理想そのものの人物
左右田「めんどくせえよ。さっさと進めて終わらせろ!」
教授 「失礼しました。被験者が…、この場合の被験者とはみなさんのことです。被験者が聞く言葉は前述した通りですが、みなさんがレバーを引くのをためらった場合に私が言うこともほぼ統一されていました。『続けて下さい』『実験のためです。あなたが続けることが必要です』『あなたが続けることが絶対に不可欠です』『迷うことはありません。続けるべきです。責任は我々が取ります』『ショックは痛いかもしれませんが、皮膚組織に損傷が残ることはありません。ですから、どうぞお続け下さい』『あなたがどう思っても、続けなければなりません。大丈夫です。あなたに責任を負わせることは絶対にありません』『あなたのわがままのために、一千万円以上の金がかかった実験を台無しにしないで下さい』『彼は、この実験の被験者になることに同意しました。彼自身がいいと言っているのです』といったものです。これも、被験者によって差が出ないように気をつけました」
近藤 「そんなにおだやかな口調じゃなかったぞ。何とかしてレバーを引かせようっていう執念みたいなものを感じた」
榑林 「まあ、気持ちの問題じゃないだろうけどな」
教授 「同じ体験をした被験者が、それぞれどんな反応をするかを比べようとしたわけです」
近藤 「同じ体験をしたとしても、やったことは違うはずだ」
教授 「確かに、近藤さんは被験者を助けるために正解のみを大声で言うということを行っています」
近藤 「(榑林に)あんたはどうしていた?」
榑林 「言いたくないね」
近藤 「(教授に)こいつはどうしてたんだ? おれの様子を話した以上、こいつの様子も話さなければフェアじゃない」
教授 「榑林さんは…。被験者が誤答するたびに『バカめ』『こんなことも覚えられないのか』と言いながらレバーを引いていました」
榑林 「だってそうだろう! 『戦闘機』だの、『天体間飛行』だのといった印象の強い単語さえ覚えられないんだぞ! あんなバカは、ぶん殴ってでも覚えさせるしかない!」
近藤 「あのな、460ボルトの電流を本当に流されたら死ぬことくらいわかるだろう! つまりあんたは、『こいつバカって罪で死刑』とでもいいたいのか!」
榑林 「偉そうに言うな! 結局あんただって、460ボルトのレバーを引いただろうが! 気持ちの問題なんかじゃない! 何をしたかなんだよ!」
碧、榑林の「気持ちの問題なんかじゃない。何をしたかなんだ」というセリフを聞いて涙を指で拭う。桃子、碧の上半身を抱きかかえる。
桃子 「(近藤・榑林に)あんたたち、いい加減にしなさいよ…」
小坂 「すいません!」
桃子 「あんたが謝ってもしょうがないでしょ!」
小坂 「そうですね…。(ポケットからハンカチを出す)良かったら受け取ってください。別にこんなキモいオヤジのハンカチなんか使えないということなら受け取らなくてけっこうですし、たとえ受け取った後でもこの場で捨ててくれて結構です。だけどもし、気持ちが悪くないようでしたら使ってください!」
碧、小坂の迫力に負けてハンカチを受け取り、涙を拭く。
大谷 「あんた、気を使ってるつもりかもしれないけどかえって気を使わせてるぞ…。(碧に)それよりぼくとデートしましょう! この人みたいに気を使わせたりしませんよ!」
桃子 「あんたはあっちに行ってなさい!」
教授 「実は、近藤さんの『正解のみ大声で言う』という行動ですが、別にあなただけではありません。この実験ではわりとよくある反応です」
大谷 「え? わりとよくある反応って、どういうことですか?」
教授 「この実験は私のオリジナルではありません。1963年にエール大学で、社会心理学者のスタンレー・ミルグラムが行った『アイヒマン実験』を踏襲したものです」
佐倉井「アイヒマンねえ…」
教授 「アドルフ・アイヒマンはナチスドイツ時代の軍人で、ユダヤ人虐殺に協力していました。しかし、戦後逮捕されたアイヒマンを観察してみるとごく普通の小役人でしかない。そこで、もしかしたら権威に強く命令されればごく普通の人でも殺人を犯してしまうのではないかということからこのような実験が行われました。結果、実に多くの人が460ボルトのレバーを引きました。これは世界中で何回も何回も追実験が行われています。私の実験はミルグラムのオリジナルと、2009年にフランスのテレビ局で行われた『死のテレビ実験』の影響を強く受けていますが、テレビ局の実験ではさらに多くの普通の人々が、460ボルトのレバーを引いています。したがってみなさんは、決して残酷な人々ではないということです」
