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ニルヴァーナへの逆流

作者: 高野 真

ニルヴァーナ【nirvaṇa】

(サンスクリット語/仏教用語)涅槃。悟りの境地。

逆流【ぎゃくる】

(仏教用語)輪廻に逆らい悟りへと向かうこと。


 マルーン色の電車を降りて、地上に出るとそこは多面体世界であった。

 新秩序の建設を声高らかに宣言すべく、四条河原町の交差点の真ん中に脚立を置いて彼は立つ。

 狐の面を被った男の群れと、狸の尾を生やした女の群れがスクランブルを去来する。

 一角にそびえる花崗岩の墓碑には何千何万の亡者がその表面で蠢き、斜向かいなる軒高五十尺のシルバニアハウスには電光掲示板が取り付けられ、毎秒百万両ずつ増えていくこの国の国債残高を表示している。

 首に数珠掛け歩くは願人坊主、御符播くが如く辺りに散らすは一万両札、それらは瞬く間に舞い上がり、列をなして御池通へ向かって飛んでいく。

 陰湿なコンクリート造の廟堂の奥に白装束着て鎮座する老人があうあうと印を結べば、たちまちその懐へと吸い込まれていく仕様になっているのだ。

 けれども善良なる一般人民の皮をかぶりし餓鬼どもにはそれがわからぬ、鴻毛の如く風に乗る札を追い、坊主の打ち鳴らしたる団扇太鼓に合わせて右往左往する。


 見るに見かねた彼の説いて曰く、

「汝人民、幻惑さるることなかれ、万物は流転し、五蘊はみな空である。目先のカネに踊らされ己を見失うことまかりならん」。

 声を張り上げ腕を振り上げ叫んでみるが、路傍に群がる蝿がごとき連中はいっこう聞く耳を持たぬ。

 ほんならおどれは銭要らんのか、哀れ脚立は引き倒され、思わず地に伏したる彼は足蹴にされ、ずた袋は毟り取られて中に仕舞っていたわずかばかりの路銀をも奪われた。

 全身に杭打つような痛みがずんずんと押し寄せ、視界にはただ人々の足袋の色のみが万華鏡の如くちかちかと映るのみである。


 この街の人民はみな、外出時には足袋を履くことを定められている。そして出生階級によってその色が定められているのだ。

 階級は固定され、足袋の色とともに子子孫孫引き継がれていく。

 最上級層の白足袋族にも、党員である朱足袋族にもなれぬ一般人民は、全ての人間を平等に不公平に扱うことこそ競争と利益の源なれという党の教えを盲信し、紺染めの足袋を履いて日々働き、カネを稼ぎ、それを消費し経済を循環させ、もしくは納税し白足袋や朱足袋の老後を支えるために生かされているのである。

 そして先刻の願人坊主の札播きは、実は党が主導している国家安康人民豊楽事業の一種であり、いわば紺足袋を手なづけるべくに与えられた娯楽なのだ。

 一般人民の心の平穏は、渋染めの足袋しか履けぬ不可触民よりは恵まれているというささやかな矜持と、札播きで得られる射幸心にのみ支えられているのであった。

 しかし彼らは知らぬ。

 不可触民は賤職を一手に担い、白足袋を履いた人民芸能や国定宗教のお師匠さん方、そして大店の旦那方に取り入り、また党の汚れ仕事を行うことであらゆる利権に一枚噛んで被差別利得とでも呼ぶべきカネを巻き上げているのだ。

 結局上下両方から挟まれてひとりきりきり舞いするは一般人民である。

 彼にはそれが辛抱ならなかった。

 組織に入りしは大学在学中であったが、電磁烏を使役せる秘匿街宣活動に始まり、自走鼠による伝単配布も行った。革命を信じ、自分の親恋人の家にまでも盗聴兎を仕掛けた。

 しかし機械牛を用いたる破壊工作への連座が発覚した際に逮捕され、大学は退学処分、さらに党員候補資格を失った彼は、白足袋族の内通者に匿われいまは寺の雑役夫として日々を過ごしているのだ。


 きんきんと甲高い警告音を発して、首から下げてある人民善導装置のランプが点灯した。

 瞋・癡・疑の各項目が規定値を超過している。非常に由々しき事態であると言えた。

 全人民は手のひらほどの大きさの、この人民善導装置を装着することが義務づけられている。

 後頭部からうにうにと延びる被覆線は、新生児庁が管轄する全産院で手術によって埋め込まれたものだ。

 装置はそこから脳波を測定し、常に全人民の六つの煩悩―貪・瞋・癡・慢・疑・悪見―を記録している。

 そして煩悩が一定値を超えると警報が作動し、人民は速やかに市の指定による公共涅槃処へ行かねばならぬ。

 そこで自らの煩悩を昇華させる旨がストレス解消法なる法律に定められており、人前で警告音を鳴らし続けることは何よりも恥ずべきこととされているのであった。

 検索豚の尻を叩きて調べた結果によれば亰都市庁舎の涅槃処が最寄であり、人に排便音を聴かれるが如く羞恥を感じつつ、彼は雑踏の中を歩きだした。


 極月の亰都の街はどこも騒がしい。

 歩道を覆う屋根からは七色の吹き流しがくらげの触手の如くいくつも垂れ下がり、人民はスクラムを組みらっせらっせと声あげて商店街を練り歩く。

 彼は(物乞いし居るは還俗学生)道行く人々を避けつつ(きいきい嘶く自働自転車)市庁舎を目指して黙々と(電気犬は三つ首振りて吠え立てる)。

 (六足猫は冥途の飛脚)いつまでも鳴りやまぬ(灌頂工場労働者は断頭デモを行える也)善導装置が恥ずかしく(装飾蜘蛛からは犍陀多の糸)、早く涅槃処へ行きたいのであるが(曼荼羅運転手は霊柩車に花嫁乗せる)思うように進まぬ。

