4月1日に狂おう
ついに、秀夫にとって待ちに待った日がやってきた。
8時ぴったりに起床した彼は、ベッドから身を起こすと同時に会社へと電話をかける。
「あ、もしもし、すいません! 実はですね、ついさっき両親が死亡したので、今日は会社を休ませていただきたいんですよ!! あ、はいはい……そう! そうなんです!! ホントついさっき!! はい、盲腸で! ええ、2人ともです!! あ、それと、地元の風習にしたがって、葬式は約1ヶ月間かけて盛大に執り行いますので、次に出社するのは5月以降になります! よろしくお願いします!!」
一方的に言うと、秀夫は叩きつけるように電話を切った。
「30点……。いや、20点だな……」
呟きながら、いつものようにスーツに着替える。
トーストとコーヒーという軽い朝食を摂りつつインターネットをチェックすると、ヤフーやMSNなどの大手ポータルサイトが競うようにしてウソのネタ記事をアップしあっていた。
ざっと目を通してみたものの、あまりにもレベルが低く、最後まで読むことなく秀夫はブラウザを閉じる。
くだらない……!
なんなんだあの、一目見た瞬間にジョークだと分かる、世の中に何の影響ももたらさないような意味のないウソは!!
そういうのじゃないだろ……!!
エイプリルフールに求められているのは、そんな平和ボケしたものじゃないはずだろう……!?
ウソをつくのは絶対にいけないこと。
これが、幼い頃から我々が親や教師に繰り返し教え込まれてきたことだった。
狼少年の寓話の例を挙げるまでもなく、それがいかに反社会的で、人々から忌み嫌われるものであったかはわざわざ説明するまでもないことだろう。
なのに、どういうわけか今日! 4月1日だけは、ウソをつくことが法的にも倫理的にも許される……!!
絶対的なタブーが、一時的とは言えその効力を失うのだ。
それはいわば、善と悪の観念が逆転してしまうようなものだった。
あたかも戦時中、人が人を殺すことが正義だと信じられていたのと同じように。
タブーの解放。善悪の逆転。
そんな例が、エイプリルフール以外に存在するだろうか?
いや、ない。ありえないのだ。
良いものは良い。悪いものは悪い。その価値観が不変であるからこそ、倫理というものが人々の中に生まれる。
したがって、国家的大事でもない限り、それらがころころと変わるような出来事などあってよいはずがない。
つまり例外中の例外、エイプリルフールとは、論理的に考えると存在し得るはずのない異常な1日なのである。
だが世間の人の大半は、驚くべきことにその異常性にまるで気がついていなかった。
だからさっきのポータルサイトに書かれているような、害のない無難なウソが横行する。
そうじゃないだろう!
秀夫は叫びたかった。
4月バカというこの特殊な日は、そんなちょっとしたユーモアを味わうために存在しているのではない。
秀夫が今までの人生で考えに考え抜いた末に出した結論は、リセット……!!
価値観の、そしてモラルのリセットという役割を担っているのがエイプリルフールだというのが、彼が辿り着いた答えだった。
かつてアダム・スミスが提唱した「神の見えざる手」。
それは、市場経済の需要と供給のバランスが、大いなる力によって自然的に調節されるというものだった。
同様に、この世界の倫理観や善悪の概念というものも、目に見えない何者かの力によって均衡を保たれている。
そしてその調整機能の一端を担っているのが、逆転日であるエイプリルフールなのだ。
善、あるいは悪、どちらかに傾きかけている人々の意識を調整する弁のような役割を果たしているというわけである。
と言ってもそんな難しいことではない。
4月1日という新しい年度が始まるこの日に、今まで溜まっていた鬱憤を晴らすような感覚で、人々はレベルの高いウソをつきまくればいいだけなのだ。
あのポータルサイトのように、こんな日にまでモラルを意識し、中途半端なユーモアでお茶を濁す必要性などどこにもない。
今日ばかりは、我々のウソは法的に擁護され、それを責められることもないのだから。
数年前それに気がついた秀夫は、それ以来、世の中に存在しているであろう数少ない同志と共に、調整弁の役割を果たすべくシャレにならないウソをつき続けてきた。
冒頭で彼が呟いた点数は、そのウソの価値を客観的に数値化したものである。
寝起きで頭がまだはっきりしていなかったとは言え、最初から20点程度のウソをついているようでは先が思いやられる。
秀夫は顔を洗って気を引き締めると、今日という日をいかに効率的に過ごし、より高レベルなウソをつけるかを考えながら家を出た。
会社に着くと、上司や先輩が驚いた表情で秀夫を見た。
