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スノー・シャンテ  作者: ごま塩
13/17

四章 不死鳥のプレリュード1

 あれからどれだけ経ったのだろう。時間の感覚はとうになくなっている。気づいたら自室に辿りついていた。

 それからなにかを食べる気すら起きなくて、ベッドにもぐりこんで膝を抱えて必死に考えている。

 今まで自分は普通の人間なんだと思って生きていた。

 なのに、フェニックスだなんて。

 腫らした目蓋を閉じる。今を見つめることが怖かった。

 なにより信じたくなかったのが――――

「叔父様が……皇、帝……」

 よりにもよって気に食わないとずっと口にしていた相手が、誰よりもヴァールハイトの近くにいた。

 ……ただ傍にいて見守るために。

 よく皇帝とは誰だと突っぱねても彼は愉快そうに笑うだけだった。

 あぁ、本当におかしなやつだなんて、いっしょになってうなずいていたのに。

 そんな彼が、アーウェルサとこの世の支柱である天極が、ずっと帝国でクローフィ一族を、不死鳥を見守ってきたなんて。

 もうなにがなんだかわからなかった。

 自分がそんな大層な存在だなんて今更言われたってどうしようもなかった。

こんな無力な私に、なにができるというの?

 神のように世界を支える力もなくて、国を支えるだけの頭脳も才もない。

 取り柄といえば、歌を極めたことと自分の身を守れるくらしかない。無力な貴族の子女。

 どうして私だったんだろう? どうしてもわからない……わかりたくなんてない。

 自分がそんな特別な存在だと信じられるはずない。

 ぎゅっと、手が白むまでシーツを掴んで嗚咽を噛み締めてもなんにもならない。

 でもまた弱いだけのひな鳥に戻るのはいやだった。

「…………なにか、食べよ」

気だるさを訴える体を無理に起こしてベッドから降りようとした。けれど。

「おい……大丈夫か?」

 ばさりと被っていたシーツをまくられて見慣れた顔がこちらを見降ろしている。

「あ、……叔父さ…………皇帝、陛下……」

 いつのまに、この人は部屋に入ってきていたんだろうか?

