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開幕。少女、イングリット

 「・・・・・・くちゅん」


なんとも情けないくしゃみであたしは目を覚ました。

そしてすぐ、目と鼻の先に黒い見たこともない生き物がいるのに気がついた。

 その生き物はすんすんとあたしのにおいをかいでいる。一見小さくて愛らしいようにも見えるが、おなかをぎゅるるると鳴らしながら涎をたらしているところを見ると、明らかにあたしを食料として認識しているようだ。

雨はやんでいるようだったが、服が濡れているせいで寒い。周囲の明るさから見るに時刻は一回りして昼なのだろうが木々が光をさえぎるために太陽がどの辺りにあるのかおおよその目星しかつかない。

身体は―――動かない。

恐らく寝たせいで気が緩んだのだろう。寝る前に感じた燃え滾る炎のような気力は微塵も感じられず、捕食されようとしているこの瞬間ですらも倦怠感が身を包んでいる。

てか、のんきに状況観察している場合じゃない!

誰か、誰でもいいから助けて!?

・・・・・・あ、でもやっぱり助けてくれるなら白馬に乗った美形の王子様のほうがいいな。

それで「姫、御無事でしたか?」なんて訊きながら手の甲にキスしてくれるの。

なんてバッチグーなアイディアなのかしら。

じゃあこういいなおすべきね。


「美形でやさしい白馬に乗った王子様なら誰でもいいから来てー」


・・・・・・あ、まだ叫ぶだけの体力はあったんだ。

あ。

黒い動物が、あたしの悲鳴に驚いて口を空けた状態で固まった。

そこで、待ちに待った助けの声が聞こえた。


「アサさんダメよ。それは食べ物じゃないんだから」


残念ながら女性の声らしい。

・・・・・・しょんぼり。

あたしは助けが現れたことに安堵しながらも心のどこかで落胆した。


「そんなものを食べたらおなかを壊すわ」


そんなもの呼ばわり。

もうちょっと、なんか、まともな言い方はないのだろうか。

助けられておいて言うのもなんだが、そんなものといわれて気持ちいいはずがない。


「味見も駄目」


それでもそろそろと舌を伸ばそうとしていたアサという黒い生き物にその声はぴしゃりといった。

あわてて舌を引っ込めつつも恨めしそうな顔であたしを見下ろすアサ。

そのつぶらな瞳が何よりも明確にアサの心境を語っていた。


(あたちのごはん・・・・・・)


という声が今にも聞こえてきそうだ。

声の方向に少しだけ体を動かすと、サンダルを履いた白い足が目に入った。雨で地面はぬかるんでどろどろになっているはずなのにその足はなぜか少しの泥もついていないまっさらなものだった。


「えっと、確か初対面の人には自己紹介をするのよね」


その声は言う。

うん、まあ、確かに初対面の相手には自己紹介をするのが普通だが瀕死とも言える状態の人間を前に自己紹介をするような空気が読めない非常識な人はいないんじゃないかな。


「私の名前はハルよ」


・・・・・・いないんじゃないかな!


「趣味は日光浴。職業は魔女だけれど、副業として薬師もやっているわ。時々非常識だって言われたりするけれど、私的には非常に常識的な人間のつもりよ」


ちゃっかり自己紹介しやがった。

こやつ、本当に今の状況を理解していない。

空気読めっつーの。


「ところであなた、一体こんな森の中で何をしているの?」


死にかかってます。


「それと、これは善意からいうけれど、そのゴキブリが肥やしの中を走り回ったあとみたいな身なりは見ていて見苦しいわ。そんな格好で魔女の館の前に居座らないで頂戴」


「喧嘩売ってんのあんた!」


思わずがばりと起き上がって怒鳴りつける。

って、え?

魔女の館?

