終章 スノー・シャンテ1
連日ノヴノールの街並みを白一色で染め上げるかのように雪は降り続いている。
もうじき新たな節目を迎える。
どこへ行っても人々は寒い中で浮かれたように笑顔を浮かべて、陽気に歌を口ずさんでいる。
ようやく笑顔を取り戻して吹っ切れたヴァールハイトは、ネージュを連れてノヴノールの街を案内してくれた。
生まれ故郷をくまなく練り歩き、自分の小さい頃を楽しげにネージュに語った。
彼女の母、エリセが眠る街外れの教会に行って一緒に手を合わせて祈った。
その際、リニスの友人であったマナンの墓を見つけて、ヴァールハイトの提案で花を手向けたと手紙に綴ってリニスに届けたからきっと驚いているだろうと思う。
今ではヴァールハイトと一緒になって雪が降る寒い街を走り回っているから、だれもがネージュを見かけて笑いかけてくれる。
この街で少女がとても愛されているのを知って嬉しかった。
最近アーウェルサたちは忙しいみたいで二人揃ってどこかへと出かけていた。
一度だけ、皇帝なのに自分に構っているアーウェルサたちに仕事をしないのかと尋ねたら声を上げて笑われてしまった。
――――なに、俺たちがいなくとも勝手に国は成り立つ。
アーウェルサが笑顔でそう言い切ったから、そうなのだとネージュは納得した。
帝国は皇帝であるアーウェルサが指揮を執るものの、大半のことを臣下や心のおける者たちにまかせっきりだという。
というのもあの青年は自分はお呼びじゃないと断言する。できることは物騒なことだけだと。
アーウェルサは神だから、本当の皇帝は信のおける人に任せてそれきりだと言っていた。
それをヴァールハイトに話すと吹き出していた。
たぶん、あんな気質だから帝国を治める皇帝という地位はどうでもいいのだろう。
純粋に、アーウェルサがこの国を見守ることが好きだということが城での生活を通してわかった。そしてユエリアもまたそうでしかない。
二人は仲が良いのかよくわからない時があるけど、確かな絆があるのだとは見ていてわかる。
そして冬が深まるにつれてネージュは自然と記憶を思い出していた。
時折、声が聞こえる。
それは段々と鮮明になってきていて、あともう少しで聞こえそうだった。
ヴァールハイトと一緒に笑いあったり、時には口論になったり、でもすぐに仲直りをする。そんな平穏な毎日をすごしている。それに伴って感情も豊かになってきた。
でもまだ、母の名前は思い出せないでいた。
∮
何日かぶりに帰還した住まいに落ちついたのも束の間。皇帝を冠する青年は参ったように唸る。
「どう、思う…?」
段差に座りながら指を組んで訊くアーウェルサに、ソファーに腰かけているユエリアも苦笑を浮かべる。
「そう、だねぇ。僕にもまだなにもわからないからね」
お手上げといわんばかりにもろ手を上げてぷらぷらと振って見せる少女に、青年も溜息をつく。
「お前ですら知り得ない。……いよいよ大元も御出ましか?」
「わからないよ、そればっかりは。私は常に、彼女を計りかねている」
真摯な眼差しでそう答えるユエリアを見つめてしばし口を噤むも。
「あちらの連中も、お前と同様に感知していないときた。東は古来より彼の聖域に護られるが故に繋がりは強いが……」
随分と久しぶりにあちらに足を向けたが得られたものはこれといってない。
かつての戦友との再会はしたが、あちらもまた変化はなかった。
粗方目測はついてはいるのだ、あの不可解な少年のことは。
だが、なにを背負いなぜ今この時に世界に生まれ落ちたのだろうか――常に疑問はそこに至る。
なにか見落としているものがあるのかもしれない。そう思って自分の記憶を手繰り寄せるもやはり引っ掛かるものはない。
無言で思考を巡らすアーウェルサに、契約者であるからこそ全てを共有するユエリアは頬杖をついて。
「君が考えることはごもっともだけれどね。ネージュはまだ、生まれたばかりだよ」
「……そうなのか」
