじっと見つめる。いつまで経っても、そこに赤い軌跡が現れることはなかった。
「……完成、だ」
そう呟くや否や、コテツは鍛冶場の冷たい床に倒れ込んだ。その一振りがまさしく、魂を込めた一振りだというのなら、コテツは魂を失った抜け殻のようにぴくりとも動かず、朝まで眠り続けた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
それでも、開店時刻のぴったり1時間前。夢の中で金打ちの音を聴いた気がして、コテツはゆっくりと目を覚ます。一歩歩く度に軋んだ音が聞こえる体を引きずり、数日ぶりの行水を済ませる。急いで開店の準備を済ませ、ぎりぎり朝8時。営業中の看板を出そうと店先に出たところで、小さな人影を見つけた。
「……おはよう、ミウさん。もう来てたのか。早いな」
「は、はい。おはようございます、コテツさん。あ、あの。もしかして……」
何か察したような様子のミウ。大仕事を終えたあとの、気の緩みが滲んでしまったのだろうか。コテツは少し気恥ずかしさを覚えつつ、頷いた。
「うん。今度こそ、ミウさんの包丁ができたよ。……ずいぶん待たせて、申し訳ない」
「ほ、ほんとですか!や、やったあ……!」
前髪の僅かな隙間から、きらきら輝く目が覗いた。はやく見たいです、ミウはとコテツの服の裾を引っ張る。出会った当初は、こんな年相応の振る舞いなど想像できない、おどおどした様子の少女だった。
(少しは、気を許してくれたのかもな)
コテツは嬉しく思いながら、ミウに背中を押されるように店内へ戻っていく。
「はい。これが、依頼の品。ミウさんの包丁だ」
「……わあ。な、なんか、かわいい包丁ですね……!」
刃渡り10センチほどの、小ぶりな包丁。丸みを帯びた刃の部分は、もはや白く見えるほど透き通った黒。柄の部分は、ミウが好きだという真夜中のように濃い黒色だ。握る部分にはくびれがついていて、握力が弱くても力を込めやすいし、すっぽ抜けにくい。刃の片方には魔術式が刻まれている。そして、もう片方には……。
「ミウさんが、ネコが好きだって聞いたから。刃の片方には、ネコの絵を彫ってみた」
「ええ!か、かわいい……!こ、ここは、肉球ですか!?」
ぴょんぴょんとその場で飛び跳ねるミウを見て、やってみてよかった、とコテツは胸を撫で下ろす。このデザインが、あんがい今回最大の挑戦だったかもしれない。ただ、自分のせいで怖い思いをしてしまったミウが、包丁の扱いに怯えてしまわないために、必要な挑戦だった。
「……あ、ごめんなさい、うるさくしちゃって。あの、これもなにか魔術が出たりするんでしょうか。も、もしかして、ネコちゃんが出てきたりとか?」
「……期待に添えず申し訳ないが、ネコはあくまで賑やかし。……ちょっと、実際にやってみようか」
試し切り用に持ってきたリンゴとまな板を、机の上に置く。どうぞ、とミウに包丁を握らせるが、やはり緊張と不安が入り混じった様子。包丁を持つ手が、小刻みに震えている。
「……え、えっと、その……」
「心配しなくても、大丈夫。そのままだと、その包丁は切れないから」
「……へ?」
「この包丁は、刃の部分が丸いだけでなく、数ミリほどの厚みを持っているんだ。‥‥イメージしにくいかもしれないけど、このままだと豆腐を切るのも難しいくらいの切れ味だ」
コテツの言葉を聞き、おずおずと手に力を込めるミウ。しかし包丁も、リンゴも、ともにピクリとも動かない。
「……よし。じゃあ、今度は魔力を込めてみよう」
「! え、ええと。どのくらいで……」
「安心して。この包丁は、どれだけたくさん魔力を使ったとしても。絶対に安全だから。……俺を、信じてくれ」
「……は、はい!」
ミウは少し緊張が緩んだ様子で、それでも慎重に魔力を込め始めた。刀身の魔術式が淡い光を放ち、包丁の刃先が少しずつ尖っていく。
数秒後。すこん、という小気味いい音と共に、リンゴは綺麗にまっぷたつになった。
「……や、やったあ。ちゃんと、切れました。……少しだけ切れるようになるのが、魔術ってことでしょうか?」
「ああ。……いや、正確には、そういうわけでもないか。少し、貸りるね」
コテツはミウから包丁を受け取ると、同じように魔力を込めた。そして刃先を、ゆっくりと自ら指先に押し付ける。
「あ、あぶないですよ!……って、あれ。ぜんぜん、切れてない?」