緒方 「その、世界中で何回も追実験が行われていることを、あなたがあえて行った理由はなんですか? すでに結論が出ているにもかかわらず、なぜ被験者にこんなストレスを与えてまで実験をしたんです?」
教授 「太平戦争時の日本軍の蛮行には、日本人の資質が関わっているのではないかと思ったからです」
佐倉井「は? 日本人には殺人遺伝子が組み込まれているとでも言うつもりですか?」
教授 「殺人の動機や状況はそれぞれ多様です。殺人遺伝子などありえません。ただ、日本人は多くの外国人に比べて権威に服従しやすいのではないかと思ったのです」
佐倉井「戦前の日本人が権威に服従しやすかったから、今の日本人もそうだと? ユングのいう『集合無意識』か、『ドグラマグラ』の『心理遺伝』か、『親の因果が子に報い』みたいな話ですね」
教授 「ほかのことはよくわかりませんが、ユングの『深層心理学』は科学とは言えません」
佐倉井「あれも心理学でしょう?」
教授 「フロイトやユング、アードラーの言っていることは実証することが不可能なことばかりです。我々が行っているのは行動心理学、人間がある状況に置かれたらどんな行動をするかを観察していくという学問です」
佐倉井「だったらあなたは、日本人には『権威に服従する遺伝子』が組み込まれているとでも思ってるんですか? なんだかひどく差別的な説だと思いますか」
近藤 「しかしもし、そういうモノが実証されたなら、認めなきゃならないだろうな」
佐倉井「何を言ってるんです?」
近藤 「実証されたらの話だよ。別にそんなものを信じてはいない。だけど実際に存在するものを、差別的だからという理由で無いものとしてしまうのは理屈に合わない。おれは理に叶わないものが嫌いなんだよ」
榑林 「おれのやったことと自分のやったことは違うっていう言い分は、理に叶っているとは思えないが」
佐倉井「違う部分もあるし同じ部分もある。どちらを強調するかだけでしょうね」
近藤 「あんたも理屈っぽいな…」
教授 「私も別に、『権威に従属する遺伝子』なんてものが実在するとは思いませんよ。ただ、文化的にそういう傾向があるのではないかと思ったのです」
佐倉井「しかし、『太平洋戦争時の日本軍の蛮行』っていうのは、南京事件みたいな戦争犯罪のことなんでしょう? 南京占領のときに何があったのか、いまだにはっきりとしたことはわかっていませんが、たとえあったとしても個人犯罪です。権威に服従するしないは関係ないでしょう」
教授 「多くの兵士が、上官の命令によってアジアを侵略しました」
佐倉井「『侵略』とかいう大ざっぱな言葉を使われても返事のしようがありません。それに太平洋戦争をきっかけにしてアジアの多くの国が独立できたっていう経緯もある」
榑林 「おまえ、やっぱりネトウヨだな…。仕事は何してるんだ?」
佐倉井「商店街の八百屋ですけど」
榑林 「自分の現状に不満を持っている者が、日本や日本軍に自分を同化させて、自分が強くなっているような気がしている。それがネトウヨだ」
佐倉井「あなたのお仕事は?」
榑林 「高校で音楽を教えている。吹奏楽部の顧問をしている」
佐倉井「音楽をやっている人の鼻持ちならないエリート意識はどうにかならないものですかね」
榑林 「なんだと!」
佐倉井「あなたは八百屋を差別している」
榑林 「八百屋を差別しているのはおまえだ! 八百屋の仕事に誇りを持っていないからこそ、無能で残酷だった日本軍に自分を重ねたりするんだ! そんなとっくに滅んだ組織に幻想を抱くのはやめて、今の自分に誇りを持つべきなんだ!」
教授 「榑林さんの、自分が痛めつけている相手を軽蔑するという態度も、この種の実験ではよくあることです。権威に命令されて迫害しているにもかかわらず、被害者が悪いから迫害していると思いこんで、良心を麻痺させている。戦前の日本人が、自分たちが支配していた民族を軽蔑していたのと同じだと言えるでしょう。自分が迫害しなければならない責任を、被害者にかぶせている。」
榑林、白けて黙りこむ。
緒方 「(教授に)こんなことを聞くのは失礼ですが、あなたがこの実験の被験者になったら、どう行動すると思いますか?」
左右田「そんなこと聞くなよ。めんどくせえことになるだろ…」
教授 「構いません、答えましょう…。これは言うつもりはなかったのですが、自分が心理学科の学生だったころ、このアイヒマン実験を受けたことがあります」
緒方 「それで、結果は…」
教授 「いかなるボルト数のレバーを引くことも拒否しました」
左右田「理想的だな…」
緒方 「(左右田に)理想的ですね…」