「前からおかしいとは思ったんだ。……あの子は、まだ自分のことすら知らないくらいに、自覚すら出来ないほどに幼い。生まれたての存在でしかない」
目を見張ったアーウェルサにユエリアはにこりと笑う。
「最初から記憶がないとは、つまりはただの精巧な人形でしかなかったんだろうね。それに、僕はネージュのことを予測できなかった」
息を呑んだ青年に、けれど微笑みを深めて少女は言う。
「きっと、あの子が自覚しない限り……なにも起こらないと思うよ。今はそれだけしか言えない。天極である、私たちにでさえ」
久しぶりに赴いた東の地にて再会した、自分たちとは対となる太陽を司る片翼。
立場も全てが等しい彼女でさえも何もわからないというのだから。
だからこそ全てがあの少年の記憶に起因している。
「あの子が、自分というものを知れるくらいに成長したその時に全てが示される。今はそれだけしか言えないね」
肩を竦めたユエリアに、アーウェルサも仕方なく一息つくなり立ち上がる。
「で? 今度はどこいくの」
楽しげに笑う契約者に青年は振り返らずに告げる。
「天球に詰めている、神たちの許だ」
「いってらっしゃい。しばらく国土は預かっておくよ」
それだけ言い残して暗がりの中へと遠ざかって行く背中を、だが少女は見えなくなるまで見送っていた。
∮
白い雪の中を一心にネージュは駆ける。
石造りの街は無機質で寒いのに、体は温かくて心は弾むような嬉しさでいっぱいだ。
ノヴノールの街を一望できる高台からフォルモーント城までかなり距離がある。
ヴァールハイトとちょっとした約束をしたから、ネージュは二人にお許しをもらいに城に向かっていた。
それにもしかしたら、彼女に真っ先に自分のことを話せるかもしれないと期待に胸を膨らませて。
日に日にネージュの頭の中で途切れた声が響く。その声が聞こえるたびにネージュは自分のことを思い出していく。
今思い出せるのは、自分が生まれた場所は水辺だったということ。限りなく透き通った水の見える場所で、母に抱かれて眠りに落ちていた。
空の色はわからない。どんな季節で、どんな場所なのかも。
不思議と懐かしいと思う。母の温もりも、やさしさも、あの眼差しも面差しですら。
でもその声を聴いたことはない。名前も知らない。
だからきっと、母の声が聞こえたらわかるとネージュは思っている。
中央広場を通って白一色に染まった路地を抜けて、貴族の住まう区画へと急ぐ。
そして、それは急に訪れた。
――――わたしの、可愛い我が子……
限りなく透き通った声が聞こえた。それは、やさしげな女性のもの。
足を止めたネージュはまるで抱かれたように一気に視界を奪われ、目の前が眩いまでの真白い光に包まれる感覚に陥り――全てを思い出す。
いつのまにか目の前に広がるのは、滴る雫が水面に波紋を浮かべた水。
呼吸するのも忘れるほどに、まるで自分を抱くようにやさしく包む、限りなく澄み渡る透明に呑みこまれる。
その全てが見えた。
途切れていた糸をつむぎ合わせるように、解けていた紐を結ぶように。
全てが繋がった。そうだ、僕は、……この世に、生まれたばかりだった。
そう、思った刹那。硝子が砕け散るような澄んだ音が響き渡り、無意識に首で揺れる水のような輝石を握ればネージュの体は現実に引き戻される。
……どうして、忘れていたんだろう。
どうして……どうして、知らなかったんだろう。
自分の体に灰色の空から絶えずに降りかかる白い雪を見上げる。
ネージュが生まれたのは、もうずっと前だった。最初は名前すらなかった。こんな姿すらしていなかったのに。
この世界から消えた母が遺した……最期の、想いと願いの一欠片。
今ならわかる。
自分が生まれた意味、抱いた役割、どう生きるべきなのかを。
ずっと、もうずっと前からこの世界にネージュは生まれ落ちていた――雪として。
それは、消え去った生みの親である水天が命と引き換えに遺した、願いの象徴。