 かすれた声でなんとかそれだけは言えたけれども、気配すら感じられなかったことに今になってぞわりと背筋が冷えて戦慄が走る。

 ヴァールハイトは彼から剣を教わった。だから多少なりとも武芸に心得はある。

 なのに、何も感じなかった。

 それだけ目の前の青年が桁外れの実力者……覇者でしかないことにようやく思考が落ちつく。

 酷い状態だろうが気は張っているつもりだった。

 ヴァールハイトに落ち度があるのではなく、そもそも比べることが間違っているのだろう。

彼は人間を超越する存在であり、覇王を冠した神話の神。

 人の姿をしているからすっかりと忘れてしまっていた。

ぼんやりとそんなことをまとまりのない思考で考えているヴァールハイトをアーウェルサは心配そうに見下ろす。

「なにか、昨夜から口にしたか?」

「…………ううん。なんにも」

「そうか。立てれそうか?」

 顔を覗いてくる仕草も、シレンシオとして慕ってきた時と同じ。思わずヴァールハイトは俯きながら素っ気なく言ってしまう。

「……力が入らない」

アーウェルサは皇帝だと自身の正体を明かしたのに態度を変えない。

 むしろ肩の荷が下りたようにいつになく気楽そうにしている。今まで正体を隠していたことを気に病んでいたんだろうけれど。

 だから、ヴァールハイトも自然といつものように接していた。

「お腹、空いたけど……昨日頭が真っ白になるようなことあったばっかりで…………なにも、食べる気がしないの」

「あぁー……。こればっかりは、すまなかったな」

 ぽんぽんと、あやすようにやさしく頭を撫でてくれる。

 ふいに涙が出てくる。やっぱり、この人は大好きな兄のようなひとでしかない。

 こうやって気まずそうに頭を撫でて謝ってくるところも、ぜんぶぜんぶ、そうだから。

 変わらないんだ。

ぼろぼろと涙を零して泣きだしたヴァールハイトの頭を、宥めるようにくしゃりと撫でてくれるアーウェルサ。

幼い頃からずっと慣れ親しんだそのあたたかさに気が緩んで涙が止まらない。

「ヴァールハイト、泣くな。お前が泣くと、アレに俺が叱られるんだが」

「あれって……だれよぉ……っ」

 ぐしぐしと鼻を啜って睨みつけると、彼はふっと笑った。

「一応、お前の正統な血縁者に当たる、あぁ見えても天極にだ」

「…………あの方が本当にこの世界を創ったひと? あんな所にいて良いの? 今更だけど、本当にとんでもない人じゃない」

「そうなんだろうがアレはここに留まることを望んでいて、この国を見守ることが好きらしい」

 だれにも邪魔されることもなく、ただ好き勝手に好きなだけこの世界を見たいらしいな。

 そう語るアーウェルサの面差しはひどくやさしげに見えた。

 初めて目の当たりにした兄と慕ってきた青年のその表情にぼうっとしてしまう。

 さっきまで自分というものすらわからなくなっていて、この人に頭が真っ白になるほどのことを聞かされたのに。

 いつものように彼が心配してこの家を訪ねてこうして側にいて話しかけてくれるだけで安心して、ちょっとは行動できる気力まで湧いてきてしまった。

「そういえば、ずっと不思議だったの」

「なんだ」

「アレって呼ぶくらいだから、二人に子供はいるんでしょう?」

「……………………まさかのそこか?」

 唖然としてしまったアーウェルサにこくりと頷く。

「だって、帝国発祥から数百年一緒に連れ添っているのでしょう? だったら子供の一人や二人は……」

「あー…………。まあ、ひとり、いるな」

「そうなんだ」

 興味を覚えて彼の言葉を待つが。

いるんだけどなと言葉を濁して遠い目をするアーウェルサにきょとんと瞬きするヴァールハイト。やがて、やけに重い溜息をついて。

「今は帝国にはいない。各地を気ままに旅している、らしい」

「え? らしいって……」

「連絡は久しく来てないな。前にきたのは…………あー、わからん」

「――――そんなのでいいの!?」

 真顔で言い切ったアーウェルサに思わず頭を抱えてしまう。

普通なら子供の心配するものよね? 自分の考えがおかしいのだろうか。

 あまりにもあっけらかんと言い放たれた一国の親子関係にちょっと神の感覚がずれているのではないかと閃く。

絶対にそうだ。

 しきりに頷いているとアーウェルサのやや冷めた視線が射抜く。

「……おい。俺がろくでなしとか思ってるんじゃないだろうな」

「そうでしかないと言えないんだけれど」

「あのなぁ……」

 率直にヴァールハイトが返すと青年は額に手を当てて呻く。

「いくら俺でも、娘を案じないほど冷血漢になった覚えはないぞ?」

「あぁ、娘さんなんだ」

「……落ちつくところはそこなのか」

 がっくりと肩を落としてとても遣る瀬なさそうな顔で見てくるから、おかしくなってたちまち笑みがこぼれてしまう。

「あはは…っ! ちょっと、そんな顔しないでよ、シレンシオ、……えーと」

「アーウェルサでいい」

「え?」

 聞きまちがえかと思って見返しても、もう一度念を押すように彼は言う。

「アーウェルサ叔父でも兄でも、好きに呼べばいいさ」

「いいの……?」

 そう聞いてしまえば腕を組んで呆れたように見降ろしてきて。

「今更だろ、それこそ」

 そう言い放つとアーウェルサは背を向けてどこかへと歩きだす。

「もう、帰るの?」

「は? なにを言うかと思えば……。今から食べれるもの作ってくるから、大人しく横になってろ」

 さも当然のように言ってくれるけれどその、なんというか……。

 ヴァールハイトはようやく彼の言ったことを理解してしみじみと呟く。

「…………随分と家庭的な皇帝陛下よね、そう思ったら」

「言うな。俺だって泣けてくる。それもこれも……全部が全部、アレのせいだから文句はあいつに言ってくれ」

 げっそりとした表情の皇帝にやっぱりヴァールハイトはおかしくて、いつの間にか笑顔を浮かべていた。

 そんな少女の屈託ない笑みを見つめて、アーウェルサは目を細めた。




「この世界の神話は知っているかい?」

「ううん。知らない」

 いつも起きている時刻よりもっと遅い時間帯。

すでに日は昇っているはずなのに、アウィスより北の極寒の首都、ノヴノールにはしきりに雪が降っている。

 窓からちらついて見える雪をネージュは眺める。

 今朝になってアーウェルサはヴァールハイトの家へと向かった。ネージュはユエリアと一緒にいる。

 ネージュが孤児だと知っているのか、付きっきりで彼女が勉強を教えてくれることになった。

 場所はユエリアとアーウェルサの住まいである静かな広間。彼女の定位置である壇上の下。最初にネージュたちが通されたそこに置かれている木彫のテーブルに二人は着いていた。

