神々のオラトリオ3
気づけばステンドグラスから射し込む光が橙を帯びている。
膝を抱えているヴァールハイトと隣に座るネージュはぼんやりと教会に座りこんでいた。
身じろいだ少女がぽつりと零す。
「……私、帰ろうと思うの」
「そのほうがいいと思う。ヴァールハイトを心配してる人がいるんだし」
大丈夫とその背中を押すように励ませば、彼女はネージュを見つめて微笑む。
「ねえ、またここに来ていい? あなたに会いに」
「それはヴァールハイトが決めることじゃないの?」
小さく首を傾げてとぼけると、くすっと笑って、膝を抱えていた手を伸ばして小指を立てたヴァールハイトは言う。
「じゃあ約束。指きりしよう」
「約、束……?」
それがなにか知らないネージュの小指に自分のを絡めてヴァールハイトは指切りをする。
「約束。また、会いに来るから」
「わかった。楽しみにしてるね」
素直にうなずけば寂しげに少女は笑った。
――その時、教会に足音が響いた。
二人が背後を振り返ると、リニスと見知らぬ男がこちらに歩み寄ってくる。
息を呑む音が聞こえ、ヴァールハイトを見ればその赤い瞳は大きく見開かれている。
「ったく。ここにいたのか、このはね返りが。……ガイル殿も俺も、心配していたぞ」
「……叔父、様」
彼女が持ってきたはずの荷物を肩に担いだ男はつかつかとヴァールハイトに近寄るなり、ぽんとその頭に手を置いて豪快に撫でている。
「ちょっとは元気になれたのか?」
「…………うん。もう、いつもみたいに笑えるわよ」
はにかんでみせる少女に青年はようやく表情を和らげる。
「お前たちを迎えにきた。……お前、名前はなんという?」
けれども彼はネージュを向くなり名を聞いてくる。
「ネージュ。あなたは?」
「俺はシレンシオ。ヴァールハイトの母方の遠い血縁者ってところだ」
いきなりのことで口出ししようとしたヴァールハイトを、その腕を上げて制したシレンシオと名乗った青年はネージュに告げる。
「ヴァールハイト・クローフィ、及びネージュ。陛下の勅命により、ただちに私と共にフォルモーント城への同行を要求する」
絶句するヴァールハイトとただ彼を見上げることしかできないネージュに、青年は茶目っ気たっぷりに片目を瞑って笑う。
「なぁに、いくらあの人でも取って食いはしないさ。ただ、お前たちの顔が見たいと仰せだ」
行くぞ。そう言って颯爽と身を翻したシレンシオに慌ててヴァールハイトは歩き出す。
いきなりのことでネージュは戸惑うようにリニスを見上げる。
「……シスター」
「大丈夫。あの方は、悪いようにはなさいません。ネージュ、どうか元気で」
やさしく抱きしめられるも、別れを惜しむ間もなく放されて背中を押される。
「さあ、お二人がお待ちです。……気をつけて」
一度だけ振り返るが、ネージュは広場で待っているヴァールハイトとシレンシオの許まで一気に駆ける。
振り返れなかった。そうしたらきっと泣いてしまう。
流れそうになる涙をこらえて、寂しさを感じながらも前を向いて走る。
三人を乗せた竜がアウィスの町を離れていくのは間もなくだった。
今まで過ごしてきた、遠ざかる町を不安そうに見下ろしていた。
けれどネージュは無言のヴァールハイトと自分が落ちないようにと後ろで見守っている青年を振り返る。
その面差しに、なんとなく見覚えがあったから。
そうして鮮やかな見目の竜は雲が立ち込める北へと天上を駆け抜ける。
向かうは首都。最果ての都市、ノヴノールへ。
――――フォルモーント城。それが帝国の皇帝が住まう王宮の名だ。
当時は要塞としての役割をしていたので重厚で荘厳な印象を見る者に与える。
厳しい天候もあって難攻不落の城塞と名高い。
ネージュとヴァールハイトはフォルモーント城の裏に広がる、異様に開けた凍土に離陸した竜から降りるなり、震えながらシレンシオに連れられて裏口らしき暗がりから王宮に入った。
石造りの冷たい回廊はどこまで続くのか。どんどん奥まった場所へと足を向けているような気がする。歩む足音だけがやけに大きくいくつも反響する。
