全テハ霞ノ向コウ二消エ失セル
とある近所の小さな神社に行った日の話だ。
飼い犬である柴犬、コロの散歩を任された私は親から教わった“何時ものコース”であるこの神社へと訪れていた。時刻はまだ正午近くだというのに辺りは林に覆われているせいか薄暗く、光に包まれた周りの住宅街と比べこの場所だけ何処か空間が切り取られているかのようだった。
此処は相変わらず暗いなぁ…。
家から近く、通学路として目の前を通る道を利用しているのだが見る度に同じような事を思う。不気味な神社。
五年前、小学二年生の時に近くへと引っ越して以来、脳裏に焼き付いた第一印象は今でも変わることなく頭の中にある。相当な月日が経っているらしく入口に佇む石の鳥居は所々に苔と土が媚り付き、小さな亀裂が幾つも見られた。
入るのを拒む私と対象的にリードで繋がれたコロは嬉しそうに尻尾をはためかせぐいぐいと前へと進んで行く。
仕方なく少々の抵抗はしつつも力に身を任せ数段ある階段を上り鳥居をくぐる事にした。コンクリートから甃へと変わった道は光が差し込まない為か冷やりとした空気を纏わせていた。
それでもコロは楽しそうに突き進んで行く。
もう帰りたい…。
薄暗い雰囲気が怖く感じた訳ではない。また別に幽霊なんて信じている訳でもない。只何となくそう思った。
次の瞬間コロはピタリと突然歩みを止めた。耳を尖らせ、正面の小寺を見つめていた。
今まで引っ張られていた反動により目の前にいるコロを蹴りそうになり慌てて後退る。
どうかしたと声を掛けようとしたその時―――
「うわっ、わっ……!」
急にコロは走り出した。
「ちょっと待ってよ!」
人一人としていない神社に私の声はやけに大きく響く。声が聞こえていないのか、走り続けるコロ。その背中を追い必死に走る。真っ直ぐに小寺まで伸びる甃を大きく右に逸れ湿り気のある剥き出しの地面を走り抜ける。
そして、小寺を過ぎ、左に曲がると辿り着いた先は背中合わせにして建つ小さな古びた祠だった。外見は小寺と同期に建てられた物と捉えられた。
何これ?
コロは祠から見て少々離れた左斜めの位置に立ち止まる。疲れたのか息を荒げていた。
祠に興味を持った私は近くに寄ってみることにした。今まで引っ張ってきたコロも次は私に従いゆっくりとついて来る。
正面に立ちまじまじと見つめる。影が差し中の様子が暗く浮き上がる。
一番奥には縦長で青色と藍色の間くらいの色をした石が立てられ、手前には白いお皿が置かれ中にはお供えもののように鮮やかな藍色の紐に繋がれた金色に輝く小さな鈴がついたモノが入っていた。
綺麗な鈴。
魅了されるよう、手に取ろうとした時だった。
「お姉ちゃんは“それ”が見えるの?」
ハッと我に返り反射的に声の聞こえてきた後ろを振り返った。
其処にいたのはこの薄暗い空間に一際目立つ真っ赤で毬の柄があしらわれた着物を着た小さな少女だった。突如として現れ、現代の子供とかけ離れた格好をした少女に驚き、私は声も出せなかった。少女は微笑む。
「この祠は……その鈴はね、普通の人には見えないんだよ」
祠を指差し、少女は話し掛ける。一体何を言われているのか分からなかった。
唖然とする私に対し少女は続ける。
「だから、お姉ちゃんはその鈴に“選ばれ”たんだよ」
「…えっ?」
子どもならではの汚れを知らない純真無垢な微笑み。私は状況判断が未だに出来ていなかった。
「鈴を取って。きっと何時かお姉ちゃんの役に立つ時が来るから……」
少女は促す。隣でコロは身をすくめている。
体が自然と動いた。再び祠へと向き直るとゆっくりと鈴へと手を伸ばす。
初めて入った不気味な神社にいきなり現れた不思議な少女。状況は理解し難かったのだが何故か心は平常を保っていた。
鈴に触れる。冷たい金属の感触が皮膚に伝わってくる。
チリン――
か細い鈴の音が鳴り響いた。
後ろから声が掛けられる。
「さぁ、急いで帰って。新しい主の手に渡った今、もうこの場所は“いらない”モノとなった。“神の居ない神社”なんて存在する意味を成さないからね」
うつ向き気味に小さな声で穏やかに、けれども何処か寂しそうに言う。
ほっとけなくなった私は心配を問いかけようとする。
「あっ、あなたは…」
「良いから早く行って!帰れなくなるよ、私みたいに!」
甲高い声で叫ぶ少女。幼い小さな両手が握り絞められる。
それと同時に立ち尽くしていたコロは身を翻し今まで進んで来た方向へと突発的に走り出した。
「コッ、コロ!」
耳を尖らせ全身の毛を逆立たせる。その姿は何らかの危険を感知し怯える小動物に見えた。
これまでコロのこのような姿を見たことがあるだろうか。
前に進もうと必死にあがくが、私のリードを持つ抵抗により速くは進めていなかった。
少女を思い出し咄嗟に首だけを曲げ後ろに視線を向ける。小さな少女の姿は遠のいたせいで更に小さく見えた。寂しげにまた嬉しそうな儚く幼い微笑みから一筋の涙が伝い落ち―――
景色が“崩れた”。
少女を中心に周りを囲む全てのモノが溶け崩れ渦巻いていった。何が起こっているのか分からなかった。
唯一、無意識下の中で本能が危険を認識していた。此処にとどまれば確実に死が訪れる。
それでも尚私は少女が気に掛かって仕方なかったのだが、本能が逃げることを強いる。
コロに引っ張られ鳥居をくぐった瞬間音も立てずに神社の全てが“無くなった”。
階段にコロと私は呆然と立ち尽くす。周りを取り囲む木々も、古びた小寺も、そして祠も少女も――
何もかも全てが消え失せ、只の荒れ果てた空き地へと化していた。手に納められた金色の鈴が光に照らされキラキラと光った。
*
それから数日が経過した。あの後、突然消えた神社に周りの人がどのような反応を示すのか不安で眠れなかった。
だが、神社の跡地を目前とする人々の反応は今まで通り見向きもしないといった冷たいものだった。誰もが神社が無くなったことに気付いていなかった。
不安になった私が母親に軽く尋ねると返って来た答えは「何言っているの?彼処は前々から空き地だったじゃない」というものだった。
誰もが神社のことを覚えていなかった。それどころか、初めから空き地であったと人々は認識している。
あり得ない出来事に私は暫くの間混乱していた。自分の見たモノが、記憶が、信じられなくなった。
だが、携帯に付けられた金色に光る鈴が今までの記憶を正しいものと断定させていた。
あの神社はいつ建てられたのだろうか?
少女は一体何者だったのだろうか?
鈴は何のために存在しているのだろうか?
何も理解出来るものなんて無かった。
でも一つだけ、自信を持って言える。
私はこの事を、あの少女を忘れない――