 集中が途切れたネージュにユエリアの声が降ってくる。

「ヴァールハイトが気になる?」

「泣いていたから、大丈夫かなって……」

 ヴァールハイトの泣き顔を思い出して瞳を伏せたネージュに、少女はしっとりと微笑する。

「大丈夫。あの子はそんなに弱いわけではないから。君も彼女を心配する前に、自分のことに集中しないとね」

「はーい」

 むむっと眉を寄せて、目の前の分厚い書物を見つめる。

 なにが書いてあるのかさっぱりで、難しい言葉ばかり並ぶからネージュには理解できない。

 すぐに眉を下げて彼女を見上げると、ユエリアは文面を見ることなく読み上げていく。

「いい? 『世に世界ありきは、天極による――』とかあるけれど……」

 彼女が簡単に噛み砕いた説明にネージュは耳をすませる。


――最初にあったのは無色透明だった。

水晶のように透き通った球の器に、水がたゆたう天球。

ある日それは自らに気付いて二つに別れた。

一つは世界を包む透き通った天球、一つは世界を育む透明な水。

二つは互いに姿を求めて形をとった。

真下を見下ろす天球は、その目に映った移ろう白と下に満ちる透明を。

真上を見上げた水は、翳った黒と上を覆う透き通った光を。

原初の二柱は透明な世界を鮮やかにしようと、互いの姿からなにかを生みだそうと試みた。

だが二柱は相容れぬものであり、触れ合った途端に(から)である天球に水が満ち、その苦痛に天球の透明な瞳が赤になった。染まった瞳から赤を零し、血が生まれた。

その血から、天球の姿を赤に染めた鳥が生まれた。

二柱は世界を彩る存在を生みだすことを知る。

最初は水の姿でもある(りゅう)を二柱は協力して創り無色の世界に生み落とした。

次に、天球の姿である鳥を、最後に二柱にはない四肢を具えた獣を。

三頭に天球は自分になく水にある、心を授けた。

海の劉であり、最強の者――リヴィアタン。

天蓋を抱く鳥であり、最良の者――ジズ。

大地を歩む四足の獣であり、最高の者――ベヒモス。

三頭は二柱より与えられた形と性状により、透明なだけの世界に姿を与える。

ベヒモスはその四肢で満ちる水を踏み固め、地を。地に降り立ったジズはその翼で天を持ちあげて、空を。リヴィアタンは満ちる水をたゆたい集めて、海を。

世界には空と地と海が広がり、二柱の望んだ通りに無色の世界は彩られた。

またたく間に世界を満たした海より、生命が生じ育まれて、世界に生命があふれた。

二柱は天と地に留まり、その間に世界を据える。それより二柱は世界を支える御柱となった。

始まりの三頭を世界に放ち維持を命じた。

そして世界の創世はなされた。


 すらすらと口上で語るユエリアは、一息おいて最後を締めくくる。

「けれども、天極の死と神代の崩御を機に、水天はその姿を消した」

「……どうして?」

 ようやく口を挟んだネージュに困ったようにユエリアは微笑む。

「それはね、彼女が……自分のせいで私が死んだのだと嘆いたからだと……思っているわ」

「死んだ、とき?」

 反芻(はんすう)するネージュに口調を変え、今は少女の身を取る天極であった女性は悲しげに笑う。

「えぇ。愛した者を通して、永年望み続けた心を得たために……私は天極として、世界の支柱の役目を果たせなくなった。そして招いたのが、一度目のこの世界の終焉」

あなたがあの歌を奏でた際に見た記憶は、その時の私の最期なのよ。

 凪いだ眼差しで見つめてくるユエリアにネージュは考えるように口を閉じるが、わからないことがあった。

「どうして、あなたには心がなかったの?」

「そうね。だからこそ、私は心を得たかった。天極に不可能はなく、創造し全てを授けられる。私は単なる世界を支える柱で、思考も生も不要な無機質な人形だったから」

 そっと、震えた淡い瞳を伏せて。

「でもね、水天は……彼女は、私に自分が持つ心というものを教えようとしてくれた。けれど、それが起因となって私の死を招いたと、彼女は嘆き世界から消えた」

