Episode28.2
アリサーの隣から小さな呟きが聞こえた。
「そうはさせないっ」
強く腕を引かれたと思った次の瞬間には、アリサーの額に柔らかいものがあたった。川のせせらぎ、鳥たちの鳴き声、木々の葉が揺れる音、それら森の息遣い全てが厚いベールの向こう側に思えた。
「っ――……なに、を……?」
遮られた視界が徐々に開けていくと、至近距離にソルティアの美しい顔が在る。今にも泣きだしそうだった表情はどこかへ消え、確かな覚悟に凛とした表情がアリサーを見つめていた。
「先ほどの問いに答えます」
「……?」
「勝手に判断して全てを一人で決める理由。それは、結局行き着く先は同じだから。私一人で全てが解決できてしまうから。私が諦めて受け入れれば丸く収まるから。選択肢があるように思えて、最初から答えなんて一つだから」
「……違う。最短の道、安全な道が常に正しいわけじゃない。選択肢がないなら作ればいい。過程を顧みれない選択など、虚しく……あまりに無情だ」
「そんなこと、一番あなたに言われたくない」
「……」
恨みと怒りの籠った口調に、アリサーはどきりとした。閉じた世界にいた幼い少女の心を傷つけたあの頃が脳裏によぎる。
「あなたの両親を殺したのは私。私なんです! 忘れることも揺らぐことも許されない。私はゼオを放っておけません。最後の瞬間まであの人の傍にいる。だからあなたはあなたの立場で私たちと対峙してください。一切の情など抱かずその剣先を喉元に突き刺しなさい」
ソルティアの背に氷に覆われた大きな翼が現れた。が、僅かな亀裂がみるみる大きな亀裂を作っていく。
「ソルティアとゼオセァルヴィが俺の両親を手にかけたこと、忘れるはずがない。一生、君たちを恨むだろう。でもその感情に溺れるほど俺はもう弱くない。“幼さ”や“弱さ”を理由にあの頃のような過ちを繰り返すつもりはないんだ」
「お願いだからっ! ……お願いだから、かつてあなたの手を取ったことまで辛い記憶にしないで。あの時はあれがお互いに最善だったんです。あの選択が過ちだったなんて私は思っていない。どう足掻いたってあれ以外に道はなかったでしょう?」
ソルティアは俯いて悲痛な想いを吐露した。彼女から初めて聞く幼き日の話は、彼女にとって悲しいだけのものではない。その事実に胸が締め付けられる。ひどく傷ついた出来事のはずなのに、その中でさえソルティアには心安らぐ瞬間があったということだ。
アリサーは思わず言葉に詰まった。
「……どうしたら、俺が君の選択肢に入る……?」
陽が沈み夜を迎えた森はしんと静まり返っている。頬に触れるそよ風は冷たく、踏みしめる土はひどく硬い。絹のように細く柔らかい白髪が風に揺れて軽やかに舞っている。
深呼吸をしたソルティアがゆっくりと顔を上げ、はっきりと言い放った。
「私が魔法使いであなたが魔狩りである以上、初めからあり得ないことだったんです」
途端、氷に覆われた翼が本来の姿を現した。蝶が羽化するように覆われた氷が砕け散り、蒼炎が顔をのぞかせる。あまりに美しく、あまりに残酷だ。彼女と蒼炎の繋がりを隠しきれない。もう、取返しがつかない光景だった。
◇
西のテルーナ王国首都ガランドを外界と隔離するように、突如現れたのは、魔法でできたと思われる純白の壁。近衛兵たちは王や王太子たちを守ろうと緊急体制に入り、王城の門を硬く閉じた。首都の自警団たちも住民たちへの説明に回っている。動揺する住民たちを一時的に抑え込んではいるが、世界一平和と称される西の国で起こった大規模な魔法事件に、混乱に陥るのは必至。世界一平和ということは、裏を返せば危機に弱いということだ。
サンクチュアリ、テルーナ中央支部内にも緊張が走っていた。
「おい、本部との連絡はまだつかねぇのかっ!」
「外部との連絡が遮断されています! イリス特殊部隊隊長との連絡もいまだつきません」