「そう。この包丁に刻まれているのは、防護の魔術。魔力によって切れ味が増したのは、魔術じゃなくて素材の性質なんだ」
コテツがどれだけ力を込めても、見えない壁を隔てたように刃先はぴたりと宙で止まる。それは比喩ではなく、うっすら目を凝らすとコテツの指先――いや、全身を、薄ぼんやりとした光の膜が包んでいた。
包丁に刻まれた魔術は、「加護の衣」と呼ばれる防護魔術。刃先を挟む地金の素材「イノリ晶石」によって効果は増幅し、並の剣士の斬撃も阻む強度を誇る。
刃先の素材は、黒曜竜の鱗と「ドロ鋼」という鋼を混ぜ合わせたもの。魔力により切れ味が増す黒曜竜の鱗。柔らかく刃先には向かないドロ鋼。その二つを混ぜ合わせ、絶妙な薄さまで研ぎ澄ませる。すると、普段は柔肌さえ傷つけられないが、魔力を込めればそれなりの切れ味になる刃が完成する。そして、同時に発動する「守護者の衣」により、使い方を誤っても、自らの体は傷ひとつつかない。
魔力を込めることで切れ味を増す刃と、魔力を込めることで発動し、自らの体を守る魔術。二つの絶妙なバランスを見極めるため、コテツは何度も何度も包丁を打ち直した。そして、この摩訶不思議な包丁が完成した。
「この包丁なら、料理に慣れてないミウさんでも、安全に料理ができるはずだ」
コテツは帆布でしっかりと包丁を包み、ミウに手渡した。ミウは宝石でも扱うかのような、丁重な手つきでそれを受け取る。
「……あ、ありがとうございます!だいじに、ほんっとうにだいじに、使わせていただきます!」
そんな調子で、普段使いできるのだろうか。コテツは苦笑いをする。その後、ミウと目線を合わせるべく軽く膝を折った。
「……ミウさん。なんで俺が、この包丁を造ったか、わかるかな」
コテツはミウにそう尋ねる。え、とミウは一瞬戸惑ったのち、さっと顔を青ざめさせた。
「……わ、わたしが、ぶきっちょで、ぽんこつで。台所をぐちゃぐちゃにしちゃったから。そういうことを家でも起こさないように、ということでしょうか……」
うきうきとした様子が一転、どんどん姿勢が丸くなっていくミウ。あさっての方向に想像を巡らせたミウに、「い、いやいや。そうじゃないさ」と、コテツは慌てて否定した。年不相応な繊細さを持つミウは、察しが良く気遣いができる一面もあれば、それがネガティブに働く一面もある。
「……話を戻すと。もともと、ミウさんが包丁が欲しかったのは、お姉さんのために料理を作ってあげたいから、だよね」
「そ、そうです」
「なんで料理を作りたいかというと、お姉さんを喜ばせたいからだ。でもお姉さんは、ミウさんに料理をさせたがらない」
「は、はい」
「……それは、ミウさんのことが心配だから、だ」
はっ、とした表情を浮かべるミウ。コテツが言わんとすることを悟り始めたようだ。やはり聡い子だ、とコテツは思う。
「そう。お姉さんが喜ぶには。……お姉さんを、悲しませないためには。あなたが、ケガをしないこと。それが、絶対の条件なんだ。ミウさんがお姉さんに内緒で、どんなに美味しい料理を作ってあげたとしても。その手が傷だらけだったら、お姉さんはちゃんと喜べない。きっと、心配が勝つはずだ」
コテツはミウに伝えた言葉を、自分自身でも反芻する。ミウと話をするようになって、彼女がどれだけ姉を慕っているかがわかった。そして、それ以上に。姉がミウのことをどれほど大事にしているかも。
(……なら、俺の一振りが叶えるべき、ミウさんの願いは。ミウさんのお姉さんも、まっすぐに喜ばせてあげること、だ)
内緒にして、驚かせたい気持ちもわかるけど。とコテツは前置きしたうえで、言う。
「お姉さんのことを、本当に考えてあげるなら。たぶん、ミウさんの正直な想いをちゃんと伝えた方がいいと思う。……そしてそのときにも、きっとこの包丁はミウさんの助けになると思う。あなたのまっすぐな想いが、俺にこの包丁を造らせたんだから」
コテツの言葉に、ミウはゆっくりと頷いた。その瞳は少し潤んでいて、でも力強い光がゆらめいていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
店を出ていくまでの間、帰り道の角を曲がるまでの間、ミウは何度も何度もコテツの方に向き直り、ぺこぺこと頭を下げた。コテツはそれをありがたく思う半分、いいからまっすぐちゃんと帰ってくれ、と心配半分だった。彼女の姉の気持ちが、少しわかったような気がする。