ネージュの手を引きながらも、違和感を覚えたヴァールハイトは戸惑いながら先導するシレンシオに声をかける。
「叔父様。いったいどこに向かっているんですか? 謁見の間に通されるはずじゃ」
「残念ながら違う。本当の皇帝の間は、最奥にある」
かつて自らが命を絶った場所にて、な。
遮って告げられた不穏な言葉に息を呑むヴァールハイトとネージュだったが、突然狭い暗がりから広い空間へと出て立ち止まる。
目の前には厳かな意匠を凝らした大きな扉が待ち構えていた。戸惑いが緊張に変わりなにも考えられなくなる。
立ちつくす二人の前でためらいもなく扉を開けはなったシレンシオは押し入るなり、おもむろにその場に跪く。
「ただいま戻りました」
「そう。二人とも、入っておいで」
すぐに違う声が響き、くすっと笑う声が聞こえた。
なにが起こったのかさえわかっていない二人にシレンシオが目線で促す。
それに励まされ、瞳を閉じ高鳴る胸を押さえて。
ヴァールハイトはきょとんとしているネージュの手を引いてその場に足を踏み入れる。
そこは皇帝と呼ぶにはあまりにも相応しくない、静謐さを湛えた空間。
華美ではなく、教会のような美しくも厳格さを思わせる内装。
調度品もそこにあるものすべてが洗練され一切の無駄を削いだ意匠を施したもので彩られる。
空間を仕切るように一段上に壇場が設けられており、そこにまだ若い面差しをした人がいた。
玉座とは呼べない、ゆったりとした造りの椅子に腰掛けている。
まるで月を溶かしたような薄金の後ろだけ長い髪に、冴え渡る蒼月の目。
帝国では見慣れぬ質素な装いの衣装を身に包んだその人は、ヴァールハイトとネージュを見つめてしっとりと微笑む。
「あぁ、やっと来たね。初めまして。僕がこの帝国の実質の権力者だよ」
ふふっと笑ってあまりに軽い口調で身分を明かした少年に、ヴァールハイトは言葉を失った。
書の中で語られた皇帝の像とはかけ離れた繊細そうな外見と振る舞い。
ただ者ではない雰囲気とその食えない微笑は感情すら見えない。
今までの憤りも、軽すぎる態度を目の当たりにしてすっかり崩れ去り声も出なかった。
ただどうすればいいのだろうとそればかりが頭を埋めつくす。
目の前には不気味なほど満面の笑みを浮かべる皇帝と名乗った年上の少年がいるのに。
だが、ヴァールハイトの手を強く握り返したネージュがおもむろに口を開く。
「あなたは、だれ」
「ネージュっ!?」
咎めるようにヴァールハイトは叫ぶがかまわずにネージュは彼を見据えて言い放つ。
「皇帝はあなたじゃない。あの人はどこ? あなたを抱きしめて泣いていた、あの男の人は」
しんと静まりかえった室内には呼吸さえできないくらいの静寂が満ちていく。決してネージュは視線をそらさずにじっと彼を見つめる。
澄んだ幼い目と凪いだ目が交差する。
……けれど、なにを思ったのか。
彼はその淡い瞳を閉じ、よく見るとぷるぷると肩を震わせておもむろに口を押さえ。
そして――――盛大に吹き出し腹部を抱えて、ソファーの上で声を上げて思いっきり笑い転げた。
「……っはは! くっ、……は、初めて……そんなことを、言われたよ……っ」
目に涙を溜めて心底愉快そうにころころと上機嫌に笑いだした彼に、すっかりと呆れ果てたようにシレンシオは見遣り、ネージュは不満そうにしている。
ヴァールハイトはわけがわからなくて泣きそうになりながら、三人の顔を困惑するあまり交互に見回してしまう。
ひとりきし笑った彼はごめんねと涙を拭って立ち上がると、ネージュに向き直る。
「いやぁ、参ったね。……まさか、そこまで読み取れるなんて。ネージュと言ったね。君に敬意を表して、仕方ないから教えてあげるよ」
本当は教えるつもりはなかったんだけれど。
そう呟いて仕方なく目を伏せて。目蓋を開き、がらりと纏う雰囲気を変えてその人は粛々と告げる。
「我が名はユエリア。創世より世界を抱く二柱の内、天極の月を司る片翼。今は失われた古来の制度だけれど、我が主はそこにいる彼」
目線で示したユエリアと名乗った彼――いいえ少女に、音もなく傍に立ったシレンシオ。
それはまるで、彼女に寄り添うかのように。
