第28話 デート・凶星・ハザマ者(11)
全身から、温度が失われていく。流れる血ごと、体の芯から冷え切っていて、冬の海底に沈んでいるような感覚だ。けれど、身震い一つ起きなかった。頭のてっぺんから爪先まで、全細胞がひとつ残らず、活動を止めたがっているみたいに思えた。
チハヤは地面に膝をつき、地面に突き刺した刀にもたれるように、頭を垂れている。ただチハヤ自身は、今の自分がどんな体勢かさえ知らない。それを確かめるのすら億劫だった。少しでも脳を動かしたら、思い出してしまうかもしれない。光を失った彼の瞳を。自らの手で、妹を斬った感触を。
(……何も考えず、この冷たさに身を委ねよう。いつか、何も考えないことすら、考えなくてよくなる)
そう、思っていたチハヤ。しかし彼女の意思に反して、どこからか仄かな温もりを感じた。鬱陶しい、と嫌々と発信源を辿ると、自らの右手首に辿り着いた。
(……そうだ。このブレスレット。魔除けの効果が、あるんでしたっけ)
チハヤは、膿んだ傷には触れないよう慎重に、明るい記憶だけ呼び起こしていく。行きの馬車の気まずい時間。共に楽しんだ食事。真剣に素材を選ぶ横顔。そして彼から贈られた、妹とお揃いの水晶があしらわれたブレスレット。
(この有様では、魔除けどころか魔寄せですね。まあ、四大魔族を退けろというのは、流石に酷ですが。……それにしてもなぜ、今更。もう、全ては終わったはずなのに)
その瞬間、強烈な頭の痛みと吐き気が、チハヤを襲った。うっかり、あの光景を思い出してしまったのだ。唇を噛み締め、追憶をかき消そうとする。だが、僅かな温もりが生んだきっかけは、少しずつチハヤの思考を覚醒させる。崖っぷちから、無理やりチハヤを引き上げようとするように。
(今思えば、違和感は、ある。……私がかつて使っていたものに、酷似した魔術を使われたこと。私の不安を見透かしたように、彼が戻ってきたこと。遠く離れた地にいるはずのミウが、一瞬で目の前に現れたこと)
空間転移の魔術はすさまじく高度だと、つい先日コテツも語っていた。いくら四大魔族とはいえ、あれほど強力な風魔術を修めておきながら、造作もなく両立できる魔術ではない、はずだ。
(……もしかすると、風の刃とミウを拐った魔術は、同じなのかもしれない。脳に刻まれた魔術。まだ反応するブレスレット。絶望を読み取り、実現する力。『夢現』の、マレフィト……)
少しずつ、核心に近づいてきた気がする。しかし同時に、恐怖の感情も押し寄せてきた。ちらついた希望が、本当は自分の思い違いだとしたら。間違いなく、さらなる絶望に突き落とされるだろう。そこまでが、マレフィトの筋書きだとしたら。
(……希望の糸に縋るより、このまま奈落へ沈んだ方が、まだ幸せなのかもしれない)
そんな風に考え始めたところで、チハヤは自身が無意識に握り締めていた、寄りかかっていたそれの存在にようやく気づく。
コテツがチハヤのために打ったハザマ刀、「浮雲」。最初は儚げで、頼りなく思えたその刀は、今や長年の相棒かのように掌に馴染んでいた。コテツがチハヤのことを、チハヤ以上に考え抜いて使った一振り。チハヤの願いと命運を背負うのだという、鍛冶屋の信念と覚悟が生んだ一振り。
「……そうだ。彼は私を、自ら造ったこの刀を、信じていると言った。なら、彼が戻ってきたことそのものが、何よりも有り得ないことでしょう」
チハヤは自らの心を奮い立たせ、全身の細胞を叩き起こす。もう一度、地面に突き立てた「浮雲」を強く握った。チハヤの意志に呼応するように、浮雲の刃に刻まれた術式が輝き出す。チハヤもまたその光に導かれ、溢れんばかりの魔力を流し込んだ。
足元から強烈な浮遊感が湧き上がったかと思うと、すぐに様々な方向に体が引っ張られ、上下左右がわからなくなる。脳がシェイクされているような感覚で、チハヤは思わず目をつむった。しかし、さっきまでの最悪な気分に比べれば、もはや心地よさすらあった。魔力の流れを、さらに加速させる。世界が重力を失い、ぼろぼろと崩れてゆくようなイメージが、脳裏に浮かんだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆
そして、もう一度チハヤが目を開いたとき。チハヤは、宙に浮かぶ小さな孤島の上にいた。
浮力の魔術によって大地から剥がされ、浮遊する小島たち。その中心であるチハヤの島には、浮雲が深々と突き立てられ、強烈な浮力で逆さまに浮かんでいた。ゆえに正確には、小さな孤島の下にいた、と形容すべきか。チハヤは、目の前の異様な光景には意も介さず、自分の服装と、浮雲の刀身を確かめる。返り血は、どこにもない。続いて周囲の島々に、そして地上へと視線を移す。倒れ伏すコテツとミウの姿は、どこにも見当たらなかった。
「……おかえりなさい。まさか貴女と、再び相見えるとは思いませんでしたよ」
いつの間に、チハヤの眼前にマレフィトが現れた。チハヤと同様、逆さまのまま地面に立っている。マレフィトは嬉しそうな表情で、何度も何度も手を叩き続けた。チハヤは大地から浮雲を抜き、構えを作る。
「……どうやらお互いに、一筋縄ではいかない生徒のようですね」
浮力の魔術は解かれた。宙に浮く島たちは途端に重力を思い出し、次々に落下していく。そのさなかでも、チハヤはマレフィトから微塵も視線を外さない。マレフィトもまた余裕の微笑みで、それに応え続けた。
数秒後、墜落した地面が生み出す轟音と砂塵が、2人の間合いを埋め尽くした。




