Episode31.1 西の悲劇Ⅴ
紅い炎の龍はアリサーの剣によって消え去り、辺りに火の粉が飛ぶ。家屋に飛び火していようとも、お構いなしだ。
「ゼオッ!!」
ソルティアの呼びかけに、ゼオセァルヴィは反応しない。彼の瞳に映るのは、魔狩りの祖イゼル・ミルフィスの直系であるアリサー・ミルフィスのみ。傍に在るアヴァリスの枝で編まれた繭に眠る女性の存在すら忘れているようだ。世界樹を前に、冷静な者など誰ひとりとしていないのかもしれない。
「だったらッ……!」
交戦を続ける彼らを横目に、ソルティアは眠る女性に接近した。
アヴァリスの枝の合間から見える美しい人の顔はどんな感情もない。ただ静かに横たわっている。不意に、生と死の狭間で咲くと言われるイチイバナの香りが鼻をくすぐった。甘美で魅惑的なアヴァリスとは正反対に、澄んだ爽やかな芳香だ。
「貴女が誰であろうとかつて何が起こっていようと、もうこれ以上は駄目です。貴女に恨みはない。けれど貴女がいては終わらない。そして、始まらない」
ゆっくりと手を伸ばし繭に触れた。
その途端、
「――ッ!?」
どくり。
どくり。
繭が脈打った。次いで仄かな光を放ち始める。呼応するように空に浮かぶ純白の巨木、世界樹が光を帯びた。
「なに……が……」
鼓動はソルティアだけに聞こえたわけではない。この場にいる全ての者に同じように聞こえていた。ただ横たわっているだけの亡骸から確かに命を感じるのだ。
「っありえない」
その事実に、ソルティアは思わず手を引いた。僅かな恐怖とほんの少しの疑念が湧き上がってくる。ゼオセァルヴィの言う通り、この女性はまだ生を終えていないのだろうかと。
「リーンッッ!!!!!」
異変に気付いたゼオセァルヴィが叫んだそのとき、
「――あ?」
ソルティアの腹にアヴァリスの枝が突き刺さった。しなやかで刺々しい枝が生き物のように腹を貫き、細く軽い身体を容易に持ち上げる。一瞬の出来事にソルティアですら反応することができなかった。
「ルティッッッッ!?」
焦ったアリサーの声が響いた。しかし、ソルティアは答えられない。体から力が抜けていき、手足がぶらりと垂れ下がる。茶色の枝がいつの間にかその姿を純白に変え、ソルティアの鮮血を滴らせていた。命が生まれ還る場所である世界樹の本来の動きとは明らかに違う。これほど生々しい奇行があらゆる者の目に触れるように行われるはずはない。
「ぅ……あ…………」
脆く崩れ去った蒼炎翼の欠片が宙に散ってきらきらと儚く舞う。辺りはだんだんと暗くなり、より一層、世界樹の神々しい純白の輝きが降り注いだ。
「は……はは、ははははははははっ! リーンが求めている! 目覚めるためにルディハラを贄と認めた!!!」
笑い狂うゼオセァルヴィは天を仰いだ。世界樹へと両手を伸ばし乞い願う。千年を生きた古の魔法使いの最後の願いだ。愛しき人の温もりを再びその手に、その胸に感じるための全身全霊の叫び。その想いが永い時を経て、呪いに変わっていることにも気づかないで――。
浅い呼吸を繰り返すソルティアの口角が僅かに上がった。
「……ゼオ、貴方は何も、わかっていない」
視界がぼんやりと霞んでいく。すでに体には力が入らず、完全に麻痺した感覚は痛覚さえ感じない。温かさも冷たさもわからなくなっていた。誰かがソルティアを呼んでいる。
「――ティッ!! ――!!!」
「……――――」
心地良いゆりかごの中にいるようなそんな感覚。ゆっくりとだが確かに、抗いようのない微睡みが残った意識の欠片を誘った。
◇
北の帝国オルセイン北部主要都市ルーアンのさらに北部。そこに世界考古学研究所エルタニアサス本部が厳かに鎮座している。
手入れの行き届いた巨大な庭園が窓から一望できる上質な部屋で、エルタニアサスの頂点に君臨する教皇であるイズリットが秘書のローガンから報告を受けていた。
「オルセイン帝国内で五か所、南の連合国内で三か所、さらに連合国東部の非居住区、計十四か所で魔法陣が発動して魔物との戦闘が続いています。各地域担当のサンクチュアリの隊員たちは想定通りの動きです。他地域に応援に行く暇はないでしょう」