 ようやくこの世界が本当の意味での平穏を得たというのに。

「……未だに、私は彼女に会えないでいる」

 だがネージュを見つめる眼差しはひどくやさしい。

「不思議ね。あなたを見ていると……懐かしいと感じるわ」

 とても不思議な子供。

 天極であるユエリアですら不可解とする異端児。

 目の前の子供の出現の経緯すら、未だになにもわかっていない。

 もしかしたら、この子は……?

 確証すらない。なにより水天はユエリアにしても常に掴めない。

 だからこそ謎だけが深まる。なぜこの子はこの世に存在しているのだろうか、と。

 だがそんな思考はすぐに切り替えて。自分の話を聞いてか、眉を寄せて懸命に本に目を落としている少年を励ますように笑って。

「さて、もうちょっとだけ神話のことを教えようか」

「お願いします」

 真面目に聞く子だから、とてもいい子だとはわかるけれども。

 ユエリアとネージュはしばし勉強に耽るのだった。



                   ∮


 アウィスと違い、この街がとても大きいのだとネージュは窓から見える光景から知った。

 外はとても寒いからと、この地の寒さに慣れていない自分を城の外へ出すのをためらっていたユエリアのお許しがやっと出た。

ネージュは防寒着をしっかりと着こんでノヴノールの街並みを歩いていた。

人通りのない石畳の路地で立ちどまって真上をあおぐ。

窓から見つめていた、上空から絶えず降り注ぐ白い花のような大粒の雪がはらはらと揺れてネージュの頬にいつくも着地する。

「冷たぁっ」

 あまりの冷たさに顔をしかめて肩をすくめる。

 息が凍るほどに寒いと感じてしまうがここまで寒いと気持ちいいくらいだ。

 それに着せられたコートがとてもあったかくていつまで外にいても平気だと思える。

 そんなことを言ったらきっとヴァールハイトに怒られてしまう。

 アウィスでは路地で寝ているといった時のあの少女の怒った顔が今でも思い浮かぶ。

 ちょっとおかしくなって思い出して笑ってしまう。

 その時だった。

 ――――…………しの……い……こ……

「え……?」

 声が、(かす)かに響いた。

 背後を振り返ってもネージュ以外の人影はない。

 気のせいかと思ってその場を後にしようとしたが、ふとなにかが脳裏を(よぎ)る。

 足を止めたネージュは急になにかを思い出しかけた。

 おぼろげになっていくそれを必死になって掴もうとするとようやくはっきりと見えた。

 だれの、面差しだろうか。

 滲んだ輪郭も、姿すらはっきりと見えないだれかが、手招くようにゆっくりとその両腕を伸ばしている。

 その姿を見とめた瞬間――ネージュは頬を伝う熱を感じる。

「……え、あれ? どう、……して?」

 いつの間にか流していた涙の熱さではっとなったネージュだったが、手の甲で涙を拭った間に忘れてしまっていることに気づく。

 ひどく、それが寂しいと思う。

 あなたは誰なの? そう問いかけたくても、もう面影さえ見えない。

消えてしまった。まるで、ゆるやかに水に溶けるようにして。

 掴もうとしても、手の届かないところに遠ざかってしまってもう触れられない。

 先ほどまで笑みを浮かべていた瞳は寂しげに揺れる。

 降り積もる、きれいな真白い雪の花弁がいっそう寂しいと感じさせた。

 きれいだけれど、肌に触れればたちまち熱を奪って冷たくしていくから。

「…………僕は、だれなんだろう」

 雪が降りしきる中で、ぽつんと立ち尽くしたネージュは真上を仰ぐ。

 顔にかかる雪が瞼や鼻に落ちて凍てつかせるように冷やしていく。

 今はその痛みを感じるほどの冷たさに、全てが奪われてしまうことを望んでいた。

「……寂しいって、こういう……こと、なんだね」

 ふと、瞼の裏で思い返したのは。

 あの赤い少女が教えてくれた寂しいという感情。

 また一筋の雫が頬を伝う。寂しいのだと、そう思えば思う程に。

「ねえ。あなたは、だれ?」

 ……どうして僕を呼ぶの?

