抱く母の調べ2
柔らかい光を感じたのか瞼がゆっくりと開く。目を覚ませば、自室の天井が目に入る。
あたりまえの一日がまたはじまる。ヴァールハイトは重たい体を引きずってベッドから降りた。
「……起きなきゃ」
目は冴えている。でも本当はまだ眠っていたかった。
起きたとしてもなにもない。ひとり家族を亡くしてからぬくもりがこの家から消えた。
母を思えば思うほどに悲しみは募っていく。でもしっかりと起きて食事をとろう。
呆然とするだけの自分を奮い立たせるために鋭い音を立てて頬をうつ。
「泣いてはだめよ、ヴァールハイト」
――泣いてはだめよ、ヴァールハイト。私の可愛いひな鳥。
もう二度と聞けないやさしい声が頭の中に響く。まるでいってらっしゃいというように。
「大丈夫。今日も笑っていられるわ、私は」
そう自分に言い聞かせ、目を見開いた少女は一日を開始する。
いつまでも泣いているなんて、それこそこの男らしい自分の名折れになる。
今日は何をしようか。図書館に行こうか。楽しいことを思い浮かべて気をまぎらわす。
ヴァールハイトは幼少の頃より父に師事して勉学を修めているから、学校に通う必要はない。
いつかはどこかの学校で教師をするのもいいかと思っている。
そのためにも知識を増やそうと奮闘しなければ。
「よーし! 今日は買い出しに行ってからすぐに国立図書館。でもその前に教会に行かないと」
予定を決めて、少女は思いっきり真上に腕を組んで伸びをした。
「さあ、今日も暴れるわよ!」
どんよりとした天気に負けないように勝気な笑顔を浮かべて、ヴァールハイトは着替えようとクローゼットの扉を豪快に開けはなった。
一歩屋敷から出れば街ではずいぶんと有名なヴァールハイトである。
「やあクローフィ嬢。本日も元気だね」
「おはよう、おじさん!」
「おやクローフィ嬢じゃないか。急いでどこに行くんだね?」
「教会よ! お祈りをしにね」
路地を駆ける貴族の淑女といえばクローフィ家の令嬢。
なんて文句までできてしまったほど、小さい頃からノヴノールの街並みを笑顔で走りまわる快活な女の子。
街の人が抱く印象はそれに尽きる。
スカートの裾を翻してヴァールハイトは中央広場にある教会へと急ぐ。
欠かさない日課だが今は特別な心もちで通っている。亡きものに祈る場として。
貴族が住まう区域より中央広場はさほど離れていない。
ノヴノールの街並みは奥にいけば行くほど重要な建物が並び、最奥の宮城を護るような構造で優先順位がわかる仕組みだ。
規模は小さくなるが他にも広場は四方にそれぞれ設けられている。
手前が身分の低い者たちが住まう区画だが身分による差別などはない。
永い平和が世界を包むため、自然とどの国も安定しているから平等意識が高い。
アーケルソル帝国はとりわけ地位というものに無頓着で寛容だ。
地位とは相応の義務をおう立場にある証明で、誇示するものではない。
帝国はどの街でも貴族であろうがだれとでも親しく言葉を交わす。
クローフィ家は平民同様だから人づきあいも幅広い。
中央広場にむかって街中を下り、平民が住まう区画を通るとだれもが振り返って笑顔で声をかけてくれる。
寒くても、あたたかなこの街の人たちがヴァールハイトはとても好きだ。
薄暗い空は同じだけれど、気持ちはすっかりと快晴。笑顔を浮かべて住宅街を抜けたら円状に視界がひらける。
「やっと、ついた…!」
走ってすこし乱れた呼吸を整えて足を踏みいれる。
石造りの教会は見上げるほどに大きく、荘厳でいて無機質ながら美しく見える。
左右対称に整えられた外装がヴァールハイトを出迎えてくれた。
開け放たれている緻密な意匠を施された正面扉を潜るとまるで隔たれたように、息をひそめるほどの静寂に呑みこまれる。
自分の呼吸を聞きながら足音を立てないように歩みゆっくりと礼拝堂へと向かう。
外へと移動する聖職者たちとすれ違っても、彼らは頭を下げて通りすぎていくだけ。
それだけ厳粛さを常に保つのは教会だけだろうか。
前を向けば高く開かれた空間の中で、創世神話に伝わる神々が刻まれたステンドグラスの真下に鎮座する大きな十字架が待ち構えている。
この瞬間がヴァールハイトはとても好きだ。
厳格でどこか澄んだ空気を感じながら、無心に瞑想ができるこの場所が。
おもむろにひざまずき、目をつむると手を組んでヴァールハイトは一心に黙祷を捧げる。
けれすぐに立ち上がり静かな足取りで教会を後にする。
