三章 神々のオラトリオ1
∮
誰かに抱きしめられている。
目の前は真っ暗なのにそれだけははっきりとわかった。
誰かの腕の中なのだろうか。
疲れているからかどうしても瞼が上がらない。暗いと思っていたのは目を閉じていたからだ。
まだこのあたたかさに包まれて眠っていたい。
でも誰なんだろう。僕を抱きしめているひとは。
包まれていると、強く感じる……体温を、認識出来る。
それは確かにだれかのぬくもりだった。
こうされていると、とても眠くなるくらいに安心する。
まるでここにいてもいいのだと言ってくれているようで。
その人の顔を見たくても眠たくて見ることができない。
……どうしてこんなに疲れているんだろう?
あなたはだれ? どうして僕を抱きしめるの?
そう思ったとたんやっと目が開けられるようになる。
次第にぬくもりが遠ざかって消えそうになる、その人を見上げて手を伸ばした――――
∮
「――待ってっ!」
ばっと身を起こして虚空に手を伸ばす。
けれどそこには真っ暗な闇が広がるだけだった。
「あ、れ?」
ネージュは目を瞬かせて、ようやく自分がいつものように路地で朝を迎えていることに気づいた。
まだ暗い帳が降りる朝の気温はとても寒い。気がつけば芯まで凍った体がいきなり起き上がって軋んで悲鳴をあげている。
走った鈍い痛みに顔をしかめてネージュは確かめるように呟く。
「夢……?」
いままで見ていた夢。
日が経つにつれて鮮明になっていくその夢。
不思議と懐かしいと感じるからきっと自分の記憶なんじゃないかと思っているけど。
今はもうなんの夢を見ていたのかおぼろげにしか思い出せない。
どうして腕をのばしたのだろうか。
「いつか、思い出せる……かな」
首元で光る輝石をにぎる。知りたいと思う。どうして自分は記憶を失ったのだろう。
最近はそればかりを考えている。
いったいどこから来てどこへ帰るべきだったのか。
本当に捨てられたのかもしれないけれどもそれさえも覚えていないから。
「起きないと」
でもまずは飢えを満たすためにも誰かの手伝いをしないといけない。
今日は朝市の日ではないからどうしようか。
立ち上がったネージュは、まだ明けきらない朝を迎えたアウィスの町を駆け抜けた。
「ご馳走さまでした」
「はいよ。ありがとうね、ネージュ」
今日は年老いた老夫婦の使いをこなして飢えをしのいだネージュ。
笑顔で見送ってくれる、腰の曲がった老婆を見上げて頭を下げる。
「またなにかあったら、言ってね」
「ええ。またお願いするわね」
じゃあと手を振ってネージュは夫婦の家を後にする。
もう日は昇ったのか、朝の寒さは残っているものの明るい。
けれど空を雲が覆っている。こうなるとじきにアウィスにも雪が降る前触れだと教わった。
「雪、降るかな」
身を切るまでの寒さは朝感じるようになった。そろそろ孤児院に戻らないといけない。
リニスにも雪が降る前にと強く言われてしまった。
ぼんやりと曇り空を見上げていたがそろそろ時間だと気づく。
彼女は今日もまたくるのだろうか。そう思ったと同時に背後から大きな声が響いた。
「ここにいたのね、ネージュ! やーっと見つけた……っ!」
広場の方から赤い髪を靡かせて駆け寄ってきたヴァールハイトが呼吸を整えてネージュに笑いかける。
「おはよう、ヴァールハイト。いつも思うけど、そんなに走ってだいじょうぶ?」
「なに言ってるの。こんなの準備運動にも入らないわよ?」
それよりも今日はどうしましょうか。そう笑う快活なヴァールハイトにネージュもどうしようかと問いかける。
願いを叶えたはずの少女は、数日経ってもアウィスに留まりネージュの隣にいた。
ヴァールハイトはどうしても気になっていた。ネージュとはどんな少年なのか。
アウィスの孤児で、記憶を失い自分の歌すら知らない。町の人から聞けたのはそれだけ。
そんなことがあるだろうか。この世界に生きる者は自分という心を歌うのに。
だから噂や話を聞いただけでその人の歌を歌えてしまうというの…?
