Episode20.2
◇
よく知った香りがする。
青々しい薬草と苦味を消す天然の甘い蜜を混ぜ合わせた香り。部屋中に香のように焚きしめると解毒の効能がある、魔法使いの間で最も古く最も親しまれた薬だ。
「ん……」
ゆっくりと瞳を開けると、暖かい火の揺らめきが壁に映っているのが見えた。
「あ、起きたね。良かった」
「……イズ?」
薄暗い部屋の中で、まるでこの部屋の主人かのようにゆったりと座っていたのはイズリット。深みのある茶髪が綺麗に切り揃えられた20代半ばのこの男は、仕事の後始末をする人物。魔法使いが表立ってできないことを代わりに行い、エルタニアサスの代表代理も担っている。
「君も随分と大胆で愚かなことをしたね」
「そーいう話なら聞きたくないです。出て行け」
「えっ、もう反抗期? その短気な性格はどうにかした方がいいね。全く可愛げがない。ぴーぴー泣いてた赤ん坊に戻ってほし……いや、ティアは気味の悪いほど泣かなかったか」
ベッドから体を起こすと、イズリットが近づいてきた。なんとも形容し難い表情に、胸の中で不安が広がる。
「何かあったんですか」
「何か? うん、あったね。何か」
含みのある言い方にソルティアは思わず苛ついた。まだ体は火照り、鈍痛がするためか敏感になっているのかもしれない。口を開こうとすると、それよりも早くイズリットが言った。
「外に出てたシャイ、ハンナ、フリーたち他8名が狩られた」
「……何ですって?」
『狩られた』とは、つまりサンクチュアリの魔狩りに襲われたということ。魔狩りが魔法使いを狩るだけならまだ理解できる。彼らの仕事はそういうものだから。しかし、イズリットの口から放たれた人たちは、魔法使いの素質を持ったただの人間。祖先に魔法使いがいただけで、自分たちは魔法の扱い方を知らない一般人だ。瞳の色が変化してしまうからと今まで様々な酷い仕打ちを受けてきた彼らをエルタニアサスが保護したばかり。
「なぜッ! あ……いっいや、違う、そうじゃない。彼らはっ?」
「子供たちは連行されて、ハンナやフリーたち大人は殺された。シャイが逃げてきて教えてくれたんだ。彼女も重傷だったよ」
「くそッ!」
乱暴にベッドから降りて、ソルティアは怒りをあらわにした。サンクチュアリの謳う“保護”の実態はこれだ。少しでも抵抗すれば容赦なく殺しにかかる。ハンナやフリーたちはきっと連れていた子供たちを逃がそうとしたに違いない。魔法を扱えない彼らに魔狩りと戦う力などないのだから。
「シャイに会います! イズはサンクチュアリの状況を」
「――死んだよ」
「はい?」
扉に向かっていた足がぴたりと止まった。ゆっくりとイズの方へ振り返る。彼の言葉で思考が途切れたのがわかった。そして、彼からの冷たい視線に心臓がどくりと脈打った。
「なんで」
「重傷だったって言ったろう。ティア、君なら助けてくれると確信していたから命からがらシャイはここまで戻ってきたんだ。君への信頼だけを頼りにね。だけど、修道院内のどこを探しても君はいなかった。どんな時でも修道院から出ない君が、よりによって今日、いなかった」
「っ……」
冷水を浴びたように息が詰まった。
淡々としたイズリットの言葉が研ぎ澄まされた剣のように体を深く貫いていく。
「助修士たちや他の修道士、修道女たちにどんな言葉を投げかけるつもりかな。興味深いね。……ああ、言い忘れてた。君を抱きかかえてきた黒髪の少年は無事に帰したから安心するといい。でもちょっと友達選びは気を付けた方がいいんじゃないかな?」
「……?」
眉を寄せたソルティアに向かって、イズリットはにこやかに言葉の刃を放った。
「ティアのその中毒、あの少年が原因だよ」
「………………」
相変わらず、清々しいほどにこの男はサイコパスだ。
ひと睨みしてから無言で扉を開け、師匠のもとへ急いだ。
