抱く母の調べ4
こんなにも泣きながらだれかの歌を歌ってほしいという人は初めてだった。
なにがこの人を悲しませているのだろうか。
ネージュはマグノリアに促されて、肩を震わせて声もなく涙を流すヴァールハイトの手を引いて静かな場所へと歩いている。
心当たりがあるのは町の外だ。ようやく冴え渡る夜明けを迎えたアウィスは朝市でにぎわっている。
騒々しい広場に面する真っ直ぐな路地を進めば町を囲う堅牢な外壁は目の前。
そこまで来るとさすがにだれもいない。
一面に視界を埋めるのはひっそりと静まりかえった冬の冷たい森だ。
振り返れば、とても苦しそうな赤い瞳がいまも涙に揺れている。
「ヴァールハイト……?」
「どうか、した?」
ぐすっと鼻をすすって、泣き腫らしたまぶたをものともせずに笑う少女。ちょっとだけ気負ったような表情はなくなっている。
ネージュは近くにあった手頃な岩を見つけて座る。ヴァールハイトもその隣に遠慮がちに身を寄せた。
いったいなにを話せばいいのだろうか。初対面の人と気安く話せるほどネージュは人懐こくない。
でも、彼女が言った母という存在にとても興味があった。母とはどんなひとなのだろうか。親を知らないネージュにとってはどういうものなのかわからない。
「……母親って、どんなもの?」
「え……っ?」
ヴァールハイトは信じられないように目を見開いてネージュを凝視する。それきり黙り込んでしまった。
きょとんと瞬きをするだけのネージュに、ヴァールハイトは言葉を失う。
すこしの間なにも言えなくて。まさかと、確かめるようにネージュに問う。
「…………あなた、もしかして孤児……なの?」
「うん。家族は知らない。気づいたら、この町にいたんだって。だから記憶もない」
「……そ、う」
なんでもないことのように、そんな悲しいことを当たり前のように言い切るなんて。
まだ幼いといえる年齢なのだろう。ヴァールハイトよりもずっと小さな少年は身寄りもなくこの町で孤独に生きてきたのだ。
自分には生まれた時からずっと大好きな両親がいて、故郷もあって帰る家がある。母が亡くなったとしても、父とともに最期をその手を握って傍で看とれた。
彼はそんな当たり前のぬくもりとやさしさと……何よりも愛情というものを知らないのだ。
そんなことを考えたこともなかった。それがどれだけ悲しいことなのかヴァールハイトには想像もできない。そうなったとしたら自分はとても耐えられないだろう。
ただひとりで記憶すら失くして生きているネージュをとても強いと思う。
どうしてそんなに独りで強く立っていられるのだろう。
「……あなたは、とても強いのね」
「どうして?」
「自分を知らないのに、家族もなくて生きることほど、大変なことは……きっと、ないわ」
ひどく、目の前の小さな少年が眩しく思えた。
「ネージュは、自分の歌は歌わないの?」
「……記憶がないから、歌えない。歌わなくても、生きていけるよ?」
ふと俯いて影を落としたネージュの瞳に息を呑む。子供らしくない深い悲しみがそこには湛えられていたから。
「いつも、孤児院にいると、みんなから早く思い出せって。……自分の世界を歌えって言われる」
――そんなに記憶がないことは、自分を歌わないということはいけないこと?
