第二幕。魔女、ハル
狼の遠吠えが小さくなっていくのを聞きながら、私はほっと胸をなでおろした。
これで、あの子は大丈夫だろう。ロッキンツォンならすぐに事情を察してイングリットを匿ってくれるはずだ。
まだ、あの子が自分の秘密に気がつくのには時期が早すぎる。選択肢が一つしかなくても、あの子にはちゃんと、自分の意思で歩むべき道を選んで欲しいから。
でも、彼女がどういう選択肢をとるかはわかっている。彼女は私と全く同じ道を歩んでいくべきだ。
私は軽く溜息をつくと、森の一方を睨みつける。
「今回はまた、ずいぶんと地味な登場ですね、殿下」
私が皮肉を言うと、木々の間から私と同い年の男が現れた。
「まあ、今日は先客がいたようだし、少々羽目をはずしすぎると兄上のように『森の魔女のいる半径二千歩以内に立ち入り禁止』の刑を食らってしまうからね。愛のキューピットにちなんで、僕の愛情がたっぷりこもった矢を放たせてもらったよ」
私は呆れて目を細めつつ、彼から目を逸らした。
目を逸らした理由は明快だ。
愛のキューピットにちなんでいるという彼は、愛のキューピットにちなんでいるという言葉のとおりに、なんとも変態的な格好をしていたからだ。
正確に言うと、一糸まとわぬ姿に羽根姿。
それこそ、愛の使者たるキューピットを冒涜している。
「ごめんなさい」
とりあえず、私は目を逸らしたまま彼に謝る事にした。
「私はこれでも世界一の薬師のつもりだけど、あなたの思考回路は人類のそれとはあまりのもかけ離れていて、私でも治療は不可能だわ」
本当は意地でも治療してあげたいのだが。
あなたのためではなく、私のために。
イングリットを逃がしておいてよかった。森の魔女がこんな変態と知り合いだと知れたら、それこそ森の魔女に関する頓珍漢な噂を流されかねない。
曰く、人里はなれた森の中で暮らす世間知らずの魔女は、裸で往来を歩くような男が好みらしい、とか。
「・・・・・・・・・・・・」
私は弱弱しく頭を垂れた。
嫌だ・・・・・・
そんな噂を流された日には、魔女の沽券にかかわる。
サンバを踊りながら薬を調合する先代の魔女を見るときのような好奇の視線が、今度は私に向けられる事になるんだろうか?
確かに魔女には変わり者も多い。社会と隔絶された環境で暮らしているせいか、先代の魔女を初めとしてサンバだったりゴスロリだったり刻の声だったり、頭を抱えたくなるような微妙な性癖を持つ傾向が、たしかに、代々の魔女には、ある。
でも、そこに「ヌード趣味」なんていう破廉恥な性癖は、付け加えたくない。年頃の女の子として。
とりあえず、そのためには目の前の男を闇に葬らなくてはいけない。
私は固い決意をこめて、ぐっと手を握り締めた。
幸いな事に私はこの男を私の前から消し去るステキな呪文を知っている。
ただ、これは本来最終手段だ。
あまりに効果絶大すぎるので、普段は使わない事にしている。
「殿下、公務はどうなされましたか?」
しかし、彼は既にこの呪文に対する防衛呪文を会得していた。
「ふふん」
と、まるで鼻歌を歌うようにしながら彼が背中の羽根から取り出したのは一枚のスマギク紙。
それをこちらに向かって差し出しているところを見ると、受け取れという事なのだろう。
私は目をそっぽに向けたまま慎重にじりじりと彼に近づいて行く。
彼の体温で微妙に生暖かくなったその用紙には、ライヒビ王国の宰相の印が押してある。保管に適したスマギク紙を使う事といい、どうやら正式な公文書のようだ。
「『大陸暦1006年海老月六日。本日、怠惰でずぼらで怠け者のライヒビ王室第七十七代国王が三男、イーマ・ライヒビ王子殿下が先一ヶ月分の書類公務を全て一日で片付けてしまうという、世界の終末が目前に迫っているとしか思えないような奇行に走ったため、非常に、とても、むちゃくちゃ遺憾ながら閣下の魔女の館で休暇をとりたいというワガママを阻止する事ができず、ちゃんと仕事が出来るならサボろうとせずにいつもまじめにやれよ糞王子とか思いながらもここに王子が二週間の休暇を取ることを認めます』と書いてありますね」
一度音読した後、私は、目をこすってから何度も見直したが、本来あるはずのない目の前の手紙が消える事は無く、ついでに視界の隅の変態男も消えてくれちゃったりはしなかった。
公文書偽装の可能性もまじめに考えてみたが、平民出身の宰相閣下独特の乱雑な言葉遣いは紛うこともない本物だった。
「殿下、お付の方々はどうしました?護衛もなしでは危ないでしょう」
「お、魔女殿が私の心配をしてくれるか!?」
いや、むしろあなたみたいなアブナイ奴が野放しになっている事のほうが私は心配だ。
こんなのが一応王子だと他の国に知れたらこの国の品位を疑われてしまう。
「宰相たちはな、うん、いろいろとうるさいから何とか振り切ってきた。まあ、いざとなったら魔女殿が守ってくれるだろうから、護衛などいらないさ」
すっかり当てにされていた。
こういうとき、普通は男性が女性を守るものではないだろうか?
