ゲームスタート
昼下がり、森朱音はリビングのリクライニングチェアで楽な体勢をとった。大きな、黒いサングラス形をした機器を装着する。
イヤーカバーも下ろして電源を入れるや、VR眼鏡はごく微かな機械音を発した。暗い視界に仄白い起動メッセージ。次いで、脳波やら脈拍やらの数値と“OK”の文字が並ぶ。
選択できるソフトの一覧が表示された。
一番下に見つけた『SeiShun.β』を意識する。
視界が一転、爽やかな空色に満ちた。
遠く波音が聞こえてくる。
目の前に〝青春Playing 〟とメタリックブルーで彩られたタイトルが現れた。
十数分後、朱音は諸々の設定を大急ぎで済ませ、仮想〝学園都市 桜〟に降り立つ。
ゲームスタート地点は、都市中心部に在る公会堂内だと聞いていた。
現実での六時間で、ゲーム内の一日が経過すると言う。
プレイヤー〝アカネ〟が初めて公会堂に姿を現した時、堂内は自然な明るさだった。現実とのズレがそれほど無かったようで何よりだ。
視線を巡らせると、他にもこのゲームを始めたばかりらしい十数人の姿がある。みんな十六歳の身体で、制服姿だ。セーラーの子が二人ばかり居る。他は一様にブレザー。
アカネ同様に辺りを見ている人も居れば、システムウインドウを開いているのか、虚空を凝視しつつ指先を彷徨わせている人も居る。
アカネも、ドアをノックするように三度空中を叩いてみた。半透明状のディスプレイが現れる。
右隅に、現実の日時とゲーム内の時刻が出ていた。ズレていないかと思ったら、只今、半休なる日の、朝の時間帯らしい。白いメーターバーが表示されている。
このゲームは学校で過ごす事がメインだそうで、朝と夜は一時間しかない。朝は残り十五分を切っていた。
なんとはなしに急いた気分になってしまい、ディスプレイ上に幾つかあるアイコンを開かないままウインドウを閉じる。
(祖母ちゃん、大丈夫かな)
プレイヤー以外にはがらんどうの公会堂で、アカネは軽く口をすぼめる。
世の技術進歩は日々目覚ましいけれど、元は良い所のお嬢様だったらしい祖母は、育ちの所為なのか何なのか、こういう手合いにとんと疎い。
祖母は朱音より少し早くに、寝室の布団の上でVR眼鏡をかけた。扱い方を世話したのは朱音だ。
しかし、教えたとおりにソフトをちゃんと見つけられるか。見つけられたとして、プレイヤーネームの入力から始まって、どのエリアの学校に通うか、全身のパーツを何処か変えるかといった細かな質問や設定作業に、どれぐらい時間がかかるだろうか。
祖母には悪いが、付き合うのが面倒くさい。
そもそも朱音は現実でも十五歳。せっかくの仮想空間だというのに、カッコイイ剣や魔法を駆使するでもなく、ただ学校に通うゲームなど、何が楽しいのかさっぱりである。例えクローズドβテストで無料としても、遊ぶ意欲は限りなく低かった。
元々、テスターをしないかと持ちかけられたのは祖父。開発に関わった大学の教授と、古い知り合いだそうだ。
ゲームが大好きな祖父は二つ返事で引き受けて、せっかくだから一緒にやろうと祖母を誘った。
その際、色々教えるからと請け負った祖父の言い方が、祖母は気に入らなかったらしい。
『世間知らずの婆さんが一人で仮想空間をふらふらするなんて、他のユーザーの迷惑になるだろうからな』
実に爽やかに言い切ったそうだ。
『じゃ、おとーさんも迷惑だろうから、朱音ちゃんに教えてもらう』
祖母がそう言い返した結果、二人はちょっとした冷戦状態に突入。祖父母宅で養われている朱音は、すべからく巻き込まれることが決定したのだった。
全年齢対象ゲームで、先方から拒まれることも無く、森家の三人は正式にテスターとなった。テスト期間は六月頭から十一月末までの半年間。日本だけでなく海外からも含め、総勢五万人強が参加すると言う。ソフトが送られてきた昨日から、祖父は早々に一人で遊び始めていた。
(テスト最終日まで遊ぶ人なんて居るのかねぇ)
公会堂の壁際に寄って、アカネは退屈から出る欠伸を噛み殺す。