まさかと目を凍らせたヴァールハイトを青年はすまなさそうに見つめてから。
「……今まで騙すようなことをして、すまない。柄でもないが……俺がアーケルソル初代皇帝、アーウェルサという」
傷ついたように瞳を揺らしたヴァールハイトを、困ったように見ているシレンシオ……否。異端の神であり帝国を治める皇帝であるアーウェルサにユエリアが続く。
「ヴァールハイト。こうなったからには、僕らが君を気にする理由を教えないといけない。心して聞きなさい」
泰然と告げたユエリアに放心してしまったヴァールハイトはなにも言えなかった。
だが、そんな少女の手をしっかりとネージュは握り締める。その温もりに気づいたヴァールハイトに、ネージュはうなずいて見せる。
「大丈夫だよ、ヴァールハイト」
「…………うん」
弱々しくともしっかりと前を向いた少女にふっとやさしく微笑したユエリアは、慈しむように表情を和らげて語りかける。
「どうして、君を気にかけるのか。その理由はね、君がフェニックスの末裔だからだよ」
「――――え……?」
目を見張るヴァールハイトにユエリアは歌うように告げる。
「フェニックスは特別な存在。それは、君も書の中で知っているはずだ」
そうして語られるのはヴァールハイトに隠された――ひいては、クローフィ一族に秘められた伝承。
「不死鳥。天極が流す血の涙に満ちる、血潮の熱から生まれる存在」
厳かな声が響く。その淡い瞳は不安を露にするヴァールハイトを射抜く。
「彼らは古来より人間にも世界にも囚われない。唯一、私。天極が自ら生み出す獣にして、私の本性を血に染め世界に現れる鳥」
だからこそフェニクスは赤き血の色を宿し熱から生じる炎を司る。……いま尚、世界に血の連鎖の象徴として語り継がれて。
「不死鳥は私から生まれ、その誕生にこそ特別な意味がある」
まるで余韻のように、一息おいて。彼女は憂いを帯びた声で語る。
「天極は世界を抱く者。一方で、この世界を育む者がいた。今は失われたけれど、この世界と共に生まれた水天。始まりの二柱である私と彼女が触れ合い、私が流したのが血の雫。無色な世界に最初に生まれたのが不死鳥だった」
フェニックスが稀少とされる意味はそこに起因しているのだから。
「不死鳥はだれにも囚われない。私が施した世界の理にすら触れない、真実の自由を約束された者。だからこそ、不死鳥は世界には干渉しない。……ただ一つ、自分の選んだ者のために生きようとしない限り」
まだ、この世界に召喚獣と呼ばれた聖獣がいた時代。
人に囚われることが当然の神聖な獣たちの中で不死鳥のみが慕う主を見つけて仕えた。
逆に不死鳥に選ばれなければ彼らは姿を現わさない。
「それだけ、あなたは特異な存在。だから私も気にかける。どんな形であろうとも、昔に私が産み落とした子の子孫だから」
悲しげに微笑むユエリアに、ヴァールハイトはゆるゆると力なく首を振る。
その言葉を、突きつけられた全てを否定するように、違うというように。
「………………そんな……私……そんな、そんなフェニックスだなんて……。何かの間違いでしょう? だって私は――――人間だよ?」
ネージュの手を握ったままで悲痛に震える声を張り上げる。たえられなかった。
今までの自分を否定されたから。けれど無情な声がアーウェルサから響く。
「否定しようとも、証は揺るがない」
「嘘よ! どこにそんな証拠が」
「お前の心の象徴であるあの赤い鳥こそが証拠だ。天極の本性は、アレより色を抜いた純白だからな」
「――――」
ついになにも言えなくなって、声もなく涙を零したヴァールハイトをネージュは心配そうに見上げる。
「ヴァール、ハイト……」
彼女の名前を呼んでも……いつものように、笑ってくれなかった。
むしろ惑乱するあまり涙をぼろぼろと零して、そのおもては悲痛に染まる。
「…………っどうすれば、いいのよ……っ」
掻き消えそうな少女のか細い声が響く。
やりきれない思いで胸がいっぱいになる。
人間だと思っていたのにそうではないと否定されて、なにが自分には残るというのだろう。
ヴァールハイトと名づけられた少女は、いったいどんな存在――?