ヴァールハイトには時間が沢山ある。でも無駄にする気はない。
「さーて、今日も図書館で本の虫と成り果てよう。思うままに書物に埋もれることこそ至福!」
……悲しみを一時であっても忘れ去ることができるのはそれだけだったから。
あの日からずっとこうして過ごしている。
まるで何かにとり憑かれたようにヴァールハイトは本を読み続ける。大切なひとを忘れるということから逃げて、拒むように。
こんな弱い自分から目を背けたくて。
「……ヴァールハイト。泣かないのよ、あなたは」
小さく呟く。そう言い聞かせなくてはいけないから。
国立図書館は貴族区画にあるから、自然と足はもと来た道筋を辿っている。必死に思考を切り替えて前を見る。
街はいつもと変わらない。すれ違う人たちも空を覆う曇天も、なにもかも。
その中で目についたのは路地の片隅で顔を合わせてしゃべっているひとたち。
けれど今日は、その足を止めなければならなかった。
「――聞いたかい? 『調べ者』の噂」
ぴたりと、歩みを止める。なにかが心の中で引っ掛かった。
「あぁ、おかしな話だ。死んだ者の歌を、歌える子供がいる、なんてなぁ」
「なんだい、そりゃ? ずいぶんとおかしな噂だね」
「いいや、アウィスって南の町に泊った旅人がさっき話してたのさ。なんでも、噂をしていた人間の歌を、子供がいきなり歌ったんだと」
「ほんとうかい?」
「うそかどうかは知らんよ。だが旅人がそう言ってたんだ」
息をのんで耳を澄まして聞き入る。
そんなことが、本当にあるのだろうか――?
……誰かの歌を、その人の話を聞いただけで歌えてしまうなんて。
嘘だと否定したい。そんなことは絶対にありえない。ない、絶対に……ない、よ。
でも、本当だとしたら?
どくんと、鼓動の音がやけに大きく聞こえたような気がした。
そうだとすこしでも感じたら、思いこんでしまえばもう否定なんてしたくない。
ヴァールハイトの思考は目まぐるしく変動する。
――あの日から、抱えていた願いがある。
そう強く願えば願うほどに苦しくなって、泣きたくて息がつまる。
今までずっと目をそらして抑えていたのに、一気にあふれだした想いは衝動となって全てを壊した。
弾かれたように屋敷に向かって身を翻す。
ヴァールハイトは鍵を開けて急いで階段を上がって自室へ駆けあがる。
慌ただしく本棚から一冊の本を引き抜くと机に乱暴に置いてページを引いた。帝国の地図を詳細に記した本だ。目を走らせて記憶した町の名前を探す。
「南にある町で、名前はアウィス……」
確認するとノヴノールから離れた遠い土地にあるらしい。地を進めば一ヶ月以上はかかるだろうか。
けれどヴァールハイトには特別な手段がある。無理をすればきっと一日で辿り着ける。
そう思えば後は簡単だった。
「……行かなくちゃ」
行かないといけない。この気持ちに決別するためにも、もう逃げないためにも。
旅立つために必要な荷物を脳裏で弾き出す。
路銀は蓄えに余裕があるからなんとかなる。服は必要ならあちらで買おう。身を守る為の武器も持たないと。
考えている暇はない。
すぐに動きやすい質素な服に着替え、水袋に水を詰めて日持ちしそうな食べ物を探し、位置を確認するための地図やコンパス、袋に詰めた路銀を用意する。何があるかわからないからと、一階のリビングに飾っている愛用の剣を取りにいこうと階段を下りたが――
「おい。どこへ行くつもりだ」
「シレンシオ…叔父、さま…」
よりにもよってこんな時に来ていたなんて。足早に玄関を潜って険しい表情で近寄ってくるなり、ヴァールハイトの姿を見降ろしてシレンシオは低く唸った。
「どこへ行く」
「……いいでしょう、どこだって」
今までにない険しい目を前にして怖くて顔を逸らしてしまう。
「よくないから聞いている!」
鋭い怒声に目をつむる。責めるようにシレンシオは詰問してくる。
「まさか、旅に出るとかいうんじゃないだろうな」
「そうよ。アウィスに行くの。そこに『調べ者』って人がいるって聞いたから」
ヴァールハイト安直な行動に、よりその双眸は冷たく輝き鋭くなる。
「それだけで行こうとしたのか。馬鹿かお前は! まだ母のことにこだわっているのか。いい加減に忘れろ! ……死んだものには、二度と会えないのは知っているだろうっ!」
でもそれはなによりもヴァールハイトの願いを否定している。気づけば堰を切ったように泣き叫んでいた。