その時から、冬が訪れて水が凍ると世界に降り注ぎ、あまねく穢れを取り除き癒すものとなった。
それがネージュだったから。
思い出した……思い出してしまった。
自分が生まれたのは水天の抱く水の中。
育まれた水が、やがて凍れると雪となって世界を満たして降り注ぎ、全てを癒しさらって溶けて、水の許へと還る。
ネージュは水天の願いにしてその意志を司るもの。
その思惑は誰にも知られない。あの天極にすら。
けれど、ずっと雪として降り注いだ存在はやがて抱いた想いを育んで形をとり、自我という心すら持った。
それがネージュという、少年だから。
思い出した。すべてを。
ネージュはおもむろに顔を俯かせる。
こんなことをあの少女に話してしまえば……きっと、悲しんでしまう。
もう、全部思い出してしまった。知ってしまった。自分が雪だったと。
人間でもなくて、それは世界のために存在する……本来ならかたち無きものだったから。
だから、ネージュはこのことを心の中にしまう。ヴァールハイトを悲しませたくない一心で。
決して話さない。そうして思ったのが、彼女との約束を果たせないということでしかなくて。
「……ごめん…ヴァールハイト」
微かに空気を震わせて呟いた声は儚く消え去る。
悲しげに揺れるその瞳には、降りしきる白い雪だけが映った。
∮
今日は雪が降っているノヴノールの街を一望できる高台まで足を延ばしていた。
純白に塗り潰された世界が目の前に広がっていて、その美しさに息を呑んだネージュはずっと白い街を眺めていた。
その隣にいたヴァールハイトが、いきなり声をかけてきたのがきっかけだった。
『ねえネージュ、もうあと三日で新年が明けるのよ』
『うん?』
いいことを思いついたと声を弾ませて急につめ寄ってきたヴァールハイトに、ネージュはちょっとだけしりぞいてしまう。
そんなネージュの手を握って少女は赤い目をとびきり輝かせて言った。
『だから、今日から私の家で一緒にすごさない?』
こうして、年の瀬を迎えるほんの数日間。ネージュはヴァールハイトの生家に遊びに行くと約束をした。
――と、さっきあったことを思い返して。
悲しみを胸にひたに押し隠して、ネージュは許しをもらおうと彼らの許を尋ねていた。
最近はひとり城に帰ってくるが広間を覗いても誰もいなかった。
でもあれから数日は経っているからもしかしたらと思って広間に顔を出せば、ソファーにゆったりと腰掛けて目を閉じていたユエリアがいた。彼女はネージュの顔を見るなり上機嫌においでと招いてくれた。
ヴァールハイトは一足先に屋敷に行っているといって途中で別れた。ネージュが泊るにあたって準備が必要だからと。
そうユエリアに話すなり。
「そう。それはよかったね」
「いいこと……なのかな」
ユエリアは微笑まそうに目を和ませて見てくるがその傍にアーウェルサはいない。
ネージュの視線だけで気づいたのか、少女はしっとりと笑う。
「彼はちょっとお仕事みたいだね」
「寂しくない?」
「大丈夫だよ」
軽く頭を撫でられて、さあいっておいでとそっと背中を押された。微笑んで促すユエリアに肩越しにありがとうと笑って、ネージュはヴァールハイトの生家へと駆け出した。
「いらっしゃい! ごめんね、あなたの泊る部屋を片付けていたの」
ドアを開けて顔を出したヴァールハイトは髪を高い位置でまとめて腕をまくっていた。
目を瞬かせているネージュだったが少女がドアを開けてどうぞと促すから、おずおずと中に入る。
「おじゃま、します」
「お城なんかより狭いけど、ゆっくりしてってね」
元気な声で急かされてネージュはクローフィ家に足を踏み入れた。
けれども、ヴァールハイトはなにやら考えているのか眉を寄せて唸っている。
じっと彼女を見上げて大人しくしているといきなり腕を取られた。
「え」
「とりあえず、年の瀬に必要な材料を買いにいきましょう!」
「ちょっ、ヴァールハイト…っ!?」