先ほどあんな電話をかけたのに、何食わぬ顔をして出社してきた自分の行動が理解できないのだろう。
「ご、権田君!! 君、ご両親が亡くなったんじゃないのかね!? 会社に来ても大丈夫なのか!?」
席につくと、うわずった声で課長が話しかけてきた。
出社途中に購入してきた本格派韓国キムチを手際よく自分の机の引き出しに詰め込みながら、秀夫は言う。
「いや、面倒くさくなったので葬式はやめにしました」
すると課長は、一瞬ポカーンとした顔をしていたが、すぐに笑顔になって言った。
「分かったぞ権田君! 4月バカだな!! そうだろう!? くだらんウソをつきおって!! はっはっは!!」
0点……。
秀夫は心の中で今のウソを評価する。
いくら咄嗟に出したものとは言え、こんな課長ごときにすぐに見抜かれるとは情けない。
とその時、視界の端に「エンタの神様でマジ笑った」という愚にもつかない話を大声でして、いつも秀夫をイラつかせている事務員の女が出勤してくるのが見えた。
秀夫は迷わず席を立ち上がって事務員に向かって全力でダッシュすると、そのまま両足をそろえて飛び上がり、豪快なドロップキックを決める。
ドスン
鈍い音を立てながら、事務員が壁に並ぶ金属製の棚のほうにまで吹っ飛んでいくのが見えた。
呆然としている社員一同と、ひしゃげた棚の下でひくひくと痙攣している事務員に向かって、秀夫は笑顔で言う。
「すいません!! 足が滑りました!!!」
誰も返事するものはいない。
よし、いい感じだ。
少々力技だったが、今のは50点をつけてもいいだろう……。
だが、まだまだ満足できるようなウソではない。
急いで席に戻ると、秀夫はパソコンを立ち上げた。
今日中に完成させて先輩に提出しなければいけない資料があるのだ。
もちろん出来ているはずがないので、「つまづいたっていいじゃない 人間だもの」とだけ書いたメールを送信する。
そしてバッグを掴んで勢いよく立ち上がると、「今日の仕事は全部終わったんで、帰ります!!」とオフィス内に響き渡る声で力強く宣言し、会社を飛び出した。
もうここにいても、これ以上いいウソはつけないだろうという計算だ。
電車に乗ってビジネス街から歓楽街へと移動し、何か良い題材はないかと視線を彷徨わせる。
お決まりのネタである、「コンビニに抜き打ちで査察に来た本部の人のフリ」をやってみたが、いまいちぱっとしない。
最終的に、「レジの女の子のレベルが低かったから」という理由でフランチャイズ契約を打ち切るという話をして店長に土下座して謝らせてはみたものの、その感覚は拭いきれなかった。
30点……。呟いて店を出る。
秀夫がこうもレベルの高いウソにこだわるのには、調整弁としての役割を果たしたいということ以外にも理由があった。
いや、むしろそちらの方が、正直なところ秀夫にとっては重要だった。
目を軽く閉じて、一瞬、意識を深く沈みこませる。
「浮気しとらん!! ワシは浮気しとらんぞ!!!」
それだけで、頭の中であの声がリフレインした。
あれは、今から数年前の4月1日のことだ。
秀夫の父親は、母親の目の前で別の女の人と全力で性行為に耽りながら叫んだ。
「しとらん!! ワシは浮気はしとらんぞ母さん!! 生まれてこの方、浮気などしたことが……あっ、いく……」
完璧だ、と思った。
誰がどう見ても浮気をしている状況で、「浮気はしていない!!」と声高らかに叫ぶ。
人間がつけるウソの最終形態だった。
相手にバレないように隠すからウソ。
あの日彼の父親はその概念を根本から覆し、騙す騙される以前の状況でもウソというものは存在し得るということを実証したのだ。
恐らく父は、秀夫が辿り着く遥か以前から、エイプリルフールが持つ本来の意味に気がついていたのだろう。
だからあんな無茶なウソをつき、母さんの精神を崩壊させてまで、調整弁としての役割に徹したのだ。
あの日以来、秀夫はずっと父がついたウソの影を追いかけている。
いつかあのウソを乗り越え、前人未到のエイプリルフールを体現する。
それが、自分が生まれてきたことに与えられた意味なのだろうと考えていた。
事実、1年に1度、4月1日にだけ、秀夫は自分が生きていることを実感できた。
だが、どんなにウソを重ねても、あの時見た衝撃を超えられそうな気配はない――。
吉野家に、「豚肉測定器」と称して体温計を持って入り、注文した牛丼にそれを突き刺して、「これ牛肉じゃなくて豚じゃねーか!? ほら! 機械の数値見てみろよ!?」といちゃもんをつけ続けるという近代的手法を用いたウソをついて代金を支払わずに店を出た頃には、もう日が暮れかかっていた。
今日1日でついたウソの数は、既に50を超えているだろう。
