最小規模の戦争
不気味なほどに静かな、広々とした空間。
蠢いていた床も眠ったように動きを止め、一切の音が消えている。
あまりの静けさに、己の心音や血流の音が耳に届く。
命の鼓動だけが存在を示し、暗闇は静かに佇むだけだ。
数瞬の後、一番速く動いたのは玻璃だった。
闇の先を覗こうと、剣を構えたまま一歩を踏み出す。
「……行くぞ」
玻璃の声に導かれるように、全員の足がゆっくりと動き出す。
警戒は最大に、慎重な足取りで目の前を見据える。
はたして待つのは、鬼か悪魔か。
それとも、それ以上の何かなのか。
しばらく進んでいると、ある変化が訪れた。
生き物のような床が次第に姿を変え、舗装された石床のように変化したのだ。
柔らかで不気味な感触は馴染みのある固い物に変わり、コツコツと足音が響く。
次に訪れたのは光。
光源がいったいどこにあるのか、ぼんやりと周囲が照らされだす。
まるで空間全体が光源だとでもいうように、微弱な光が生まれていた。
そして、最後に生まれた変化は影。
歩き続けた英雄を出迎えるがごとく、一つの影が目の前に現れる。
「――――」
その影は一切動かず、音も発しない。
ただそこにある、ただの影。
なのに、誰一人としてその影から目を離せなかった。
一歩、一歩と近づくたびに、その影は鮮明に姿を晒す。
「――は、ぁ?」
思わず、輪廻の口から間抜けな声が漏れた。
それは輪廻にも、玻璃にも彼方にも見覚えのあるものだった。
だが、どうしてそれがこんなところにという思いが英雄の心に満ちていく。
氷と炎が隣り合わせに配置されているような違和感が、どうしても拭えない。
それは、一人の男だった。
その服装は、帯青茶褐色の軍服。
身に着けているのは、白の手袋に、錆びた軍刀。
胸元には多くの勲章が付けられ、その殆どが傷つき錆びている。
それはどう見ても、大日本帝国陸軍の姿をしていた。
背筋を伸ばし、虚ろな眼でどこか遠くを見ている。
「これは、なんだ……?」
エクレールはその存在をどう扱えばいいのか判断できない。
英雄たちとは違い、彼女やリーリエはその姿すら見たことがないのだ。
未知の存在。
それは意識していたはずの警戒を奪い、無防備な姿を晒させる。
敵地の最奥であるという事実が、この瞬間だけは誰の中からも消え去っていた。
「gaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa!」
獣の鳴き声が反響する。
いつの間にか、軍服を着た男の背後で多くの星喰獣が叫び声を上げていた。
「――構えろ!」
即座に臨戦態勢へ移行するも、なにか様子がおかしいとエクレールは訝しむ。
「星喰獣が、襲ってこない……?」
本能のままに全てを破壊するはずの星喰獣。
なのに、今の星喰獣は鳴き声を響かせるだけでこちらに向かってこない。
今にも英雄や軍服の男へと襲い掛かっても、なにもおかしくはないというのに。
「………………」
軍服の男が、軍刀を構えた。
目に見えて錆びの浮き出た刀は、今にも朽ちて折れそうなほどに劣化している。
指揮棒のように軍刀を一振り。
すると、背後の星喰獣がゆっくりと英雄たちへ向けて歩き出した。
「星喰獣を、操っているのか!?」
異常事態に継ぐ異常事態。
混乱を繰り返す脳内を必死に整理し、戦闘態勢へ移行。
当面の脅威を排除するため、英雄たちは武器を構える。
この星喰獣は、弱い。
それが数度切り結んだことで玻璃が抱いた印象だ。
かつて戦った固体に比べ、小さく脆い。
圧倒的であった暴威は、万全の状態であれば正面から受けきれるほどにまで弱体化している。
無論、その力は依然として脅威ではある。
だが、意思なき力でこの程度なのならば英雄が敗北する道理は存在しない。
「……ッ!」
そう、そのはずなのだ。
英雄三名に加え、支援魔術が飛び交う状況。
これ以上はない精鋭を集めた六の連携。
どこまでも、人間側に有利な状況しか現れてはいないはずだ。
だが、巻き起こる光景がそんな希望的観測を打ち砕く。
圧倒できるはずの星喰獣ごときに、英雄は追い詰められていた。
「ハァッ!」
星喰獣が致命傷を避け、庇い合い、戦列を組んで連携を披露する。
存在しないはずの連携が怪物たちの間で発生し、獣の猛威を数倍に引き上げている。
人類が星喰獣と戦えていたのは、知能の差によるものだ。
人だけが持つ知恵を駆使し、他者と力を合わせることで戦いが成立していた。
十は百に勝てないが、十を知能で三倍にし四人の力を合わせて百を超える。
だがもしも、もしも八十が力を合わせたら?
人間以上の数がいる星喰獣が、連携という概念を持ち込めば?
誰にでも分かる結果だ。
そんなもの、戦いが成立しなくなる。
そして、その元凶は今も佇んでいた。
時折軍刀を軽く振るうだけの動作で、この場の数十という星喰獣を操っている。
「玻璃、左へ回れ! 輪廻は下がって支援へ!」
そして、その指示は驚くほどに適格だ。
エクレールが必死に指示を続けるものの、防戦からは未だに抜け出せてはいない。
間違いない、あの軍服の男は人の上に立った経験がある。
そう確信するエクレールだが、そこから先がどうしても繋がらない。
どうして、そんな男がこんな場所で、星喰獣と共に。
浮かび上がる憶測は無数に増え続ける。
だが、そんなことに意識を割いている余裕は存在しなかった。
今はとにかく、勝つために。
六対数十の戦争は、始まったばかりなのだから。