 虚空に問いかけた小さく震える声は、虚しく凍てつく街に消えただけだった。


                   ∮


 雪が降り積もる毎日は変わらない。けれど冬は段々と深まっていく――。

 目を覚ませば身震いしてしまうまでの寒さを感じて起きてしまうことが増えた。

ネージュはひんやりとした空気の中で、清潔なシーツに小さく丸まって包まる。

 今日もまたこの街には雪が降りしきっているのだろうか。

 城で与えられた部屋で目覚める日々。こんな立派な部屋にひとりでいるのはとても寂しい。

 膝を抱えるようにして、ちょこんとベッドに座りこむ。

「……ここに来て、もう一週間経つのかな」

 こうしていることが信じられなくて考えてしまう。

ずっと孤児院を抜け出してひとり路地で寝泊まりしていた。

飲み水や、体を洗うのは昼間になってからアウィスの森の川や湧水ですませていた。

 今はこの部屋で生活ができる環境に保護された。

 あたたかい食事も出され、空いた時間はアーウェルサかユエリアが勉強を教えてくれて、時々街に出て歩いたりするのが楽しかった。

 そして、ふかふかのベッドで眠れる。帰る場所がある。迎えてくれる人たちがいる。

 ヴァールハイトが言っていたネージュの知らない当たり前。

 それをこうして体感してしまえばもう前の生活に戻れない。

 アウィスでの生活を彼らに話せば唖然とされてしまったけれども。

 ネージュは自分の生活を大きく変えたヴァールハイトと顔を合わせていない。

アーウェルサに尋ねれば、やっと落ち着いてきたが悩むようになったと聞いた。

 もう屋敷で一人生活してネージュに遊びにこいと伝言をくれるほど元気になったらしい。

 今なら、またあの笑顔を見せてくれるだろうか?

 ネージュはヴァールハイトの笑顔がとても好きだったから。

日に日にネージュには記憶が戻りつつあった。あの不思議な声が聞こえた日を境に、頻繁にふとした拍子になにかを思い出す。

 最初に思い出した面差しが母親なのはなんとなくわかった。

 今ははっきりと見えるあの面差し。

やさしげに眠りに落ちそうになる自分を撫でてくれていた。

ずっと前から夢で見ていた、声は聞こえなくても、やさしくネージュに触れてあやすように抱きしめてくれていたのを思い出したから。

まだ父親は思い出せない。もしかしたら母がネージュを育てたのかもしれない。

理由があって今は離れ離れになっているのだとネージュは思っている。

 でもいまだに母の名前も声も思い出せなかった。

 それがいやで、ネージュはまだ自分の記憶のことを話していない。せめて母の名前を思い出したかった。

 記憶のことを考えていたらすっかりと目が覚めてしまった。そのままベッドを抜けようとしたネージュだったが、そこで思い出す。

「……まだ早かったっけ」

 そう。ネージュは夜が明けきらない早朝から起きるから朝食まで時間を持て余す。

 初めはユエリアとアーウェルサの許へ向かったが、二人にはゆっくり寝ればいいと諭された。

「うー……これから寝るの、無理だよ」

 ごろんとベッドに寝転がる。

 ユエリアには子供らしくしていいと言われるけど、彼らの言っていることがよくわからない。

 ネージュは生きているだけでよかった。

 そう言えばアーウェルサにもあやされるように頭を撫でられて窘められた。

「……もっと甘えろ、か。でも甘えるって、なんだろう?」

 むーと眉を寄せて考える。

 最近よく顔に表情が出るようになってきたと言われるようになった。

 寂しいということを覚えたその日から笑うようにもなったし泣くようになった。

 ネージュは自分が変わったと感じている。それがいいことなのかはわからない。

 でもヴァールハイトと一緒になってはしゃいで笑ってみたいと思う。

 そんなことを考えていたら、ゆるゆると訪れたまどろみに誘われてネージュの意識は途切れた。

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