今来たばっかりなのに、もう出かけると言いだした元気すぎる少女は明るく笑って。
「だって、一緒に食事するんだもの。腕によりをかけて手料理振る舞うから!」
「うわぁっ、だからぁ!」
そう言うなり、壁に掛けていたコートを着込んでいつものようにネージュの手を引いて街中に繰り出すヴァールハイトにネージュは必死についていった。
ノヴノールの商店街や繁華街は寒い中であっても繁盛している。
雪避けの屋根が設けられているが、通り抜ける空気は冷え切っている。
首都の台所を担うだけあって、アウィスの朝市なんかよりもずっと豊富な食材を扱っているのが一目でわかる。
珍しそうに辺りを見渡しそのたびに足を止めるネージュに、手を繋いだヴァールハイトはひとつひとつ丁寧に教えてくれる。
「あれはなに?」
「あぁ、工具を扱うお店ね」
「じゃあ、こっちは」
「紋様師のお店よ。魔術とかそういった関連のお店」
「うーんと…たくさんある」
本当に、すごいや。
ぼんやりと呟いて、辺りを見渡すばかりの店に囲まれている広場の一帯を眺めて軽く息をつく。
どこに行こうかという前に、どこにどんなものがあるのかすらわからない。
ネージュは初めて商店街を歩く。
それまではずっと、この広いノヴノールの街並みをヴァールハイトに連れられて散策していただけだったから。
初めて見るものに目移りしてしまう。
そんなネージュを嬉しそうに少女は覗いてくる。
「なにか欲しいものがあったら、買いましょうか」
「欲しいもの?」
きょとんとするネージュにヴァールハイトは頷く。
「そう。だってネージュ、ここに来てからもそうだけど何も欲しがらないんだもの」
「ヴァールハイトと一緒にこの街を歩くのがすごく楽しいから、そんなこと思ったことなかった」
「あなたって本当に無欲ね」
「そうなの?」
「そうよ。普通だったらなにか欲しいとか言うんだけどなー」
ちょっと不満そうに、でもなにか良いことを思いついたような悪戯っ子の表情を浮かべたヴァールハイトはふいに目に入ったそれを見つけてネージュを連れて歩きだす。
「ねえ、なにか身につけるものを買わない?」
「輝石以外で?」
「そう」
ほら、あれなんてどう?
ヴァールハイトが指差した先にある硝子の向こうを見れば。
「……紐?」
石造りの店が並ぶ広場は大きな硝子張りの窓に取り扱う品物を飾って、道行く人の目を楽しませてくれる。
中でも彼女が示したのは、色とりどりの何かの紋様をあしらったリボンが硝子越しにあるお店。
「えーっとね、それとはまた違うの。ちょっと来て?」
手を引かれてそこまで連れて行かれる。さっき紋様屋と教えてもらった、同じ看板を下げた店の扉を開けて二人は店内に入った。
目の前に並ぶのは、様々な模様を刻んだ装飾用品をとり扱う雑貨の棚。
その中に、白い紐のチョーカに繋がれたなにかの結晶を模った石がある。
ヴァールハイトはそれを手に取るとネージュに差し出す。
「これはね、雪の聖痕なの。聖痕はもうずっと前になくなったものなんだけど。雪の結晶を紋様師がデザインして作ったものよ。ネージュってなんか雪みたいだから」
もしかしたら、思い出したあなたの歌もそんな感じじゃないかしら。
きれいに笑ったヴァールハイトにネージュは呼吸を止めるも、なにも言えずにただ少女を見上げる。
「聖痕をあしらった装飾品は、その人の歌に合うものなら込められた力を付随できるの」
魔術の応用なんだけれどねと、そのまま自分の朱色の輝石に合わせた鳥を模ったチョーカを手にして。
「たぶん、いつか役に立つから」
「……ありがとう」
ただその気持ちだけで嬉しかった。
会計を済ませて小さな紙袋を抱えた二人は店を出る。
「じゃあ、次は食材を買いましょうか」
「うん。ヴァールハイトの作るご飯、楽しみにしてる」
もちろん手伝うよと続けたら、一緒に作るみたいねと笑ったヴァールハイト。
これからの三日間はとても楽しくなりそうだと、ネージュは心の中でひっそりと思った。