あたしは女性の背後にある門を見る。

大陸じゅうに名前をとどろかせる魔女の住む館が、目と鼻の先にあった。


 ※ ※ ※


「イタカの村から?」


熱い風呂から上がったあたしにそっと薬湯を差し出した、ハルという名の女性、もとい少女は驚いたようにいった。

噂に聞いていた森の魔女というのはもっと年寄りだったはずだが、あれは尾ひれがついたものだったようだ。今目の前にいる少女は、どんなに年上に見積もってもまだ二十歳になるかならないかという年齢で、簡素だが清潔そうな白い服を着たどこにでもいそうな普通の人間だった。


「イタカの村って、確か大人でもここから歩いて五日はかかる場所よね。王都に近くて、そもそもが王都に新鮮な穀物を運ぶために作られた農村都市じゃなかったかしら。いくらここの薬が国内随一とはいえ、どうしてあなたみたいな小さな女の子が来るの?もっとちゃんとした大人の人とかはいなかったの?」


魔女の疑問は至極もっとも。

けど、魔女は王室の偉い人達とも強いつながりがある。何が起きたのかを知っての質問だろう。

黙り込んでうつむいたあたしに、魔女はほんわかした笑みで「ごめんなさい」といった。


「この質問は、あなたを傷つけるだけね。私、妹からよく言われるんだけれど、他人の心の機敏を察したり場の空気を読んだりするのが苦手なのよ。許して頂戴」


魔女はそういってあたしの向かいの席に座る。

って、え?

妹!?


「魔女に妹がいるの!」


あたしはやや身を乗り出しつつ聞いた。

魔女に妹がいるなんて初耳だ。そりゃ勿論魔女だって人間だし、家族を持っていたっておかしくないが、噂に聞く魔女というのは、もっと気難しくて、人間嫌いで、一人ぼっちのはずだ。いくら尾ひれがついた噂とはいえ、妹と一緒に「くすりやさん」を営んでいるような家庭的な印象はカケラも受けない。

魔女と呼ばれ、敬遠されがちな存在に、妹がいるとは・・・・・・!

目を真ん丸くしたあたしに、魔女はくすりと笑って、冷めないうちに薬湯を飲むように促した。


「自分では気がつかないかもしれないけれど、あなたは相当体力を消耗しているのよ。今は全然疲れた感じがしないかもしれないけれど、それは精神的安堵感から来る一時的なもので、いつ高熱を出して倒れてもおかしくないわ。その薬湯は即席のものだから栄養回復ぐらいにしかならないけれど、ちゃんと休んで体に無理をさせなければ二日ぐらいで体調は万全になるはずよ」


あたしは魔女に言われるままに薬湯を口に含んだ。

確かに、甘い。

それも、街の薬屋が子供用の薬として提供している砂糖の混ぜられたものではなく、もっと自然な甘さ。

率直に表現すれば、そう、ミルクのよう。


「そう。それはシシマヤミの樹液―――通称、樹の母乳が入っているわ」


魔女が教えてくれる。

シシマヤミの樹は、とても栄養価が高く森にすむ動物たちが冬越しの食料とすることもあるらしい。中でも樹の幹に傷をつけて採集する樹液は甘く、白濁色をしていることから樹の母乳といわれ風邪を引いたときなどに重宝する。生殖数こそあまり多くはないが、ライヒビ王国の中ならどこにでも生殖していたりする。


「おいしいよ、これ!?」


一気に飲み干したあたしの顔は、大げさではなくきらきら輝いていた。

それを受けて、魔女が声を上げて笑う。


「ふふふふっ。それは重畳。気に入ったならあとで作り方を教えてあげるわ。そんなに難しくないし、すぐに覚えられるはずよ」


「本当!?魔女の秘薬とかじゃないの?」


あたしが驚いて言うと、何がおかしいのか魔女はぶっと吹き出す。

あまりにも唐突だったので一瞬呆然としてしまったが、それから少しむっとした。


「ちょっと、なにがおかしいのよ?わたし別に変なこと言ってないでしょう!?」


「いや、だってあなたの反応って、大げさというかオーバーアクションというか、すごく真っ直ぐで、それに―――」


そこで魔女はいったん言葉を切り、すっと目を細める。

思わずたじろいだ。

魔女の姿が一瞬、どことなく慈愛を帯びたものに見えた。


「それに、思っていたより元気そうだったから、よかったなって思って。だって最初に逢ったときのあなたは本当に死にそうに見えたんだもの。いくら私の薬でも、助けられる自信はなかったわ」