第二部隊副隊長のプラトンが会議室で怒鳴った。ぐしゃぐしゃになったこげ茶の髪をさらにかき回し、苦々しく窓の外を睨む。突如現れた純白の壁は今のところ人々に害はない。だからといって安心できるわけもなく、確実に今から何かが起こる前触れだと確信していた。同じく第二部隊所属の副官であるトスは険しい顔で連絡用魔晶石を触っているが、ぴくりとも反応がない。
「これだけの魔法が一日で出来上がったわけねえっ! 俺たちの目を掻い潜ってとんでもねぇもん作りやがって、くそッ! 西で一体何をするつもりだっ」
「副隊長、ショウです!」
プラトンの後輩で長年部下として苦楽を共にしてきたショウが、額に汗を流しながら会議室に入ってきた。息を整える時間さえ待つ余裕なく、プラトンは矢継ぎ早に聞く。
「あの壁以外の異変は」
「今のところ魔物や魔法使いの襲撃はありません。外部の様子は見えないので、街の外は分かりませんが」
「王城から何か連絡は」
「沈黙を貫いています」
「大人しくしてればやり過ごせるとでも思ってんのか、あのじいさんっ。それで、魔法陣は見つかったか?」
「それが……っ」
奥歯に物が挟まったように言い淀む姿に、プラトンは眉を寄せた。これほど大規模な魔法であれば、魔法陣を使用した可能性が非常に高い。それ故に、ショウ率いる第二部隊と特殊部隊で編制された班を調査に向かわせたのだ。ショウの後ろから現れた特殊部隊員のフェナンドが報告を引き継いだ。
「首都を保護する結界の魔法陣が、あの壁を創り出していました。三か所全て確認済みです」
「……あ?」
思いもよらない言葉に、プラトンは固まった。すかさずトスが疑問を口にする。
「首都の結界は毎月定期的にサンクチュアリで確認を行っているはずです。劣化の危険や外部の魔法使いの干渉を受けていないか確認するために。常に監視の目があるのに、魔法使いが細工を施せる瞬間なんてあるはずが……」
――ない。そう言いかけ、トスの言葉は途中でぴたりと止まった。眉を寄せながらゆっくりとプラトンの顔を見る。その瞳は驚愕に揺れていた。
「……あ、ありえません。彼は7年もサンクチュアリに尽くしています」
独り言のようでそうでないトスの言葉は、息が詰まるほどの緊張として会議室に落ちていく。
そんな空気を全て飲み込むようにプラトンが深呼吸をする。そして、顔をしかめながら苦しさを隠すように瞼を閉じて、どすんと椅子に座った。
「あいつ……バランが結界の魔法陣の管理をし始めたのはいつからだ?」
「3年前です」
プラトンの問いに、フェナンドが即答した。すでに答えを用意しておいたかのような反応だ。ここで落ち着けている人間はすでに自分の中で答えを見つけている者。そしてそれは、魔法使いの性質をよく知っている特殊部隊員のフェナンドだけ。
「……中央支部の結界の魔法陣を管理し始めたのは?」
「5年前からです」
「その間、誰も気づかなかっただと……?」
ひとつひとつ丁寧に確認していくプラトンの表情は、苦虫を嚙み潰したようにみるみる険しくなっていく。その様子に同じく険しい表情のショウが言う。
「副隊長に報告する前に、フェナンド隊員がバランを探したんですが見当たりませんでした。朝までいたことは確認しているんですが」
「あいつ一人でできることじゃねえっ。まだネズミがいるかもしれねぇな」
「はい、俺もそう思っています。幸い、バラン以外の魔法使いは魔封じをしたまま地下牢にいます」
「念のために結界の管理に携わる隊員全ての名簿を持ってこい。協力者がいるかもしれねぇ。フェナンド、今すぐ特殊部隊員を集め――……いや、待て」
「プラトンさん?」
すでに体が扉を向きかけていたフェナンドは、プラトンの言葉に振り返った。彼の隣ではトスが怪訝な視線を送っていた。
「結界の魔法陣だけか……?」
「え?」
「――くそッ!!」
トスの疑問の声が消える前に、勢い良く立ち上がったプラトンが叫ぶ。
「今すぐここを離れ――――!!!!!!!!!」
刹那、中央支部が内側から爆発した。
衝撃は近隣の家屋の窓を割り、首都を揺らす。
プラトンの声は爆音にかき消され呑まれていった。