他のプレイヤーに意識を向けると、名前だけは判るようになっていた。
頭の上に薄い青色で浮かんでいるソレは、名前らしい名前もあれば食べ物や動物の名称、意味不明の英数字もあり、【あああああ】なる適当感いっぱいのモノもあった。
本名以外の可愛い名前をつければ良かったなと、ちらりとよぎる。祖母より先に済ませなければという意識が強くて、〝アカネ〟は名前以外も殆ど現実の朱音と変わりない。
あーあ、と再び欠伸が出た時、公会堂に又一人、新規プレイヤーが姿を現した。
女の子だ。肩に届く黒髪は真っ直ぐ艶々。色白で、痩せぎすでも太過ぎでもない、ふんわりした身体つき。周りの大多数と同じく臙脂色のブレザーに白いブラウス、首元にはモスグリーンの短いリボンタイ。黒地にベージュでチェック柄の入った、膝丈のプリーツスカート。靴下も臙脂色で、靴は焦げ茶のローファーだ。
(おー、可愛い。素なのかなぁ。それとも弄ったのかなぁ)
名前を決めた後に現れたメイキング画面では、スキャンされた現実の身体から、予想される十六歳の姿が初期画像として出てきた。朱音の場合は、予想する必要の無い姿だったが。
この時点で、無料で一箇所だけ好みに変えられると案内があった。有料だと料金をかけた分だけ変えられる。
今回のテストでは、本来一万円支払って得られる、Rコインという通貨が予め一万コインチャージされていた。
だからか、公会堂に居る面々は、小綺麗な見た目の人が多い。何処かしら弄っている可能性が高そうだ。
因みに急いでいたものの、アカネも無料枠でほんの少し変えた。身長を高めに。
そんなアカネと、現れたばかりの美少女は大体同じ背丈だった。見つめると、頭上に【ワカ】と出る。
思わず二度見した。
「ばっ……!?」
声をあげてしまって、アカネは慌てて口を手で覆う。
円らな目を向けてきたワカが、ふわりと口元をほころばせた。
「アカネちゃん、ごめんね、お待たせ」
嬉しそうな笑顔で小走りにやって来る。
どうやら間違いなく、中の人は七十一歳の祖母、森わかのようだった。
アカネとワカが桜公会堂から外へ出た時には〝昼Ⅰ〟という時間帯になっていた。
通うことになる桜高校では多分、もう授業が始まっている。
急いで学校に行ってみた方がいいのか。チュートリアルの類が始まる気配も無いので、外へ出てみたものの二人はすぐ立ち止まる。
ワカが、やや若返った声で楽しそうに言った。
「菅原さんの話だと、そんなに真面目に通わなくてもいいみたいだよ」
「みんな都合のいい時にログインするわけだしね」
「ただ、ゲームでの平日? 昼に長いこと町中をうろうろするのはお勧めしないですねぇ、って言ってたなぁ」
「補導でもされるって?」
冗談で言ったのに、かなぁ、とワカは真顔で心配そうな声を出す。
菅原というのは、件の開発に関わった教授だ。これはゲームなわけで、もしかすると、できれば避けたいようなイベントでも起きるのかもしれない。
そういえば、とワカが口を曲げた。
「おとーさんが昨夜、わかは先ずRコインで家を買え、って偉そうに言ってた」
「ふぅん?」
アカネはシステムウインドウを開く。ショップアイコンを選択すると、売っていた。〝自宅〟という名称で二千Rコイン。何処との比較か判らないが、押し入れとクローゼットが大きいとの解説がある。
「買わなきゃ金輪際ゴミ出しに行ってやらんとか言ってんの。脅したつもりかね」
むすっとした顔で続けたワカに、アカネは口早に言った。
「わたし、代わりに行くのなんてヤだからね。こんぐらい、言うこと聞いてあげなよ」
「えー」
ぼやくワカに、システムウインドウの開き方から教えて家を購入してもらう。
ワカのRコインは、なんと手つかずのようだった。
(古希過ぎにしては、笑い皺の可愛い祖母ちゃんだと思っていたけど……)
若かりし頃はこうでしたと知らしめる姿で、ワカは小首を傾げた。黒髪が綺麗に揺れる。
「鍵がアイテムに送られましたって出てきた」
「あぁ、ショップを閉じて。アイテムって書いてある絵をつついてみて」
自分のアイテム欄も開いて、アカネは見ながら説明する。