ヴァールハイトは小さな頃から書物を読んでいる。特に歌の歴史に関する書は手当たり次第に読み漁った。
けどネージュのように、自分の歌を知らずに他人の歌を奏でられるという記述は記憶にない。
ますますあの少年の謎は深まるばかり。
リニスに彼のことを尋ねてもわからないと首を振る。
ただ、雪が降りしきる新年を迎えた早朝に、凍った路地でネージュが倒れているのを見つけた町の者が教会に連れてきたのだと教えてくれた。
目を覚まして自分が誰だかわからないと答えたが、名前がネージュだとはっきりと口にした。
リニスもネージュの特殊な歌を目の当たりにしている。奇跡としかいいようのない力だとリニスはヴァールハイトに語った。
そしてシスターである彼女もまた聞き及んだことのない事例だという。
――――教会は神と密接な関わりがある。
古来に虐げられた者たちが率いるこの組織は異端という言葉には敏感だ。
ネージュのことは神に報告すべきだとアウィスの教会内でも意見が分かれている。だが、マザーを務めるリニスが見守ることを望んだ。
本当にただの記憶喪失かもしれないからだ。
……そうリニスには言われてしまったけれども。
「ねえ、ネージュ。本当に、ここに来る前の記憶はないの?」
「ないよ。雪の中で倒れてた記憶もない」
淡々と答えるネージュの顔をヴァールハイトは覗き込む。
ふいっと逸らされた目はどこか迷うようにまた少女を視界に納める。
そんな小さなことで嬉しいと感じる。
あの日から抱いていた願いは叶ったが、ヴァールハイトはノヴノールに帰ることを選ばなかった。
ネージュが母の歌を聴かせてくれた次の日の朝に、首都にいる父のガイルへと手紙をしたためた。きっと心配をしているだろうから自分が無事だということと、母が遺した最期の歌を書き留めて。
まだ届かないだろうけど、ヴァールハイトはアウィスに残った。
自分でもどうしてだかわからないけれど、ネージュとこのまま別れたくなかったから。
「そういえば、シスターリニスがいつ孤児院に戻るのかって心配なさっていたわ」
「うん」
「アウィスはとても温かいものね。私の故郷は年がら年中雪ばっかり降ってるわよ。本当に、あたたかいわ」
うーんとおもいきり腕を真上に伸ばしてヴァールハイトは空を仰ぐ。
頬を撫でる風がとても心地いい。
故郷であるノヴノールの上空を塞ぐ厚い雪雲とちがって、太陽の光がはっきりと映る明るい灰の雲間。
あちらでは頻繁には見られない天気だし、木造の建物が並ぶ町並みは素朴でぬくもりが感じられる。
帝国の南に位置するこの町は比較的あたたかい気候に恵まれている。
太陽がこんなにも身近に感じられるアウィスがちょっとだけいいなと思ってしまう。
隣を歩くまだ幼い少年を見つめる。やっぱり彼のことが気になる。
ヴァールハイトの視線に気づいたのか、ネージュはしげしげと見上げてきて。
「すごく気持ち良さそうだね、ヴァールハイト」
「とっても気持ちいいわよ。こんなにあたたかい気候は初めてだから」
笑顔がこぼれてしまうくらいに気持ちがいい。頬を緩めたヴァールハイトを不思議そうに眺めるネージュ。
明るい日差しを背中に受ける二人は修道院を目指していた。ネージュはやっと孤児院に戻るらしい。
路地で寝泊まりしているネージュを心配していたヴァールハイトも、これで胸を撫で下ろした。
修道院の門を潜れば、教会から一人のシスターがこちらに歩み寄ってくる。リニスだ。
どうしたのだろうと顔を見合わせた二人の前で足を止めて老シスターが微笑む。
「お早うございます、ヴァールハイト様、ネージュ。丁度、窺おうかと思っていたのですよ」
「シスター? いったいどうしたんですか?」
リニスはそう言うなりヴァールハイトに封筒を差し出す。
「たった今、届いたところです。シレンシオという方から首都より。あなた様宛にです」
「叔父様から?」
簡素な封筒を手にして驚いて裏をむければシレンシオという名が綴られていた。
「家族のひと?」
「そんなもの、かしら。母方の遠い血縁者とか名乗ってるけど、私にとっては兄のようなひとよ」
手紙を覗き込んだネージュにヴァールハイトは眉を下げる。
「きっと、早く帰ってこいってお叱りね」
肩を竦めるヴァールハイトは早速封を切って目を通す。だが、そこに書かれていた内容に呼吸を止める。
「………………うそでしょ」
「どうしたの?」
声が震える。傍にいるはずのネージュの声が遠く聞こえた。
けれど、こんなことって……?
声すら出せなくなったヴァールハイトを不審に思ったリニスが、失礼と横から手紙を読む。
「……これは!」
「何が書いてあったの?」
顔色を変えた老シスターにネージュは眉を寄せて問う。
ヴァールハイトは手紙を見つめたままで立ち尽くしているし、リニスも顔を蒼褪めさせている。
目を閉じ、髪を掻き上げた少女がどこか参ったように呟く。
「皇帝の命で……叔父様がここまで来るそうよ」
「皇帝? この国の偉いひと?」
「…………そう、ね」
手紙を握りつぶしたヴァールハイトの眼差しは剣呑な光を湛えている。
「……いったい、何の魂胆があるのかしらね。こんな小娘を気にかけるだなんて、頭でもおかしいんじゃないかしら」
「ヴァールハイト様。いくらあなた様でもそのような暴言は許されませんよ」




