第29話 デート・凶星・ハザマ者(12)
轟音は鎮まり、土煙も晴れてゆく。ただ衝撃の余韻は収まらず、やっとの思いでチハヤは立ち上がった。ゆっくり視界を開くと、何事もなかったかのように優雅に立つ、マレフィトの姿が現れる。チハヤは思わず、内心で舌打ちをした。正しい重力の下、再び2人は相対する。
「……さて。私の魔術、なかなかに楽しんでいただけたようですが。その正体は、少しは掴めましたか?」
「……幻術。と片付けるには、あまりにもリアリティと悪意がありすぎる。『脳を支配する魔術』、といったところでしょうか」
チハヤは過去何度か、幻を見せる魔術にかかったことはある。その最中には、目の前の光景が幻だと気づけないものだ。ただ解術後に振り返れば、明らかにあれは現実ではない、とわかる。幻術は一時的に脳を混乱させたり、強制的に特定のビジョンを見させる、そういう魔術だからだ。
(……しかし、先ほどの世界が幻だったとして。どこからが幻だったのか、私にはまったく確信がない。……そして、あの最悪のビジョン)
潜在意識にある恐怖を見せる魔術もある、聞いたことはあった。しかしチハヤが味わった惨劇は、意識的か無意識か関係なく、常人が考えつくものでは到底なかった。明らかな意思、相当の悪意と創造性がなければ、あんな光景は生み出せないはずだ。
「素晴らしい!かなり核心に近いですよ。やはり貴女は、優秀な生徒のようだ」
マレフィトは賞賛の声を挙げる。勿論、チハヤはちっとも嬉しくない。自分の回答が大外れしていて、まったく違うと言われることを期待してすらいた。人間の記憶を、行動を、感情を、意のままに操ることができる魔術。魔族の頂点、四大魔族がそんな魔術を持っていることが、どんな意味を持つか想像さえしたくなかった。
「……正確には、『私が創り出した世界を、対象に強制的に知覚させる魔術』、ですね。この世界とは別次元の世界に、私が創り出した世界がありまして。そこに相手を招待する魔術、いうわけです。物理的な移動は大変なので、あくまで招待するのは感覚だけ。肉体はこっちの世界のまま、なのですが」
「……はあ」
思わずチハヤは、間抜けな声を漏らしてしまった。
「そう、あっちの世界において、畏れ多くも私は神の立ち位置でして。世界を意のままに作り変えられるし、世界に存在する全てが、手に取るようにわかるわけです。だから当然、貴女の信条や大切なものも筒抜けで、それらを出来るだけ傷付けられるような現実を考えてみたのですが。……精神が壊れるどころか、こっちの世界で魔術を発動させ、肉体に強烈な感覚を与えることで覚醒するとは。いやはや、本当に驚きましたよ」
滔々と語るマレフィトだったが、その説明の意味するところについて、チハヤは理解を放棄し始めていた。チハヤの全身を、非現実的な浮遊感が襲う。恐れも、怒りも、憎しみも薄らいでいく。わかったのは、ただ1つ。まさに、「次元が違う」ということ。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「さて。そろそろ、幕引きとしましょうか」
マレフィトは再び、自らのハザマ刀を右手に握った。刃を向けられ、チハヤも慌てて戦意を取り戻す。そしてすぐさま、チハヤの頭に疑問が生まれる。
(もう1度魔術を使われたら、今度こそ何もできずに私は殺される。なのに、なぜ刀を抜いた? 剣術の戦いでは、こっちに分があったはずなのに)
「……貴女と、貴女のその刀に。そしてその刀を生み出した彼に、敬意を表したかったからですよ」
チハヤの頭の中を覗いたかのように、マレフィトは答えた。もうすでに術中にはまったのか、とチハヤは動揺する。それもまた見透かしたように、マレフィトは言った。「これから使うのは、この刀に刻まれた魔術です」。
「……もう、永い時を生きてきましたが。いかに強大な魔族の、いかに強大な魔術であっても、私の魔術から逃れられた例は数えるほどだ。刀を通さずには魔術を使えない人間が、やってのけた」
マレフィトの全身から漏れ出る、凶々しい魔力。その魔力がゆっくりと、マレフィトのハザマ刀へと流れ込んでいった。周囲一帯の空気が、重たく澱んでいくような感覚。
「剣士と、刀と、その刀を造る鍛冶師。人類がその三位一体で、魔族の頂点にも届く力を得ようとするのであれば。私たちも、それに学ぶべきだ。……狡いとは、言わせませんよ。貴方がたも、私たちから魔術を学んできたのですから」
マレフィトはそう言って微笑んだ。銀の刃に刻まれた術式が、不吉な光を放つ。
「この刀の名は、『真祓鏡』。刻まれた魔術は、まさしく私にしか意味のない特注品でして。この刃の部分に限り、私があっちの世界で創り出したモノを、こっちの世界に顕現させることができる。……要は、私が好きに想像した刀を、現実のものにできるということです」
