ドロップアウトは二人だけで
「来て良かったね、ほんと。」
これほどまでに幸せだった事があっただろうか。
「うーん・・・ふう。」
こんなにも成長した彼女。成熟を見せつけるかのように、天へと力一杯腕を伸ばす。
胸の膨らみよりも、あどけない面影の残る、堅く閉じられたまぶたへ視線が誘われる。
「神様がくれたアディショナルタイム・・・良いタイトルだと思わないか?」
「ちょっと気取りすぎ。何のお話かわからないよ。」
「そうか・・・じゃあ、もう少し考える。」
「いつだって待ってる。」
だから、君が好き。
教習所で習った教訓で一番役に立ったのは“アクセルと右のタイヤの位置は同じ”である。
問題は、左の間隔がわからないという事だ。
「ああ、もう・・・。」
左のライト部分は完全に壊れている。車内からでもわかるくらいに粉々だ。
まあ、電柱に勢い良く衝突したのだから当たり前だろう。
「こんな大事な時に・・・。」
言葉とは裏腹に、目的地にたどり着かなければいいのにと、心は叫んでいた。
妹の結婚式が待っている。社会の歯車を回さなければ。
だが、熱はラジエーターの許容範囲を超えたのだ。
「熱い・・・熱い!」
いらいらして思わずピラーを殴る。
もういい。毎日毎日なぜ誰かの為に生きなければならないのか。
これ以上遠慮なんかするもんか。
俺は勢い良く車の扉を開け、外に出た。
「ふぅ・・・。」
涼しい。だが、すぐに寒くなる。当たり前だ、北日本の冬は寒いのだ。
ふと右ポケットの携帯を取り出すと、妹から6件も電話が来ていた。
リダイアル。
プルルルル、プルルルル。
「あ、もしもし。」
「お兄ちゃん、迎えにきて。」
事情が掴めない。彼女の声はか細く、幸せとは程遠い印象を与えられた。
「え?もう式場じゃないのか。」
「カフェにいるから、あのカフェだよ。お願い、来て。」
「ああ、もちろんだよ。」
「お兄ちゃん、会いたいよ。」
「今から行くよ、待ってて。」
思い出のカフェはここから近い。
早歩きで向かう。
「なあ、親は?」
懸念事項を確認。俺は父と血が繋がっていない。母とも仲が悪い。
今風に言えばネグレクトされて育った。
救いがあるとすれば、両親の血を引く妹は愛情たっぷりに育てられた。
俺はそれがとても嬉しい。この残酷な世界にも神はいるのだと思える唯一の事柄だ。
「私一人だよ。あんな親をお兄ちゃんに会わせるわけない。」
電話の声は鋭く、怒りがこもっていた。
「そうか。でも、仲良くしろよ。」
「無理。」
「無理か・・・じゃあしょうがないな。」
「うん・・・しょうがないんだよ。」
俺たちにしかわからない会話。
俺は大学に行きたかった。妹は違う。だが実際に進学したのは妹。
妹は公務員になりたかった。俺は違う。だが実際に就職したのは俺。
本当に、しょうがないんだ。
人生は選べるものではない。でも、願望はある。
その願望を試みる権利だけでも、あると信じたい。
「嫌なら、やめようか。」
「・・・うん。お兄ちゃんもそうしよう。」
カフェから妹を連れ出す。
「海が見たいな。」
「寒いぞ。」
店の前でも息は白い。
「だから行くの。」
道すがら、妹はカフェの茶色い紙袋のパンを一つ頬張る。
口いっぱいに含む。
「もごもご。」
助けて、と言いたいのか?