痛いくらいに真っ直ぐな瞳をして聞いてくる姿がかえって痛々しかった。でもヴァールハイトにはその痛みはどうしたってわからない。自分の知らない現実を目の当たりにして、なにを言ってあげたらいいのかわからなくて。
泣きそうに顔を歪めた少女にネージュは目を伏せる。
「でも、生きているからそれでいいって思ってる」
「そう……」
弱々しく呟いていっそう思いつめているヴァールハイトの横顔をネージュはひょこっと覗き込む。
「ヴァールハイトのお母さんは、どんな人だったの?」
もうその瞳は首に光る透明な輝石と同じように澄んでいる。
純粋に知りたいと聞かれて、ためらいながらもヴァールハイトは亡くなった母の面影を思い出しながらぽつぽつと語る。
「とても…やさしい、人だったの」
一番強く思い出せるのは、いつだって控え目に微笑むやさしい母の顔だった。
病弱な人だった。ヴァールハイトを生んでから、ベッドに伏せっていることが多かった体の弱いひと。
調子の良いときは一緒に街の中央にある教会へ行って、祈りを捧げてから買い物に出て動き回る姿も覚えている。
小さな屋敷だから人を雇うことはせずに料理も掃除も母がしていた。ヴァールハイトが作る料理はすべて、小さな頃から彼女から教わって覚えたものだ。
いつもやさしくて、父ともとても仲睦まじくいつも三人で笑いあっていた。
幼い頃から病気がちだった母を支えてきたが、たくさん言葉を交わしたし、いろいろなことを教わった。歌うことがどれだけ素敵なことかを話してくれて、よく彼女の歌を聞かせてもらったこともはっきりと覚えている。
その歌がとても大好きだった。ヴァールハイトと父のことを想った歌を、子守唄の代わりに眠る時によく歌ってくれた。
抱きしめてくれたときのあたたかなぬくもりが恋しくて泣いてしまう夜もある。
けれど大好きだった母は数ヶ月前に亡くなっている。
家族二人で生きているが、悲しみに暮れた父は無理がたたってとうとう倒れて、今は父を案じながらひとり屋敷にいる。
寂しいと、悲しいとしか思えなかった。
あの家が母の死を境に冷たい場所へと変わってしまった。母がいなくなって笑顔が消えてしまったから。
「……でも、ね? きっとこんなこと、どこにでもあることなのよ」
ありふれた、情景よ。
涙をぼろぼろと零して、ずっと思っていたことを、誰にも言えなかったことをヴァールハイトは打ち明ける。孤独なこの少年には聞いてもらいたくて。むしろ話したかった。
「馬鹿は私よ。いつまでも母のことにこだわって、忘れないといけないのに、悲しくてどうしようもないの」
俯いてきゅっと唇を噛み締める。
「私はとても弱いの。でもね、どうしても忘れたくないの。忘れたくなんか、ないの。悲しくないだなんて嘘よ。……っいやよ、たえられない。大好きだった母様のことを忘れる、なんて……っ!」
でももう大丈夫と笑っていないと、倒れてしまった父を心配させてしまうから。
「本当は、すごく悲しかった。母様が亡くなっても、世界はなにも変わらない。私が生きることも変わらない。意味がわからなかったの。こんなにも悲しいのに、なんでなにも変わらないんだって」
泣き叫びたくなった。でも、そんなことをしてもなにも変わらないとわかってる。
「こんなこと、どこにでもあることよ。わかってる。……わかってる。でもどうしようもなく……っ悲しいの。なんで、死んじゃったんだろう……っ?」
嗚咽を呑みこんで、なんとか前をむく。涙は止まらなかった。
「もうね、前に進まないといけないの。頭ではわかってるのに、いままでずっと目をそらしてた」
でも故郷の街で耳にした「調べ者」の噂。それがこの悲しみと決別する方法を教えてくれると思ったから。
ヴァールハイトは隣にいてくれる少年を見据える。
「ねえ、ネージュ。……教えて。母様は、最期に…なにを思ったの…?」
震える声は、でもとてもしっかりと響く。とても力強い声。