「順調、じゅんちょー」
黒塗りされた重厚な机を前に、イズリットは満足気な笑みを浮かべた。ゆっくりとした動作で紅茶を口に含むと、奥深い香りが鼻を抜ける。
「人々が混乱してサンクチュアリの戦力が分散したままでいてくれれば、後は勝手にやってくれるだろうね。わたしはここでこうやって紅茶を飲んでいればいいだけだ。なんて良い役なんだろう。ね、ローガンもそう思うだろう?」
機嫌良く鼻歌でも歌いだしそうなイズリットに対して、ローガンは至って冷静な表情でそれを受け止めた。
「今更ですが北でイリス殿を足止めされていることは少々、愚策かと」
「本当に今更だね。だけどイリスを彼らの狂った争いの中に放り込むわけにもいかない。テルーナ中央支部の特殊部隊隊長としては立場が危うくなるだろうけど、それもまた仕方のないことだ。わたしには関係ない」
古の魔法使いとサンクチュアリ統率者直系の確執を“狂った争い”と揶揄したことに、ローガンはやれやれと小さく首を振った。それに現在進行形で惜しみなく協力をしているのは誰だと、寸前まで出かけた言葉を飲み込んで、代わりに長年付き添った秘書として忠告する。
「現在、テルーナ王国首都ガランドにはイルディーク殿……弟君がいらっしゃるはずですが。良いのですか? 死にますぞ」
イズリットは角砂糖を5つほど連続で入れて、紅茶に再び口をつけた。好みの甘みにうんうんと頷くと呆気からんと言う。
「問題ない。わたしにとっては当の昔に捨てた足枷で、イリスにとっては自由を奪う鎖。死んでほしい時に死なず、死んでほしくない時に死ぬ。それが人だよ。最後にどうなるかなんて結局、その時になってみないとわからないものだから」
「左様ですか。ええ、ええ、全くその通りだと思いますぞ」
そろそろ裁いても裁いても減らない書類に手を付けようかなと、手を伸ばしかけたところで、イズリットは動きを止めた。ローガンの態度がなぜか気にかかったのだ。
「……言いたいことがあるなら遠慮なんかしないで、どーぞ」
流れるような手つきでローガンは胸元から出した懐中時計で時間を確認すると、再びそれを胸元に戻して視線を上げた。
「北と西を隔てるクロッケンダス山脈を越えて、テルーナの地を踏んだ頃でしょうな」
「ん?」
「首都まであと1時間ほどといったところかと」
「えっ……と…………誰が?」
「イリス殿です」
「……………………」
言葉を失ったイズリットは、数秒固まった後ふかふかの椅子に体を沈めて天井を仰いだ。やがて空笑いが部屋中に響く。
「ですから、愚策だと」
「いつの間に……そんなに感情的な人間になってしまったんだ、イリス。わたしはそれを愛らしいと捉えるべきか、愚かと捉えるべきか」
「どちらでも構いませんが、どうされますか。今回は教皇の完全な誤算ですぞ」
「あぁ……今すぐあの子に消えてほしいと思ってしまうな。けど、もう無意味か」
両手を机について立ち上がったイズリットはローガンに指示した。
「大所蔵庫に入る。三十分してもわたしが出てこなければ導きの鈴を鳴らして」
「承知しました。では今すぐ用意いた――」
ローガンが口を開いた直後、扉が大きな音を立てて開かれた。仮にもエルタニアサスの頂点に立つ教皇の部屋にノックもなしに入ってくる人間は限られている。
「あちゃー」
故にイズリットとローガンは何が起こったのかすぐに把握できた。月に一度は経験するもはやただの日常だから。
「ちょっと何なのよぉっ!? どーいうことか説明しなさいよっ!!」
怒りに満ちた声色で、暴言を吐きながら入ってきた女性にイズリットは顔を引きつらせた。艶やかな紺色の髪は後ろでまとめられ、少し垂れ下がった白い紐が揺れている。女性の両腕には書類がしっかりと抱えられていることから、細くか弱そうに見える足――正確にはいざという時に武器となり得る鋭いピンヒール――によって扉が蹴破られたのだと推測ができる。
「や、やあ、ごきげんよう。シャシャ」
「このどこがご機嫌に見えんのよぉっ!? その右目は飾りかぁっ!」
ずんずんと歩み寄ってきたシャシャはイズリットの前でぴたりと止まった。