桝目状の欄には、四つの代物があった。千V。銀色の鍵。掌サイズで桜色のICカードみたいな物。ホイッスル。
Vマネーはゲーム内通貨だ。物価が判らないので、千という数値は多いのか少ないのか謎である。
カードに触れてみると、生徒証だった。
ホイッスルには【撃退笛 使うと消える】と書いてある。
何だこりゃ、と思う横で、おぉー、とワカが声をあげた。
「あるよ、金の鍵」
「銀じゃなく?」
アカネは自分の所にある鍵に触れてみた。
【寮の自室の鍵 取り出してノックすれば寮へ行ける】
「あぁ、家を買わない人は寮住まいなんだ」
「え、アカネちゃん、一緒に住まないの」
「……ゲームでまで一緒に住むことないし。わたしは寮でいいよ」
はたからだと虚空に手を突き出したようにしか見えないだろう仕種で、アカネは鍵を掴んだ。手を引けば、実体化した鍵が重みを伴って手の内にある。
宙を鍵先で三度叩いてみると、視界に赤い矢印が出現して一方を示した。
「自分の鍵でやってみて。矢印が出てくる。同じ方角じゃなきゃ、先に祖母ちゃんの家に行こう」
何か祖父への文句を言いたそうだったが、ワカは見様見真似の手つきで金色の鍵を取り出した。
こっち、と同じ道の先を示す。
殺風景なフローリング空間だった公会堂と違い、外は夏へ向かう装いに満ちていた。仮想空間だと忘れてしまいそうな、手の込んだグラフィック。
青い空。緑の濃い木々を挟んで、車道と歩道。所々に、矢印型で看板が立っている。図書館や駅、ショッピングモールなんてモノも在るようだ。
車道はあれど、流石に車の姿は見かけない。通行人も、いささか不審な様子できょろきょろしている制服姿――プレイヤー以外は居ないようだ。
公会堂が在った広場を抜け、外縁を五分ばかり歩いたら、十字路に出た。二人の足を向けた先が左右に分かれる。
アカネは自分の鍵をピンと弾き、誘導をキャンセルした。そのままワカについて行くと、整地したてと言わんばかりの宅地に、ぽつぽつ何軒かの二階家が見えてくる。洒落た感じだが、どの家もデザインは同じで、大きくはない。二Kか一LDKだろうか。
まばらな家の隙間からは四角い建物も窺えた。いかにも学校という佇まいだ。
アレが桜高校かなと眺めている間に、ワカが立ち止まった。
宅地の中程に建った一軒を見上げ、ここみたい、と告げてくる。アカネは無難なコメントをした。
「いいんじゃない? 学校も近そうだし」
「お茶でも淹れようかね」
呑気な口ぶりでワカは言うと、腰丈の黒い門を開け、玄関にカギを差す。
ワカがドアを開けると、新しい家らしき匂いがした。アカネが続いて入ろうとしたら、ぽうん、と柔らかい何かに遮られる。見えないけれど、壁がある。
「祖母ちゃん、わたし、入れないっぽい」
「えっ」
「ちょっとヘルプ見てみる。祖母ちゃんはお茶淹れてて」
アカネがそう言ったものの、ワカは玄関口でおろおろしていた。いいから行っててと重ねるのも面倒で、アカネはそのままシステムウインドウからヘルプのアイコンを開く。
Q&A項目が非常に少ない。β版だからなのか、そういう方針なのかは判らない。アカネは、説明の少ないゲームが割と好みだから、この状況がほんのちょっと楽しくなってきた。
今回は、更にアカネをわくわくさせる前に、解決法が見つかった。
【Q 友達の家に入れません
A 寮の自室や家のドア外に生徒証をかざす場所があります。ドア内には認可ボタンがあります】
ヘルプからアイテム欄に切り替えたアカネは、生徒証を取り出した。ワカに扉を半分閉めてもらって、ドアスコープにカードを寄せてみる。
「祖母ちゃん、そっち側に認可ボタンって無い?」
「――あっ、ある――ごめんね、アカネちゃん、気づかなかったよ、光ってるよぉ」
「それ押したら、わたしも入れると思う」
「押したっ」
そろりと足先を出すと、今度は透明の壁に阻まれなかった。
(やけにセキュリティ高いのは、アイテム庫があるからか?)
良かったぁ、良かったぁ、と繰り返すワカに、アカネは苦笑いしつつ家にあがった。