ネージュはそっと瞳を閉じて、瞼の裏に浮かんだ面差しを見つめる。
それは音もなく脳裏で鮮やかになる。
晴れた日差しに照らされた室内で柔らかに微笑んで、瞼を腫らしてずっと泣いているヴァールハイトの手を握るベッドに横たわる女性。彼女の面影は少女ととても似ていた。
傍では、ヴァールハイトに寄り添うように涙を流し佇んでいる男性もいる。
女性が二人に向かって何かを呟く。そうして……、少女の頬に手をあてて限りなくやさしく微笑んだ。
きっとその時の歌なのだろう。ヴァールハイトが悲しいまでに願った母の歌。
やがて心にあふれたその歌を、ネージュは大切に抱きしめて歌う。
――どうか泣かないで、私の可愛いひな鳥
先立つ私を許して、いとしいあなたたち
迎えが来てしまったことは悲しいけれど
今まであなたたちと生きてこられたことが、何よりも幸せだった
私が愛したひとよ、どうか私のひな鳥を支えてあげて
私のひな鳥よ、どうか私の分まで生きて
幸せになって欲しいと、いつも願っているから
けれど、どうか私が死んでも泣かないで
笑っていて、心から
時々思い出して、二人で笑って欲しい
私がいたことを、私が生きたことを、あなたたちを愛したことを
私のひな鳥、あなたの可愛い笑顔が大好きよ
私の愛した人、あなたのやさしい眼差しを愛していました
お願いだから、笑っていてね
私の分まで幸せに、笑っていて
あなたたちと一緒にもっと生きたかったけれど
こうして最期を共に生きられるだけで、幸せよ
ありがとう、私を愛してくれて
ありがとう、私に幸せをくれて
心からあなたたちを愛したことが、私の誇りです
どうか幸せに、笑っていて
そう私は、いつでも願っているから
だから、どうかいつまでも幸せに、笑っていてね
いつまでも愛しています、私の愛した家族たち――
微笑んだままで、ゆっくりと閉じられた瞼。
穏やかな面差しが、ゆるやかに瞼の裏で輪郭を淡くして消えていく。
それは一心に家族を想う、切ない願い歌だった。目の前にその歌を聞きたいといった少女がいるからこそとてもあたたかい歌だと感じる。
ネージュは、声をなくしてぼろぼろと涙を流してただ泣いているヴァールハイトをそっと抱きしめる。なぜだか支えてあげないといけないと思ったから。
すると、ぎゅっと強く抱き締めかえされたと思えば――少女はとうとう嗚咽を洩らして泣き崩れる。
小さいネージュの肩に顔を埋めて幼子のように泣きじゃくった。
あの時に、頬に手をあてて声にならない声で愛しているからと呟いた一言に込められた願いを、やっと知れたから。
大好きだった。今でも大好きだ。いつまで経っても……大好きだから。
もう二度と会えない母のあの日の歌を、大好きだった母の抱いた歌を思い出す。
――可愛い私のひな鳥。私はあなたの笑顔がなにより大好きよ。
大好きだった声が響く。笑ってといった。幸せでいてねと、自分の分まで生きてと。
私は、とっても幸せよ……母様。
「……っ母、様ぁ……――!!」
大丈夫。もう大丈夫だから。泣き止んだら、私笑えるから。
あなたが大好きだといってくれた笑顔に戻れるから。
愛してくれて、生んでくれてありがとう。
枷が外れたように大声で泣き叫ぶ少女を、ネージュはなにも言わずに抱きしめ続ける。
きっと、涙が止まる頃には眩しいくらい笑えるようになっていると思ったから。
あたたかい涙が肩にぱたぱたと落ちて服に広がっていく。それがひどくせつない。
ネージュは泣き止まないヴァールハイトの震える背中を、何度も何度も撫でる。
空を照らし出す柔らかい朝日が、抱き合う二人をやさしく包んでいた。
∮
青空が広がり、もうアウィスの町はすっかりと太陽のやさしい陽だまりに照らされている。
朝市の露店も畳まれて閑散とした広場を二人は並んで歩いていた。
「ごめんなさいね、邪魔をしてしまって」
「ううん。ヴァールハイトが笑ったからいいよ」