 肩をぶつけ(円を描いて遊弋せるは組織の電磁烏)足を踏まれ(前衛教誨師は磔刑イヱスを鞭打つ屍)、煩悩野郎と小突かれながら(ヘルペス患う路上独鈷販売者)足を進め居るうちに、一天俄かに掻き曇り、どんどろどろどろ法楽太鼓の如く雷鳴が轟いた。

 彼が想起せるは国立戒壇にて行われし元服発心大回向での太鼓奉納であったが、なるほど百八人が力を一にし打ち鳴らしたるその音によく似て居る。

 しかし次に彼が目にしたるは雨や雪などではなかった。

 真っ赤に灼けた石つぶて、赤子の首ほどのそれが、血潮を噴きつつ降り注ぐ。

 牛頭馬頭獄卒牽きたる火車の如く、火焔を吐いてがらがらと、窓を割る、屋根を割る、逃げ行く人の頭を割る。


 組織の一斉攻勢が始まったのだ! 彼は快哉を上げた。

 しかし熱い吐息を吹きかけつ耳元を掠めしそれが前を行く男にぶち当たり、笠載る台は砕け灰白色の霧を辺りに散らし、緋色の間欠泉が上がるに及んでにわかにその顔色を変えたのであった。

 この期に及んでは最早金剛主義者も真言主義者も関係なく、どぶ板通りの鼠よろしく路地から路地へと右往左往するのみである。

 彼は追われるようにして公共阿字観安定所の角を曲がった。

 左手の稲荷社が唸りをあげてマントラを発し、幕末の異人マ=リョウ=トカモサの像が皮膚を爛れさせつつ辺りを徘徊する頃、違法涅槃処が雑居する楼閣の背後からぬうっと顔を出したるは仏像型汎用決戦兵器蓮華王院式千手観音(改)であった。

 双肩に設けられた点検ハッチより垂れ幕のたなびけるは、組織による奪取作戦が到々成功した証左であろう。曰く、目醒めよ我が同胞暁来たれり、曰く、今こそ掲げめ勝利の御旗。

 労働者の手によると思しき角ばった文字は武骨なれど力強さがあった。

 彼は思わずこぶしを振り上げ叫んだ。

 そうだ行け、階級的怒りを込めた正義の鉄槌を下すのだ。

 十一面の顔をがらがらと廻して表情を変え、風切り音とともに四十二臂をしならせるその姿は、まさに彼が賭した全身全霊そのものの具現化であった。

 これを見んがために、カネに踊りゼニに舞う者どもの阿鼻叫喚のために全てを擲ったのである。

 友人も恋人も親兄弟もみな失った彼には怖いものなどなかった。

 否、むしろ仏像型汎用決戦兵器蓮華王院式千手観音(改)の登場によって、あらゆるものを超越した霊力を得たかの如き感覚にとらわれて居るのである。

 彼は道に転がる願人坊主の死体を踏み越え、白足袋族に灯油をぶっかけまさに火を点さんとする連中に声援を送り、高瀬川の流れに尻を突出し糞を垂れ、観光客扮する似非舞妓を嬲り殺し、立ち並ぶ置屋の硝子戸を蹴破り土足で押し入り、フジツボのような電極を生やせし陰茎を堂々と剥き出しにしたまま、隆々と勃起せるそれを勢いに任せ障子に突き立てた。


 その刹那、彼の肉体を電気ショックが如く快感が支配した。

 悲鳴をあげる人民善導装置の針は振り切れ、後頭部と陰茎からは煙が上がる。

 悦楽の総和は魂魄の真如を示し、肉体を構成せる数列はその極限値へと収束し居る。

 もはや彼に波羅蜜多の行は不要であった。

 煩悩を乗り越え、物心両面あらゆる呪縛を引きちぎりたる彼の目前には、波打つニルヴァーナの河が横たわるのみである。

 そこには、みすぼらしき乞食の姿も恥知らずに睦み合う男女の姿もなかった。

 ただただ、己が力に呑み込まれ生きながらに腹わたより腐敗せる白足袋族、黄金色の糞を相争い手掴みで貪り食う朱足袋族、奴隷根性が骨の髄まで浸み込める紺足袋族、彼が忌み嫌いし連中の死体が幾重にも折り重なり漣の如く揺らめいて居るばかりである。


 踊躍歓喜の渦の中で彼は最終解脱を遂げた。


 彼も渡れり吾も亦なり

 悟りの彼岸へ辿り着ける

 心願是れ皆な成就せる




(平成26年2月24日脱稿)

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― 新着の感想 ―
[一言] 難しい…ような、でも伝わります。 というより、普通にエンターテイメント性が高いです。 面白かったです。
2014/02/24 22:10 退会済み
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