「………………じゃあ、どうしろって言うのよっ!?」
目を見張ったシレンシオを見据えて、涙を流しながら感情に任せて叫ぶ。
「母様は確かに亡くなったわ。ええそうよ。でもね、それで納得できるほど、私は強くなんか、ない…!! どうして母様がっ……やさしかった母様が、死んじゃったのよ…っ!」
寿命だったと割り切れればどれだけ楽だったろう。それができないから苦しんでいる。
死ぬ間際に言葉を交わすこともできなかった。
ただ、手を握っただけ。そのまま永遠に閉じた瞳は開かれることはなかった。
大きくなったけれども最愛の家族を亡くした悲しみを割り切れるほど、大人じゃない。
「なにも言えなかったの。泣くだけしかできなかった……っ。最期だったのに、なにも言えなかったの」
だから、どうしても母の歌が聴きたかった。最後に何を思ったのか知りたかった。
泣いて真っ赤になった眼差しでシレンシオを睨む。
「私は、まだ子供よ!! 簡単に母様のことを忘れたくなんて、ない……っ!」
そう叫んで呆然と立ちつくす青年を置いてヴァールハイトは泣いたままでリビングに走り、壁に掛けていた剣を胸に抱いて自室に戻る。まとめた荷物を背負って勢いのまま玄関を飛び出した。
けれど背中にシレンシオの引き攣った声が聞こえる。
「ヴァールハイト! 落ちつけ!!」
「行かないと私が後悔するの!」
「一人で行くのは危険だと言っているんだ俺は!」
いつもの心配するようなシレンシオの声に足が止まる。
――でもこの意思を曲げる気はない。
キッと青年を見上げてヴァールハイトは吼える。
「嘗めないで欲しいわ。――私は、歌を極めてる…っ!」
少女は胸元で光る自分の輝石を握る。炎を宿したような燃え盛る赤。
昂った心を落ちつけてヴァールハイトは自分の歌を奏でる。
それは平和の代償として昔に失われた技術。
だれもが持つ、自分の歌を極めた者だけが得られるものを呼ぶために。
「《緋翼の誓約》奏楽――既定、総章を簡略し捧げます」
――私が捧げるものは、この歌一つだけ――
赤い翼よ、抱くために広がれ
私という欠片を集めて繋ぎ生まれる誓いよ
私は小さく、弱く、守られるばかりの者
いつかは強くありたいと願い生きる者
それでも弱いと知るからこそ、願う望みもある
決して諦めない強さを下さい
どんな絶望にも立ち向かえる強さを、下さい
泣くばかりの時を巣立ち、前を向いて歩き出したい
あなたは私であり、私はあなた
私の心であるあなたを求めます
赤く燃えるその翼を――どうか私に託して
諦めない力として、歩き出す足として
今あなたを、私は求めます
――私の抱く望みを、どうか叶えて――
自分の望みを託して歌い上げて。
「――フェニクス!! 私は、ここよ!」
腕を宙に差しだし声を最大限まで張りあげる。
声が消えた刹那――それは、まるで虚空から舞い降りるように姿を現す。
どこからともなく、ばさりと羽音がした。
ヴァールハイトの伸ばした腕に頬を寄せたそれは鮮やかな赤を纏う。まるで炎を熔かしたような美しい色彩の、仰ぐまでに巨大な鳥だった。
同色の飾り羽を具えた優美な体躯をする鳥はヴァールハイトを強く想起させる。
この鳥は他ならぬ、彼女の心を世界に呼び出したもの。
唯一無二のヴァールハイトの世界を司る、彼女が心に抱く獣だから。
絶句するシレンシオを後目に助走もなく飛び上がってその背に跨ると少女は赤い鳥に告げる。
「お願い。アウィスにつれて行って、今すぐに」
応じるように美しく囀った巨鳥はしなやかな両翼を広げて、地を蹴り一気に上空へと舞い上がる。
ヴァールハイトを乗せたまま勢いをつけて大きく旋回すると、逃げるように立ち込める雲間を突き抜けてフェニクスは凍える風を切り裂き南へと一直線に力強く羽ばたく。
遠ざかっていく赤い影を、なす術もなくシレンシオは見送るだけだった。
「……ったく。まさかの出奔か」
軽く息をついて。先ほどの焦りようなど感じさせないほど穏やかな笑みを浮かべて、仕方なさそうに肩を竦める。
「こうなったら、好きなようにさせるしかない……か」
どう説明したらいいのやら。きっと自分の主であるあの人は笑って愉快そうに言うのだろう。
あの子の望むままに、と。
シレンシオはヴァールハイトが飛び出した屋敷に戻り、開け放たれた扉に錠を下ろすとすぐに身を翻す。
行く先は主が待つ王宮。
その胸に、旅立ったあの少女が笑顔を取り戻すのを願って。