泣き腫らした目ですまなそうに謝るヴァールハイトにネージュは首を横に振る。
「笑ってくれたほうが、僕は嬉しい」
「……ありがとう、ネージュ」
目を細めて自然と笑う少女がとてもきれいだと思った。はにかむヴァールハイトにネージュの足取りも軽くなる。
ついさっきまで泣いていたけれど、やっぱり笑ったほうが素敵だと思っていたから。
「そういえば、あなた朝食は?」
「うん? 今日はもう食べれないよ。お手伝いできなかったから」
「えぇっ? ……それってどういうこと?」
なにやら怖い表情でつめ寄ってきたヴァールハイトにネージュは気圧されて素直に白状する。
「今日は手伝いができなかったから、だけど」
「手伝いってあなた、どこかに雇われてるの?」
「違う。いつも朝起きたら町の人たちを手伝って、そのかわりにご飯か着なくなった服をもらってる」
怒ったようなヴァールハイトにどうしてだろうと首を傾げる。
いつもこうして生活しているから今日は飢えを満たすことができないだけなのに。
平然と話すネージュにヴァールハイトは絶句して足を止める。
「…………あなたって、本当に……強いわ」
「そう……?」
かろうじてそう言えたけれど。
本来なら守られるだけの年齢のはずなのに。
ヴァールハイトよりずっと小柄な体のどこに、そんな強さが秘められているのだろうか。
無償で自ら困った人たちを助けてその代わりに食事を恵んでもらう。
まるで教会の人たちのような生き方だ。
記憶もない孤児であるネージュがそうまでして生きようとする強さにただ驚く。
どうしてそんなに強いのだろうか。
「私、あなたみたいに強く生きようとしている人を、知らない」
「……どういうこと?」
「どうしてそんなに……あなたって、強いのかしら」
不思議そうに自分を見上げるネージュをとても眩しく思う。
それは力の強さじゃない。
生きるというなににも勝るひたむきさ。
ヴァールハイトは自分の身を守る強さは持っている。でもこうしてひとりになってまで生きようとする本当の強さはない。
けれども。
「でもね、私のせいであなたが飢えてしまうのって納得できない」
「どうして?」
「どうしてじゃない。成長期なのに満足に食事も摂らないなんてだめよ」
「要らない。夕方手伝えばいいから」
どうしても頷こうとしない頑ななネージュにとうとうヴァールハイトは我慢ならずにその手を強く掴む。
「――えっ」
「大概になさいっ! あなたが拒んでも私はお腹が空いているの。是が非でも付きあってもらうわよ!」
呆然としている小さなネージュの腕を引っ張ってヴァールハイトは目についた素朴な木造の教会へと足を向ける。
「それに教会で恵んでもらうんだったら文句ないわよね」
「それもちょっと違う……」
肩越しに笑って言ってもやっぱり眉を寄せて不満そうなネージュ。
「いいの。私はあなたに、お礼がしたいんだから」
屈託ない笑顔のヴァールハイトは上機嫌に言い切って、ネージュの手を引いて教会を囲う修道院の門を潜る。
すると解放されている教会の正面扉から、白いベールを被り紺の制服を纏ったひとりの年老いたシスターが出てきた。
「まあ、ネージュ」
「あ……」
ヴァールハイトと一緒にいたネージュを見とめて笑顔を浮かべるなり早足に近づいてくる。
「ふふ。元気そうで、安心しましたよ。それにしても、この方は……」
やさしい眼差しをしたシスターがその目をヴァールハイトに向けた途端。老シスターが驚いたように目を見張る。
そしてヴァールハイトもまた、信じられずに彼女の顔を見つめる。
「あなた、様は……もしや、ヴァールハイト様……!」
「……シスター、リニス?」
忘れようもなかった。
それは、もう随分と前にひとり故郷へと帰っていった、小さな頃から大好きだったシスターで。
見る見るうちに瞳に涙を湛えて微笑んだ面差しを、ヴァールハイトは懐かしそうに見つめる。少女は小さな町で思わぬ再会を果たした。