だが結果は芳しくなく、父を超えるどころか、80点オーバーのウソさえ1つもないようなありさまだった。
このまま今年のエイプリルフールは終わってしまうのだろうか……。
考えると、ぞっとした。
秀夫は来年でもう、30歳になる。
凡人である自分が規格外の発想を持つ父を超えるためには、若さを武器にするしかないと思っていた。
成長し続ける感性が、当時50歳を回っていた父を打ち倒すための鍵になるかもしれないからだ。
だがおそらく、それを頼りに出来るのも今年が最後だろう。
30歳を過ぎれば、自分の感性もどんどん衰えていく。
そうなれば、もう一生父を超えることなど出来る気がしない。
それなのに、今日という日をこんなふがいない結果のまま終わらせていいのか……。
頭を抱え、うなだれる秀夫の前を1人の小柄な女性が通り過ぎていく。
秀夫はただ、何をするでもなくそれを呆然と眺めていた。
歩いていく女……。女……。
女を見ていると、先ほど会社でドロップキックをかました事務員のことが思い返された。
そういえば、あのウソはなかなか良かったな。
力技ではあったけど、みんなの目の前で明らかに蹴りを入れたのに、足が滑っただけというのが父親の発想に似ていた。
いや、待てよ……? 力技……みんなの前……。明らかなウソ……。
不意に、秀夫の頭の中にある閃きが走った。
「力技による……明らかなウソ……」
その場にしゃがみ込んでぶつぶつと呟いているうちに、最初は単なる線のようだったものが段々と立体的になっていき、明確な形として秀夫の脳裏に浮かび上がり始めていく。
秀夫は即座に、これまでについてきた数々のウソと、今思いついたウソを比較してみた。
そうすると、そのアイディアが圧倒的に優れているのがすぐに分かった。
そして次に、父のついたあのウソとも比較をしてみる。
「これだな……」
磨き続けていた感性は、自分を裏切らなかった。
このウソが父をも超える可能性を持つことを確信した秀夫は、力強く立ち上がる。
辺りを見渡すと、先ほど通り過ぎていった女性が、数メートルほど離れたところにいるのが見えた。
まるで狩りをする獣の様に、秀夫は静かにその後を追った――。
新宿駅西口交番の前に男が現れたのは、ちょうど帰宅ラッシュが始まる、時刻18時を回りかけた頃のことだった。
「おまわりさーん! 見てくださーい!!」
交番内で書類整理をしていた巡査は、やけに元気よく外から呼びかける声に気づいて顔をあげた。
だがその瞬間、彼は凍りついた。
目の前では、サラリーマン風の男が、振り上げたナイフを脇に抱えている女性の頚動脈に今まさに振り下ろそうとしている寸前だったからだ。
「おいお前、何をやってる!」
止める間もなく、大型のサバイバルナイフが女性の頚動脈に突き刺さり、噴水の様に血液が舞い上がった。
辺りはたちまち阿鼻叫喚の地獄絵図となり、四方八方からの悲鳴が場を支配する。
だが不思議と、その男の声だけはハッキリと巡査の耳に聞こえてきた。
「殺してませんよ!!」
なんだ……?
何を言っている?
「僕は殺していませんよ!!!!」
言っていることが理解できず、体を動かすのが遅れる。
そのせいで、男が第2撃を女性の胸の辺りに刺し込むのも止められなかった。
「殺していませんからね!!!」
もはや、何かを考えている場合ではない。
警棒を構えて飛び出そうとすると、パトロールに出ていた別の巡査が背後から男を取り押さえた。
そして女性から、男を無理やり引き剥がす。
だが女性が既に事切れているのは、誰の目から見ても明らかだった。
「おまわりさん、殺してないですよ僕は!!」
うつぶせになって体を地面に抑え付けられながらも、男は先ほどと同じ言葉を繰り返す。
「何言ってるんだお前!!」と、取り押さえた巡査が男を怒鳴りつけた。
すると男は、明らかな侮蔑を顔に浮かべ、「嫌だなあ」と言った。
「おまわりさん、今日が何の日か分かってないんですか?」
「何言ってるんだお前! 自分のしたことが分かってんのか!」
「それはあなたたちですよ。こんなことしても無駄ですよ。いいですか、今日は――」
エイプリルフールなんですよ。
男が、嬉しそうに口を歪めて言う。
巡査たちは2人とも、その意図するところがまるで理解できず、返す言葉を失った。
「エイプリルフールに僕はウソをついただけなんだから、こんなことをしても僕のことは裁けませんよ。法的にも、今日ウソをつくことは認められているんです。いいですか、リセットするだけなんですよ、モラルを……」
男の腕を逆十字の形で固めながら、巡査が絞り出すような声で言う。
「だから……どうしたんだ……?」
くっくっく、と男が笑った。
その顔はなぜか、勝利への確信に満ち溢れているようだった。