英雄ではない英雄
長期の行軍では、様々な問題点が噴出する。
補給線、衛生、人間関係……
出そうと思えば無限に湧き出る問題を解決し続けながら進むのは、どれだけ悲観的な想定をしたとしても足りなかったと後悔することになるのが通例だ。
更に、現在ミズガルズでは深刻な人手不足が起きている。
英雄は言うに及ばず、将を務めることができる人材が圧倒的に不足していた。
この北部侵攻部隊で将と呼べるのは、エクレールただ一人というのだから恐ろしい。
当の本人は粛々と己の任務をこなしているのだが、やはり一人では限界がある。
巣にたどり着けば前線に立つことも決定しているという追い討ちまで付いて回る始末だ。
端的に言って、限界は近い。
そうエクレール自身も自覚してはいるが、現実問題いないものは仕方がない。
本部へと送る書類の山を片付けながら、自然とため息が漏れた。
「前線特化の英雄しかいないのがな……」
北部に派遣された英雄は戦力重視で選抜された。
聞こえのいい言葉だが、要は問題児を押し付けられたということだ。
玻璃はまだマトモな部類に入るが、あれは一人で突き進む存在だ。
先頭に立つ将というものもいないわけではないが、今欲しい人材は別。
当然、輪廻と彼方は論外。
奴らに兵を預けでもしたら、全滅するのが目に見えている。
本人たちは否定するだろうが、誰にだって死神に命を預ける趣味はない。
だから、この光景は消去法とも言えるだろう。
「姐さん、頼まれてた雑務は終わりました」
書類の束を机に置いて現れたのは、刹那だった。
カップに注いだコーヒーをエクレールに渡し、足早に扉から出て行く。
「じゃ、仕事に戻りまっす」
「ご苦労」
極限まで短い労いの言葉に、刹那は手を振って去っていった。
「――俺は、英雄としては戦えません」
時崎刹那がエクレールの元を訪れたのは、作戦開始の前日だった。
頭を下げたまま静止する刹那の体は、小刻みに震えている。
「そうか」
エクレールが浮かべた感情は納得と疑問だった。
戦うことへの恐怖と、そんな自分への嫌悪感。
このミズガルズでならいくらでも目にする一般人の感情が、目の前の刹那からは読み取れる。
「それで、どうした」
そして、だからこそ疑問に思う。
今回の作戦は、比喩無しに自由参加だ。
嫌なら来なくていい、無理はするな。
そう何度も伝えたのだから、わざわざ宣誓する必要も理由もない。
怖いなら、戦わなければいい。
大人しく、守られていればいい。
それは義務ではないのだと、エクレールは考えている。
英雄という名を与えられただけの一般人は、エクレールたち軍が守るべき対象なのだから。
「だから、俺に役目を下さい」
「……なに?」
エクレールの瞳が開かれる。
どういうことだと、目の前の相手を見つめる。
守るべき人間ではなく、時崎刹那という個人として。
「戦いたくはない。でも、なにもせずに見ているのは嫌なんです。なにか、なにか役に立ちたい。雑用でも、なんでもいいから。英雄としては戦えなくても、一人の人間として戦いたい」
それは、時崎刹那という凡人が出した、精一杯の勇気。
戦うための力も、貫く意志も持たない男の決断。
沈黙が部屋を満たす。
刹那は頭を下げたまま、動かない。
数分間、その沈黙は続いた。
エクレールは刹那へ歩み寄ると、その肩を軽く叩く。
びくりと、刹那の体が小さく跳ねた。
心臓の鼓動が周囲に聞こえそうになるまで大きくなる。
「書類仕事の経験は?」
「――は? え、と」
ふぅと、エクレールは息を吐くと、刹那の頭を強引に上げさせた。
ゴキリという嫌な音が聞こえたが、エクレールは気にもとめない。
「後方の仕事は多い。人手はどこもかしこも不足している。英雄としてではなく、一人の下士官として貴様を雇うとしよう」
出発は明日だ、準備を急げ。
エクレールはそのまま、部屋を出て行った。
その場には呆然とした刹那だけが残される。
「…………」
許可を貰えたと、脳内が納得するのに二分。
強張る体を動かせるようになるのに四十秒。
そしてようやく、刹那は駆け出した。
己にできることをするために。