この館であなたが死ぬということも、覚悟していたわ。と、魔女が続ける。

いつ死ぬかもしれない人間を、自分の家に招き入れられる人間が一体どれだけいるだろうか。

ひょっとしたら自分の家から死体が出るかもしれないというのに、わざわざ救いの手を差し伸べられる人間が一体どれだけいるだろうか。

町や村で噂される森の魔女は、噂とは違い世相離れした老婆ではなかったが、噂どおりの優しさをそなえた人だった。

お礼を言わなければ、と思った。優しさを与えてくれた、この清らかな魔女に、お礼を言わなければいけない。けれど、なんといえばいいのかわからなかった。学のないあたしには、美辞麗句を並べて相手をおだてることも、心に響くような大層な台詞をはくことも出来ない。


「助けてくれて、ありがとうございます」


結局、口から出たのはそんな有り体な言葉。

あたしには、この深い感謝の気持ちをどういう言葉に置き換えていいのかわからなかった。

けれど、ちゃんと想いは伝わった。魔女ははにかむように笑うと誠意を持ってあたしの言葉を受け取った。

思えば、先程から魔女は笑ってばかりだ。その表情はころころと千変万化に変わっているが、まるで幸せ以外知らないかのようにいつも笑っている。その笑顔を見ているとなんだか心が解され、あたしもつられて口元が緩む。

と、そのとき玄関が開いた。思わず振り向くよりも早く、「ただいまーっ」という元気のいい声が聞こえた。


「あ、漸く帰ってきたわね。紹介するわ、あれが私の妹のロッキンツォン。歳は先月漸く十歳になったところだけどあなたと同じぐらいかしら?」


パタパタと軽い足音が響いて、それからロッキンツォンという少女の姿が現れた。

「あ」と、ロッキンツォンがあたしを見つけて一瞬目を丸くし、それからぺこりと頭を下げる。


「はじめまして。サチ・アデライト・ジェディラル・マダリテリテールティング・メズアマティティテルト・ロッキンツォンと申します」


いや、それ名前なの!?ていうか、そんなの一度聞いたぐらいで覚えらんないよ!


「・・・・・・えっと、ただ単に、ロッキンツォンって呼ぶけど、いい?」


やや引き気味に尋ねたあたしに、なぜかまた魔女が笑い出す。

本当に、よく笑う人だ。


「『ロッキンツォンさん』って呼んでください。あなたを助けたのは確かに私の姉ですけれど、実際にあなたを見つけたのは私なんですから」


なんと!

じゃあ命の恩人ということになるのか!?

あたしは姿勢を改めてもう一度深々と礼を言った。そこでロッキンツォンの持っている籠に気がつく。


「ろ、ロッキンツォンさん、その籠の中身って・・・・・・」


「え?あ、はい、これですね」


ロッキンツォンが籠を持ち上げ覆っている布をどける。


「あなたの体調をよくするための薬草ですよ。これを飲んで、元気になっていただけたらと思います」


なんていい人・・・・・・!

あたしの中のパラメーターが一気に振り切られ、嬉しさのあまり涙まで出てきた。なりふり構わずロッキンツォンさんを抱きしめたら奇妙にくぐもった声を上げられた。顔を上げると目を丸くしたロッキンツォンさんがいた。こちらを見つめ返している彼女はすぐににっこりと笑うと、あたしの頭にポンと手を載せる。

なんだか、ロッキンツォンさんからとても懐かしいにおいがした。ぎゅっとロッキンツォンさんにしがみつく手の力を強めてすんすんとにおいをかぐと、ロッキンツォンさんは困ったように苦笑する。


「なんだか妹が出来たみたいですね」


ロッキンツォンさんはそういって、離れようとしないあたしを見下ろす。

昔から、きょうだいが欲しかった。孤児だったあたしは親切な村の人たちのおかげで今日まで飢えることも凍えることもなく幸せに暮らしてきたけれど、血のつながった家族というものに思いをはせた。どんなに求めても作り上げる事のできない、生まれついてしか与えられる事の無い親愛の絆というものが欲しかった。