ゆらゆらと、『真祓鏡』の刃が歪み始めた。その刃は短くも長くも見えるし、はるか遠くにあるようにも、喉元ほど近くにあるようにも、見えた。蜃気楼のように、距離感が掴めない。チハヤは思わず、目をしばたかせる。
「……今回、私が想像してみたのは、『千里先まで届く刀』です。……今まで人間が作る刀を見て、どうも不思議だったのですよ。近づかないと斬れないなんて、不便ではないですか?」
相変わらずマレフィトの言葉は、チハヤの理解の外にあった。しかし今回も1つだけ、はっきりと分かったことがある。目の前の刀が、あまりにも危険な一振りだということ。死そのものが、刃の形に押し込められているように思えた。チハヤの全身が総毛立つ。
「……それでは、試し斬りといきましょうか」
マレフィトはそう言うや否や、刀を握る右腕を振るう。刹那、ひゅるりと喘鳴に似たつむじ風の音が、チハヤの耳に届いた。
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「……流石、『始まりの鍛冶師』の一振りだけありますね」
マレフィトは思わず額に手を当てる。低く唸りを上げるような地鳴りは、ようやく収まった。先ほどまで視界を阻んでいた山景は麓からずれ落ち、綺麗な断面を見せている。森の木々も、散髪されたかのように一定に高さを揃えていた。
「……本当に千里先まで届いたのかは、さておいて」
マレフィトはゆっくりと、目の前に倒れ伏す影に歩み寄る。
「まさか一間にも満たない距離の相手を、斬り損ねてしまうとは」
チハヤはマレフィトが刀を振るった瞬間、チハヤは残り全ての魔力を費やし、浮力の魔術を自らにかけた。その一太刀をかわすことは不可能と悟り、自らの体に羽毛の軽さを与え、斬撃の風圧で勝手に体がよけることに賭けたのだ。剣の達人でもない限り、風に舞う木の葉を捉えるのは至難の技であるように。チハヤは首の皮一枚、マレフィトの刃から逃れることができた。
「……なるほど。確かに近くの相手を斬るのに、長い間合いの剣は不都合ですね。やはり、剣というのは奥が深い。……もう少し、貴女から学べばよかった」
マレフィトは魔術を解く。朧げに揺らいでいた刃は、美しい銀の光を取り戻した。チハヤのうなじに、刃が当てがわれる。しかしチハヤは、その冷たさにも気づかない。魔力を使い果たしたこと、幾度となく極限状態に追い込まれた心労で、気を失っていた。
「……師よ、さらば」
マレフィトは名残惜しそうに呟くと、握った刀を振り上げる。そして一切の躊躇いなく、その刃をチハヤの首へと振り下ろした。
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マレフィトの刀が、チハヤのうなじに再び触れるその瞬間。ぴたり、と刃が宙に止まった。思わずマレフィトが瞬きをした刹那、先ほどまで見下ろしていたチハヤの姿は、影も形もなくなっている。
「……よく、生き延びてくれた。流石、俺の自慢の部下だよ」
マレフィトの視界の前方、数メートル先。いつの間に、黒ずくめの男が立っていた。左肩にチハヤを抱え、右手には真っ黒な刀を握っている。鋭く細められた左目よりも、眼帯で塞がれた右目の方から、マレフィトは異様な殺気を感じ取った。
「……貴方は、確か」
「……今日はちょっと、天気が悪いな。知ってるかい?雷の光って、実は下から上へ走ってるんだとよ」
そう言って男は、刀でカツカツと地面を叩く。思わずマレフィトが視線を下げた、その瞬間。青天から、巨大な光が落ちてきた。少し遅れて、爆音が周囲一帯を震わせる。
「……ま、ウチの雷様には、上も下もない。縦横無尽ってヤツだがね」
マレフィトは深手を負いつつも、辛うじて落雷の場から離れた。その雷の主は、短く揺れる黄金の髪と、美しい青の瞳を持つ女性。2メートル近い背丈に、それを優に超える巨大なハザマ刀を、片手で軽々構えていた。その姿を認めたマレフィトは、思わずため息をつく。
「……ウォーバニア王国剣士団総隊長、エクレシャ。まさか貴女に、ここでお目にかかれるとは」
「あら。四大魔族が1人、『夢現のマレフィト』にも知られているなんて、光栄ね」
そっけない返事をしつつ、碧眼は虎視眈々と次の一太刀を狙っている。畏怖でも媚びでもなく、狩りの対象として視線を向けられたのはいつぶりだろうか。強烈な光の余韻と合わせて、マレフィトの目が眩む。
「……よく言いますね。貴女のおかげで、我々は『元』四大魔族になったのですから」
「そうね。そしてここでアナタを殺せば、『二大魔族』になる。……少し、語呂の悪さは気になるけれど。またしばらくすればゼロになるから、問題ないかな」
そう言ってエクレシャは、不敵に笑う。次の瞬間、再びマレフィトの視界に閃光が走った。