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歩道橋と賛美歌

作者: さくら

私は誰の幸せにも役立てなかった。


タクシー運転手がいつでも死ねるのと同じように、私はいつも電車に乗って死を待っていた。


それは、夏の日照りに神様の涙がその青い頬を撫でた時、前髪が濡れてしまうからと急いで走った歩道橋の上であった。私はいつもの電車にあの時のタクシー運転手を見ていた。あと少しハンドルを切ればいつでも死ねるからと言って海に連れて行ってくれた、黒い目をしたタクシー運転手を、私は何よりも愛していたから。


夏の日照りに薄紅色の賛美歌が聴こえた時の海のさざ波に、私たちを祝福する拍手が聞こえた日だった。タクシー運転手の首元に噛み付いて、赤い涙を見たかった。あと少しハンドルを切ればいつでも死ねるからと言って海に連れて行ってくれた、黒い目をしたタクシー運転手が怖かった。どうか私が殺されないようにと、彼を殺した。

電車の車輪がそろそろ錆び付いてきた。

彼の血で錆び付いてきた。

何れ死ぬ太陽のような私の心臓の音に耳をすませば、そろそろ彼の血で錆び付いてきた。

立て付けの悪くなったドアが酷い音を立てた時、そこには彼の血がこびりついていたから。

そろそろ彼の血で錆び付いてきた。

高架橋のレールが、遠くでことこと鳴った。

その時、朗らかな風の吹く時、喘息みたいに軋む音がしたのに、ぼやけた視界を回せば何も無い。でも、彼が最後に干していった洗濯物に、セミの抜け殻がひとつ、付いていた。


夏だね、

夏ですね、

愛する彼は死んだのですから

愛するこころは息をやめたのですから、

愛せるこころは冷たくなったのですから、


愛ゆえに寂しいことに疑問を持ってはいけないと誰かに言われた気がした熱帯夜に、お前はつまらないやつだと言い聞かせた。自問自答が苦しかった。そんな夜だった。

月夜に彼の横顔が浮かんだ。彼の涙に夜汽車の煙を思った。星屑の混じった煙が、音もなく瞳に流れ込んできた。線香花火が落ちた。

ああ、とそこ吐息の同時だった。ひらりひらりと舞い落ちた薄いからだがマネキンのように硬直してべチャリと潰れた時に、小さな赤子が生まれ落ちた。潰れた肺をめいいっぱいに膨らませた。赤子の産声は生命の神秘だった。

ああ、とその涙の同時だった。夜汽車の切符を買ってやった。改札に引っかかった鞄を直してやった。ドアが閉まりその人の身体が水平線に消えた時、私の電車は行ってしまった。タクシーには後で乗ればいいのだ。熱帯夜は嫌いだった。星屑の涙が嫌いだった。赤子の生まれた日が嫌いだった。蜃気楼に浮かぶ線路が嫌いだった。気付けばまた、ベタつく皮膚が彼の血と混ざって錆び付いた。夜汽車はただ、哀しかった。


泣きながら笑った彼を忘れられなかった。


傷つきながらも笑うその癖がもたらしたことに私の神様は良くやったと声を上げた。幸せがやってきたのだと言った。赤い月が沈む頃。今もまだ、酩酊の夜明けが無くした何かの埋め合わせを探し続けている。

風景を探している。

景色を探している。

そこにある色を探している。

そこにある匂いを探している。

そこにある唄を探している。

そこにある死を探している。

あの日タクシーの小さな窓から見えた景色は私の知らないものだったのだ。色のない景色が驚く程に私の世界と違うもので、違和感が私の目を瞑らせた。裸足の足で感じた砂浜はどこへ行ったのだろう。そこで死んでもいいと、私は思っていた。


月日はいつでも悪夢だった。

私は人を不幸にすることしか出来なかった。私の存在が人の悲しみと怒りをもたらした。涙の海と、血の雨が、私の全てだった。時は絶えていた。私の愛した紺青の空が私に死ねと言った。タクシー運転手の名前はもう思い出せなかった。

独り肯定の隅っこで体育座りをして死にかけの蛾を見ていた。肯定が作った部屋は嫌に快適で、そこはいとも容易く私の嫌いな生命を殺した。気に食わない教師と道すがら会った酷い人々、臭い犬と腕を這った百足はばらばらになって消えた。私はいつも静かに泣いていた。

帰り道のビルの隙間を生臭い風が高く、高く通り抜けた。いつか見た歩道橋。そこに反射する夕焼けがやけに悲しい意味を考えていた。通り抜ける風がなぜ報われないのか考えていた。私の悪夢がいつ覚めるのか、考えていた。


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