私は彼が私を守ってくれているところを想像してみた。
想像開始。
想像終了。
死んでもそのような事態は避けなければいけないと心に誓った。
「さて、魔女殿。まだ他に言いたい事はあるか?」
どうだとばかりに腰に手を当てて胸を張る彼。
「・・・・・・とりあえず服を着てください、殿下」
「は?」
「『は?』じゃありません!大体今が何月だと思ってるんですか?見ているこっちが寒くなります!?」
「ああ、そういうことか。大丈夫だ。これくらいなんとも無い。例え世界が氷で閉ざされたとしても、この魂は魔女殿の愛で暖かく包まれている!」
私はツララのようなまなざしで彼を見た。
見てしまってからあわてて、目を逸らした。
汚れる汚れる。
「・・・・・・とりあえず、お引取りください、殿下。私の館には今、重病患者が保護されているんです」
「ふふふ、魔女殿はシャイだな。私と目を合わせることすらも気恥ずかしいと感じるか。・・・・ああ、それと、重病患者というのは先ほど魔女殿と一緒にいた女の子の事か?いつの間にいなくなってしまったようだが」
「いたいけな少女があなたの毒牙にかけられる事の無いよう、避難させたんです」
ふんっ。と、彼がむくれたように腕を組む。
そして、ふいにまじめな顔になった。
やや間があって、彼が口を開く。
「―――あの娘、よもやイングリットという名前ではなかろうな?」
空気が、止まった。
違うと即答したかったけれど、口が動かなかった。
「先月、イタカの村が腐死病に滅ぼされた」
「・・・・・・・・・・・・」
「秋の刈り入れの時期だったのが幸いしてな、王都から麦の買い付けに行った商人たちによってすぐに腐死病の蔓延が確認、対処されたが、一人だけ、イタカの村に籍を置くもので死体が確認できなかったものがいる」
腐死病に対する対処、というのは村中に油をまいて焼き払ってしまう事だ。例え生存者がいたとしても、ぐるりと村を取り囲む兵士達によって皆殺しにされる。村は、文字通り灰になる。
今のところ、それが腐死病に対抗する最も有効的な手段といわれている。
まだ幼いイングリットは、そこらへんのことは知らないようだったが。
「私はイタカの村を焼き払うときに、現場責任者をやらされた」
私は思わず、はっと息を呑む。
彼の言っているのは、それくらいの言葉だった。
「今でも、彼らの苦しむ声が頭の中で響いている」
彼の格好はともかく、彼の言葉は恐ろしくはっきりと森の中に澄み渡った。
「なあ、魔女殿。実のところ、どうなのだ?腐死病は絶対に対処が出来ない病気なのか?王都からここまで大人の足で五日。イタカの村のほうが多少距離が近いとはいえ、あの歳の少女が一人で旅をするとなると、二週間はかかるだろう。それなのになぜ、あの少女は死んでいないのだ?腐死病に対して先天的に免疫を持っている人間というのがいるのか?」
矢継ぎ早に質問してくる彼。
それは、微かに見出した可能性に何とかしてしがみつこうとしているようにも感じられた。
けれど、その質問に対する答えは、否だった。
「潜伏期間、って知ってる?」
私の問いに一瞬、呆けた顔をする彼。
「医療用語で、感染から発病までの期間の事だろ?その間に病原菌は人間の体内環境に適応したり、増殖をしたりする。潜伏期間中に病気が発見できるかどうかが生死にかかわるような事もあるそうだが、腐死病に関しては潜伏期間なんてものは無いはずだぞ・・・・・・いや、まて、あるのか?腐死病にも潜伏期間が・・・・・・・・・まさか、あの娘がそうなのか?」
相変わらず、聡い。
人は見かけによらないとは、よく言ったものだ。
