義務と婚約者と
グランスタット学園。ここグランスタット王国でも有名な学園の一つ。王国内にいる貴族の大部分の令息令嬢が通っている。稀に平民出身者もいるが、そのためには学力と実技が相当優れていなければならない。学園で学ぶのは、基礎学力と武術だ。一学年のうちは基礎の基礎。そして二学年に上がると専門課程(専科)と呼ばれるものがあり、それぞれ学生が選ぶことが出来る。一番人気が武術科、次が学術科である。他にも多数の専科が用意されていた。
今年十七歳であるフォルトは、ここの二年生。専科は地術科である。それを選択した理由はただ一つ。これを専科として選ぶ学生がほぼいないからだ。それに学園がない日は王都を出てクランで依頼をこなしていることもあり、少しでも楽な専科の方が都合が良かったというのもある。
学園へ登校してすぐ、フォルトは教室へは向かわず専科塔の地術科の教室へと向かった。教室内には誰もいない。朝は、学生全員が集合する儀礼という講義があるのだが、フォルトはこれに参加したことはほとんどない。必須ではないし、取り分け話をする学生がいるわけでもないフォルトにとっては意味のない時間だ。
教室の大きめのソファーに座ると、直ぐに横になる。ここの教授も暫く来ない。そのためこの時間は絶好の昼寝時間なのだ。昼にしてはまだ早いが、昨夜帰りが遅かったこともありフォルトはいつもここで休息を取っている。邪魔が入らないうちにひと眠りをしようと目を閉じると、バタンを大きく音を立てて誰かが入ってきた。
「やっぱりここに居たわね」
「……」
目を開けてみると、元々釣り目だった目を更に吊り上げている女子学生が腰に手を当てて立っていた。金色の髪に、紫色の瞳。紫色の瞳は、王家の血筋であることを示す高貴な色とされている。傍系であってもこの色を受け継ぐ者はいるが、目の前の女子学生はその中でも濃い色を持っていた。それもそのはず、彼女は王家の直系の姫君なのだから。
面倒な奴が来たと思いながら、フォルトは身体を起こした。不敬だと言われないように、立ち上がって胸に手を当てる。
「グリューネ殿下、私に何か御用でしたか?」
「っ……な、何かないと来てはいけないとでもいうの⁉」
「わざわざ私のところに来るなど理由がないはずがありませんから」
わざわざフォルトを訪ねて来る人物などいないに等しい。目の前の人物にしてもそうだ。内心では早く帰れと言いたい。だが、曲がりなりにも相手は王家の姫である。面倒事は避けたいが、無下にすることも出来ないというのが厄介だ。
フォルトの言葉に顔を真っ赤にしてこちらを睨みつけている彼女は、グリューネ・イルスト・グランスタット。フォルトの一つ下なので、今は一学年だ。一学年である彼女が専科塔に用事があることなどあり得ない。それに一学年はまだ専門課程が始まっていない。ということは、普通に講義中のはずだ。つまりは、彼女は講義をサボっていることになる。指摘すれば、倍返しにして返ってくるので注意することはしないが、正直なところ王族がそのようなことをしていていいのかと思ってしまう。
「あ、貴方は私の婚約者でしょう⁉ 婚約者のところにきて何がいけないのよ‼」
「……そういえばそうでしたね」
「フォル!」
忘れていたことが気に入らなかったのか、グリューネは更に目を吊り上げて怒っている。これは明らかにフォルトが悪いだろう。
確かにフォルトと目の前のグリューネは婚約を結んでいる。それも王家からフィアート伯爵家へと申し込みによってだ。だが、この婚約が婚姻には至らないということをフォルトは知っている。何らかの理由をつけて解消され、その相手はフォルトの弟となることだろうと。それがフィアート伯爵家の望みだ。
ゆえに、フォルトにとっては全てが仮初のものでしかない。グリューネとのことも、この学園にいること自体もすべてはいずれ無くなるものなのだから。
「貴方がそのような態度だからいつまでも馬鹿にされるのよっ! 少しは私の婚約者だという自覚を持ってやる気を出しなさい」
「大丈夫ですよ。私の評価は殿下の評価には成り得ませんから」
実際にフォルトの評価など下げられるとこまで下げられているはずだ。これ以上は下がりようがないだろう。グリューネへは同情こそされ、彼女の評価に影響することなどない。特段フォルトが何かをしたわけではないのだが、周囲へは既にフォルトが無能であると広まっていた。わざわざ弁解するのも面倒だったのでそのまま放置していたら、状況は更に悪くなったということだ。学園の教授すら遠巻きにするのだから、余程のことだろう。どちらにしても、フォルトは一向に気にしない。貴族社会での評価など、いずれフォルトにとっては関係のなくなるのだから。
「私が気にするのよ! 第一王女である私の婚約者が、そのように言われて黙っていられるわけがないでしょう‼」
「では直ぐに婚約を解消して、別の相応しい相手を選べばいいだけではありませんか?」
溜息を突きながら、何度目かわからない話題を出す。そもそも、なぜ王家がフォルトを指名して婚約を申し込んできたのかが理解出来ないのだ。
フィアート伯爵家は、そこそこの歴史がある家。フィアート伯爵家の先代当主であるフォルトの祖父が国王の教育係を務めたという縁があるにはあるが、それだけのこと。婚約の話が出るまで、フォルトは王城へ出向いたことがなければ、お茶会などに顔を出したこともない。人前に出たことがなかった。というか、そもそもそれさえなければ自分が貴族だということも気づくことはなかったに違いない。
この話がなければフォルトはフィアート伯爵家の人間だと周囲には認識されることはなかったし、その前に生きてさえいなかったのかもしれない。そういう点に置いては王家に感謝してもしきれないが、現実に考えてフォルトと婚姻を結ぶ利点が一切見当たらないのもまた事実。これはフォルトだけではなく、周囲の大多数が思っていることだろう。
フォルトの言葉が気に障ったのか、グリューネの視線が厳しいものとなった。
「それは貴方の弟のこと? 悪いけど、あの男私は嫌いなの。悪い冗談はやめて」
「ならば尚のこと、早めに動いた方がいいと思いますよ」
「そもそも、私の婚約者は貴方だと言っているでしょ‼ これはお父様が決めたことなの! たとえ貴方でも私でもこれは変えられない。更に言えば、フィアート伯爵家の誰であっても変えられないわ。何回言えばわかるのよ」
国王が決めたこと。それは無論わかっている。そもそもこうしてフォルトが学園に来ているのも、その所為だ。王女の婚約者である以上、学園の卒業は必須だと。己が貴族であるという意識はないが、それでも国主である言葉には従うべきなのだろう。でなければ、このような巣窟に好き好んでくるわけがない。何度目かわからない溜息をついて、フォルトは立ち上がった。
「フォル?」
「……そろそろ専科の講義が始まります。そろそろ帰った方が宜しいのでは?」
「わ、わかってるわよ! それと、昼はちゃんと中庭に来なさいよ! いいわね」
ビシっと人差し指を立てるグリューネ。これもいつものこと。命令口調なところは流石王女様といったところだ。
「わかりました」
フォルトの言葉に満足したのか、急ぎ足でグリューネは教室を出ていく。タッタッタッタという足音が遠ざかっていった。誰も見ていないとはいえ、廊下を走るのは姫としてどうなのかとは思う。決して本人には言えないことだが。
「さて、そろそろ準備をするか」
人がほぼいないとはいえ、ゼロではない。制服の上からフードのついた服を羽織ると、フォルトは目深にフードを被った。顔を隠せるようにと。