「どうすればいい?」
彼女は両手で俺の口をこじ開けようとした。
やりやすいよう、脚を曲げ、大人しく口を開けて待つ。
「んん。」
彼女の唇は柔らかい。
かつてシナモンロールと呼ばれたであろう物体は、思っていたより甘かった。
「太るぞ。」
「太った私は嫌い?」
否定の方向に首を振る。
「うん。じゃあもう一口。」
「電車に乗るなんて久しぶりだね。」
昼前の電車。土日にしては空いていた。
海は北だから、見えるよう右側の窓際に座らせた。
「ねえ、さっきのがファーストキスだって、信じてくれる?」
「見合いじゃないんだから、婚前にキスぐらいしてるだろ。嘘つき。」
「さて、私はどうしてキスをしなかったのでしょうか。制限時間は・・・。」
良く動く唇を唇で塞ぐ。今度はさっぱりと。
「俺も同じだよ。」
「・・・うん。」
「わあ、田舎だと思ってたのに。」
人が多い。
「ねえ、ちょっと買い物してこうよ!」
「ああ、欲しいなら買うよ。」
駅前は、地方にしては発展しており、海産物以外も一通り揃う。
一人だと絶対入らない、量販店ではない服屋に入る。客は俺たちだけ。
「ねえ、スーツよりこっちの方が似合うよ。」
彼女の持っている空色のジャケットは、赤いボタンが特徴のカジュアルな代物。
「君が選んでくれたものなら。」
着てみる。
「ほら、かっこいい!」
「君だって、かわいい。」
「ああもう、そんなに言わないでよ。」
彼女の涙袋が上がる。
「どうして?」
「他の事、考えられなくなっちゃう。」
「じゃあ、考えるのやめようか。俺もそうするから。」
彼女は脱力し、俺の胸に顔を埋めた。
「嬉しいよ・・・嬉しいよう!」
声がする度、口の中の熱を感じる。
嬉しさを身体で表現しているのか、脇腹になんどもテレフォンパンチされる。左右交互に。
「うみー!」
人がいないから、思い切り叫ばせることができた。
「運河の方が良かったんじゃないのか。」
「そっちだと、遊んじゃうから。」
テトラポットに座り、危険を楽しむ彼女。
「そんな暇、欲しいね。」
「お兄ちゃんのせいだから。」
「その通りだよ。だから、ここで清算してもいい。」
「そしたら、私だけ死なないといけなくなる。」
愛の言葉を囁かれ続け、いい加減たまらなくなってきた。
俺は駆け寄り、背後から強く、強く抱きしめた。
「ねえ、ホテル行こう。」
「男の子らしいね。」
不安になる。
「行ったこと・・・ある?」
「ううん。お兄ちゃんは?」
「何回も誘われたけど、断った。」
「なんで?・・・ふふ、冗談だよ。」
説明しようと作った口が行き場を失い、彼女のうなじへと着地した。
「はは、くすぐったいよ。」
しばらく抱き合って、ここが恋人達の園であることを忘れた。
「お兄ちゃんって、意外と大きいね。」
「見た事無いくせに。」
「こんなにくっついたらわかるよ。」
「君は小さいね。くっついたからわかった。」
「嫌い?」
「好き。」
「なんで?」
「君の特徴だから。」
何もかもあっさり。
結婚式だって、人並みの不幸だって一瞬だ。
「でも、お兄ちゃんの最後でよかった。」
「君の最初で良かった。」
「最初で最後、だよ。」
「だから、俺も同じだって。」
「なんでだろうね。ふふ。」
「あはは、本当に狂ってるよな。」
隔てる必要なんか無いから、自然のままで、不自然な関係のクライマックスを。
「少し、寝よう。」
「うん、おやすみ。」
「夢で会おう。」
「迎えに来てね。」
「今日と同じ?」
「白馬には乗ってよ。」
「じゃあ、ドレスを着て来て。」
「ウェディング?」
「ああ、二人だけで。」
「明日の計画、決まったね。」
「何もかも俺が貰っていいのか?」
「駄目って言ったら、どうする?」
「奪うよ。」
「無理矢理?」
「うん。」
「全部貰ってね。」
「うん。」
ウェディングドレスを着た花嫁。
崖の上は寒い。
「現実は非情だね、お兄ちゃん。」
花嫁は、昨晩と立場が逆転し、俺に包まれている。
野蛮な音がする。
車から降りた男達は、こちらに駆け寄る。
「動くな!飛び降りるぞ!」
叫んでみたら、やはり彼らの脚が止まった。
「無駄な抵抗はやめろ!」
「携帯のGPSかな?」
囁く彼女。
「だろうね。」
「失敗しちゃったね。」
「うん。」
「じゃあ、どうしよう?」
「夢で会おう。」
「迎えに来てね。」
「昨日みたいに?」
「いつもみたいに。」
「俺でいいのか?」
「嫌だって言ったらどうする?」
「奪う。」
「全部貰ってね。」
「君が望まなくても。」
「じゃあ、いっせーので。」
「いっせーの!」
位置エネルギーが産み出す風圧。
抱き合っているから、寒くはない。
きっとスローモーション。こんなに長く口づけを交わしているのに、息継ぎの必要が無い。
そして、いつの間にか、ドロップアウト。
俺の花嫁は、今や天使だ。イスに座っている。
「お腹、減ったね。」
白いテーブルの上の紙袋をがさがさ。取り出したモノを頬張る。
「んふんう。」
「ちょっと上手くなったな。」
俺は彼女の肩を抱き寄せ、右手で頬を包む。
口の中に甘い味覚が広がる。
「おいしい?」
「まあまあ。」
「もう一口?」
肯定の方向へ首を振る。これで良かったんだ。
「失敗を選んで良かった?」
「性交は成功。」
「おじさんだね。」
「そのうちおばさんになるよ。」
「お似合いだね。」
「今だってそうだし。」
「生まれた時からね。」
「人生は選べないね。」
「だから、諦めもつく。」
「ひどいなぁ。」
「こんなひどいの、ずっと続けば良かったのに。」
「これから、永遠に続けよう。」
口を塞ぎ合う。ここがどこなのか忘れる程。
息が止まるまで続けよう。
だって、もう止まっているんだから。
永遠なんて、そんなもの。