ミウを見送ったのち、がらんとした店内に戻った。まだ昼下がりだが、コテツは全ての仕事を終えた気持ちになり、深いため息と共に椅子にもたれかかった。そして、自らの初仕事を振り返る。
(……何より、ミウさんに最初の包丁を渡していたら、どんな事態になっていたかわからない。本当に、自分の未熟さにぞっとするな)
ただ、すぐ方向転換できたのは悪くなかったはず、とコテツは自分に言い聞かせる。そして、包丁の鍛治。最初は、これが本当にハザマ刀の鍛治師の仕事なのか、なんて思ってたけれど、想像以上にいい経験になった。自分の考えの凝り固まり具合を恥じ、たまらず頭を書いた。
ふと、指先に小さい痛みが走る。包丁の試し切りで出来た瘡蓋が、半分ほど剥がれてしまった。黒曜竜との戦いの傷は、既に塞がっている。初めてミウと出会った1ヶ月前を、コテツははるか昔のことのように感じた。開店からの1年は、何もなくあっという間に時間が過ぎ、それがコテツの焦りを加速させていた。しかしこの1ヶ月は、これまでの1年の何百倍も、得るものがあった1ヶ月だった。
(……間違いなくこの仕事が、鍛冶屋コテツとしての初の仕事でよかった。そう、胸を張って言える)
決して褒められた道のりではなかったが、数々の学びがあり、最後には使い手の願いを叶えられる一振りができた。ミウは何度も感謝を伝えてくれたけれど、それ以上の感謝の気持ちがコテツにはあった。きっとミウとミウの姉以上に、二人の願いが叶うことを祈りながら、コテツは窓から差し込む陽気に微睡んでいる。
「……どうせ、しばらく暇になるだろう」
そうコテツは呟くと、開き直って瞳を閉じた。棚に置かれた刀たちが、時折ちかちかと柔らかな日差しを反射し、その瞬きを瞼越しに感じる。ただその光もやがて届かなくなり、コテツは完全に眠りの底に落ちた。
――そしてやはり、コテツの人生が彼の想像通りに進むことはない。どうせしばらく暇になる、という現実的で自嘲めいた予想でさえ。
◇◆◇◆◇◆◇◆
ミウに包丁を渡した翌日。また朝一番にやってきた彼女の、屈託のない笑顔を見て、コテツはほっと胸を撫で下ろした。
「しばらく料理の練習をするので、あまりここには来れないかもです……」
「……包丁は完成したし、別にもう来る理由もないんじゃないか」
寂しげなミウの口調に、コテツは首をかしげながら言った。それを聞いたミウは、俄然頬を膨らませる。
「い、いいじゃないですかっ!理由がなくても、また遊びにきますからね!」
「……いちおう、ここが商売の場だってこと。お客様1号であるミウさんが、一番知っているはずだよね」
「でも、わたしほとんど毎日、ここに来てましたけど。お客さん、他に誰も来ませんでしたよね?」
「……それは、そうなんだが」
そんなやりとりをして、はや1週間。コテツに、孤独な店番の日々が戻ってきた。積読していた商売の本を捲りながら、いっそ包丁も店頭に並べてみるか、なんてやけくそ気味のアイデアが浮かぶ。
その瞬間、来訪を告げる扉の音が聞こえた。思っていたより随分早めの再会になったな、とコテツは思う。
「……いらっしゃい、ミウさん。そういえば、昨日いくつか菓子を買ったんだ。クッキーかチョコレート、どちらがいい――」
「結構です。お茶も、ホットミルクも要りません。あまり、長居する気もありませんので」
聞き覚えのない凛とした声に、コテツはヒヤリとした。入口に目をやると、差し込む光を背に大きな影ができている。その正体は、背丈を超えるほどの大剣を背負った女性だった。
初めて会った彼女の姿に、なぜかコテツは既視感を覚えた。後ろで一つに縛った長い黒髪と、陶器のような白い肌。整った顔立ちの中で、切れ長の瞳が鮮烈な印象を与えていた。年齢は、コテツと同じくらいだろうか。体は細身だが、立ち姿だけでも相当な修練を積んでいることがわかる。
そして身に纏った、黒に金の刺繍が縫い込まれた隊服。その胸には、王冠と剣があしらわれた紋章が輝いている。この国に来てから幾度も、複雑な感情と共に目にしたそれ。対魔戦力世界最高を誇る、ウォーバニア王国剣士団の証だった。……と、いうことは。
「……もしかして。ミウさんの、お姉さん……?」
「私の名は、チハヤ。……妹が、ずいぶんお世話になったようですね」