全てが真っ暗闇になって立っている感覚すらすべてが消失していく。
私は、誰なの?
あふれる涙が異様に熱い。
頬を伝う雫を拭うこともなくヴァールハイトはいきなりネージュの手を振り切って沈黙の帳が下りた部屋を飛び出す。
光さえ射さない暗がりの中で消えそうな赤い髪が、まるで自分の行き先を奪われるかのように見えてそのまま足元まで闇の中に呑み込まれていく錯覚に囚われる。
苦しくて、息すらできなくなるほどに、頭がひび割れるような酷い痛みが全身に響いて動けなくなる。必死に意識を繋ぎ止めて、帰る場所を求めたヴァールハイトは自分を見失わないように――首に下げている赤い輝石をぎゅっと握り締める。
もうなにも考えたくない。限界だった。
もつれそうになる足を叱咤して、朦朧とする意識の中、赤い髪を翻した少女は涙を流しながらただ走る。抱くべき自分を探すように。
あの背中がどこかに行ってしまう。まるで今にも消えそうな灯のように見えた。
不安に駆られて無意識に振りほどかれた手を伸ばして、必死に追いつこうとした。
「ヴァールハイト……っ」
回廊に出て遠ざかる少女の背中を追いかけようとしたネージュだが、アーウェルサの声に引き留められる。
「今は一人にしてやってくれ。……考える時間を、与えてやって欲しい」
「…………それで、ヴァールハイトが……また笑ってくれる、なら」
悲しげにアーウェルサを見上げてネージュは大人しくうなずく。気落ちしたように戻ってきた幼い少年にユエリアもすまなそうに微笑を浮かべて見つめる。
「君は、しばらくここに滞在してもらうよ。……ヴァールハイトの傍に、いてあげて欲しい」
「わかり、ました」
ヴァールハイトを案じるように静かに言うユエリアから、ネージュは彼女が走り去った方を見つめる。
また、あの明るい笑顔を見られることはできるだろうか。悲痛なあの赤い目が頭から離れない。
暗がりに消えた少女の行方は自分にはわからない。それがとても、ずっと閉ざしていた心を掻き乱す。
あの少女の涙を見て、なんでこんなに胸が痛むのかわからなかった。でも同じくらい思い知った。
傍にいても無力な自分が悔しい。そう、初めて感じた。弱さを噛み締めた。
ぎゅっと掌を固く握る。
なにができるだろう。自分に笑顔をくれるあの少女のために。
鮮やかな赤が視界からなくなってひどくこの場所が寒いと感じる。
今はなにもできない。無力な少年は新しく生活することとなった街の風景を、ぼんやりと窓から見下ろす。
白い雪が濃灰の空から降っていた。
――――雪。冷たいだけの、この場所みたいだと思った。
眼下に広がる無機質な街に降り注ぐ白き花を、揺れる幼い瞳はただ見ていた。
その胸に、決意を抱いて。