禁域に足を踏み入れた瞬間、ひんやりとした空気が頬を撫でた。薄暗い廊下を抜けると、透明度が非常に高い魔晶石で造られた部屋が広がる。眩いばかりの翡翠色の光が辺りを包み、天井という概念のない空が広がる。魔法で維持されたまるでどこかの神殿のようで、宮殿のような特別な空間。この世のどんな財宝もこの空間には匹敵しない。
その中央で純白と金色のローブを羽織った白髪の男が立っている。
「師匠」
ソルティアが声をかけると、ぼうっとしていた古の魔法使いゼオセァルヴィがゆっくりと振り返った。10代の青年のようにも、30代の成熟した凛々しい男のようにも見えるその造形は一度見たら忘れることなどできないだろう。
「ティアか」
金色の瞳がソルティアの姿を捉えると、わずかに細められた。大切な何かを見つけた時のようにどことなく嬉しそうに。その中にある違和感にはいつからか目を背け、ただその感情を受け止めるようになったソルティアもまた、僅かに表情を和らげる。
「魔狩りのことで報告が」
「ティア、おいで。見せたいものがある」
「師匠! 報告があるんです。新芽がっ」
「来るんだ」
「っ……………………はい」
魔狩りたちの凶行について報告するはずが、ゼオセァルヴィは一切取り合わない。今は一刻を争うのにと心の中で不平を言いながら、ソルティアは渋々、中央へ歩み寄った。
「これが何かはわかるな?」
「最高純度の魔晶石です」
ゼオセァルヴィの周りに漂うのは様々な色を持つ魔晶石だ。どれも不純物が一切ない魔力の塊と言ってもかわりない貴重なもの。湖の中や妖精が住み着く森で一千年の月明かりを浴びてやっと具現化する。そんなものをソルティアが知らないわけがないし、そもそもその内のいくつかは外でソルティア自身が見つけてきたものだ。
ところが、ゼオセァルヴィはどこか不機嫌に同じ質問を繰り返した。
「これが何かわかるか?」
「? ……最高じゅ――」
「人間と触れ合いすぎたようだな、ソルティア」
「っ……」
明らかに怒気の含んだ口調に、肩がぴくりと跳ねた。
久しぶりに彼を怒らせたという事実にソルティアは焦る。そして、ゼオセァルヴィの放った言葉を噛みしめすぐに自身の失態に気づく。だから短く息を吐いて、訂正した。
「純粋な魔晶石です」
「そうだ」
魔晶石の価値を計るのに、“最高純度”という階級を用いるのは人間のやり方だ。魔晶石は人間たちにとってエネルギーの源であるが、魔法使いにとってはただの道具にすぎない。そのため、階級を細かく区切る必要はないのだ。扱う魔力の単位が魔法使いと人間とでは根本的に違うのだから。
「好きなものを三つ選ぶんだ。三日後の清魂式の冠をそれで作る」
「清魂式?」
身に覚えのない儀式に首を傾げた。身の回りの世話をする幻想侍女はおろか、助修士たちや下位修道士からも何も聞いていない。主席修道女が把握していない行事などありえない。つまり、誰かが意図的に情報を遮断していたということ。そして、ソルティア相手にそんな度胸のある人間はひとりだけ。あのサイコパス男だ。
ここではないどこかに心を置いてきたゼオセァルヴィは、空っぽな金色の瞳をソルティアに向けて言う。
「さあ、選ぶのだ」
有無を言わさず選べという師に戸惑いながら、魔晶石を見た。ゼオセァルヴィの予測不可能な言動はいつものこと。五千年も生きていれば常識という概念などなくなって当然だろう。
「それじゃあ」
ソルティアが指をさしたのは、ひと際目に入ってきた漆黒の魔晶石と、親しみのある青銀の魔晶石。そして最後に、
「……これです」
透明で濁りを知らない魅惑的な深紅の魔晶石。
刹那、他の魔晶石が音を立てて地面に落ちた。
甲高い音が広い空間に響いていく。
「師、匠……?」
瞬間、ぞわりと何か嫌な感じが全身を巡った。