「正確に言えば、潜伏期間というわけではないけれどもね。腐死病は数日のうちに生物を死に至らしめてしまう恐ろしい病気だけれど、逆に言えば感染者がすぐに死んでしまう分、感染範囲はあまり広がらないのよ。だから大抵、感染エリアにおいて一人ぐらいは感染から発病までに一定の期間がおかれるの。その間にその人が行動して、感染エリアが広がっていくのよ」
私は、彼が理解できないだろうと半ば確信しながら言った。病原菌の特徴と呼ぶにはこれはあまりにも異常すぎるし、私の乏しい語彙力では簡潔に説明する事はできない。
彼はしばらく考えるように腕を組んでいたが、やがてぽんと手を打ち鳴らした。
「つまりはこういうことか。人に感染して繁殖する腐死病は、人がいなくなってしまっては繁殖が出来ない。だから人の命を奪うだけ奪いつくした後、他の街に移動して新しい獲物を獲るために、最低でも一人は生かしておくのだな」
「・・・・・・なんでなのかしら、私がそれを理解するのに何日もかかったという事は別にして、少なくともすっぽんぽんのあなたにだけは理解されたくなかったわ」
別に彼に悪意があるわけではないのだが、侮辱された気がした。
屋外全裸破廉恥男よりも自分の頭脳のほうが劣っているといわれた気がして。
「では、改めて聞く。腐死病に対抗する手段は、本当にペッタラしかないのだな?」
ペッタラというのは、イングリットが結局買うのをあきらめた蒼人参の隠語だ。
ベッタラの実は春先にしかならず、大抵腐死病が蔓延するのは秋だ。それに、ベッタラの生殖数はあまりにも少なく、ベッタラが腐死病に有効だと他の薬師たちが知ったら、我先にと乱獲してすぐに絶滅してしまうだろう。
森の魔女が腐死病に効く薬の作り方を公開しないのは、薬の利益を独占したいからだと薬師の間でひそかに囁かれているのは知っている。でも、腐死病に対する唯一の対抗手段を失ってしまっては、今度こそ手詰まりになってしまう。
「その通りよ。腐死病を直す手段は、ベッタラしかない。腐死病の蔓延を防ぐ手段は、焼却処理しかない。死期を延ばす手段は、・・・・・・まあ、いくつかあるけどね」
「・・・・・・そうか。いや、詮無い事を聞いた。結局、人間にとって腐死病は抗えぬ天災なのか・・・・・・・・・って、マテ」
口で言うのと同時に、手でも待てといってくる彼。
「腐死病の死期を延ばす手段なんてものが、あるのか?」
「あるわよ。一番単純なのは、体の、腐死病に感染した部分を焼くなり切るなりする方法。あとは新陳代謝を薬によって低下させる方法や首から下を水中に沈めて生活するという方法も場合によっては有効よ」
驚きとも、喜びともつかない表情をする彼。だがすぐに、警戒のそれへと変わった。
「では、なぜ魔女殿はそのやり方を実行しない?」
ほらやっぱり。
彼が一筋縄でいかないのは、こういう所だ。
「よっぽど初期症状で無いと通用しないというだけの話よ。後は、イングリットのように潜伏期間中の患者の場合でないとね」
仕方が無いので、わたしは正直に答える。
「・・・・・・ふうむ。まあ、魔女殿のことだから害意あってのことではないと思うが・・・・・・・・・」
彼は、まだ納得がいかないのか眉をしかめていたが、渋々ながらも引き下がってくれた。
「まあ、それはそうとして・・・・・・ここは、ちと寒くないか?」
今更思い出したように言う彼に、今更思い出したように私は目を逸らした。
「ですから、服を着てください、殿下。まさか服を持っていないということは無いのでしょう」
もっていない可能性も充分あったが、幸いにして、彼はこくりと頷いた。
彼がいそいそとはおった服を見て私は大きく溜息をつく。とりあえず、裸に黒マントという趣味が私にないことだけは、弁解しておこう。