だから、思わず甘えてしまう。甘えられるときに甘えておかないと、本当に人肌が恋しくなったときに寄りかかる相手がいなくなってしまうような気がして。


「姉さん、これ、頼まれてた薬草」


ロッキンツォンさんがあたしを貼り付けたままえっちらおっちらと魔女のほうに移動して、魔女に籠を手渡す。魔女に話しかけるときのロッキンツォンさんの口調はあたしに向けるときの丁寧なものと違い、いささか砕けたものだ。


「それも何かの薬になるの?」


とあたしが尋ねると、魔女は水道の水で薬草を洗いながら肯定する。

というより、水道があることにあたしは驚いた。普通水道というのはお金持ちの家だけに配備されているもので、豊かさの象徴だ。それもそのはず、川から一個の家庭に水を引くだけで街のあちこちを改造しなければいけなくなるのだから莫大な資金が必要になる。

驚いたあたしの視線に気がついたのか、魔女が地面を指差す。


「この下に地下水脈があるのよ。ただ単にそこから水を引いただけ。全部先代の魔女が自分の手でやったことだから、お金はかかっていないわ」


「そ、それこそすごいじゃない・・・・・・!?」


どうして地下水脈の場所がわかるのだろうか?

地面の下に水脈があるかどうかなんて普通の人にはわかりっこない。相当地面を掘り下げないと見つけることが出来ない地下水脈なんて、何十年かに一度偶然で発見されるような代物だ。

けれど、ライヒビに住む人間はそれに対する答を持ち合わせている。

魔女だから。

人と自然との間に立つ、調停者にして交渉人(ネゴシエータ)

神の存在が否定され宗教が忘れ去られた、この歪で平和な世界において唯一、人ならざる奇跡を起こせる存在。

魔女の役割というのは、本来は薬師ではない。

ライヒビ全体を占める、森という雄大で漠然とした意志に対し、人間が恩恵を授かるためにいる者。

他の国の人間に説明しても、きっとわかってもらえないだろう。でも、あたしたち森国ライヒビに住む人間にとっては、森というのはなくてはならない絶対のものなんだ。森には意志が存在するなどというと、他国の懐疑主義者はそろいもそろって異議を唱えるだろうけど、じっさいに森に暮らしてみればわかる。木や狐や、栗鼠といった小さな生命ではなく、もっと大きな何かが森を支配していることに。そして人間はそれの恩恵を受けているから生きていけることに。

魔女は、その何かと人間の間に立つものだ。何かをかつて信仰の対象であったとされる神と例えるならば魔女は巫女。神に愛された寵児。

そもそもが、人間に生まれながら人間とは違う存在なんだ。

やがて、魔女はあたしの前に小さなコップを差し出した。その中にはさっきの薬草を使って作った緑色のどろっとした液体が入っている。


「今度のやつは、結構不味いわよ。まず最初に苦味が来て、それから喉の奥から吐き気がするわ。最後にヘドロのような生臭いにおいがすることもあるけど、それはあなたの体質しだいね」


・・・・・・なんとも不味そうな説明をありがとう。

おかげで飲む気がうせました。


「そ、それでこれは何の薬?」


あたしが尋ねると、魔女は気まずそうに目をそらす。

仕方なくロッキンツォンさんのほうを見たが、彼女もまた同じように目をそらした。

あたしの目の前には、異臭を発する小さなコップが一つ。なんだかコップの周りからどよ~んとしたオーラが漂っている気がする。薬というよりかはむしろ劇薬だ。

何とか飲まずにすむ方法はないだろうか。と思考を巡らせ、すぐに思いつく。


「あ、ほら、あたしお金持ってないし、魔女さんにとって薬は商売道具なんだから、この薬も他の人に売るべきよ」


「え?お金?じゃあ懐に入っているのは何なの?」


きょとんとした顔をした魔女に言われ、あわてて懐を押さえた。鎌をかけられたのだと気がついたのは、その直後だった。

魔女がわざとらしく両眉を上げ唇の端を上げる。


「そもそも、お金をとる気はないわ。行き倒れの人にそこまでするほど私は守銭奴じゃないもの。その薬は・・・・・・まあ、なんていうかしらね、その、あれよ、あれ、あれだから。そうよね、ロッキンツォン?」


「え?あ、私?」


いきなり話を振られたロッキンツォンさんは、あたしに抱き着かれたままの状態で一瞬あわてて、それから一瞬だけ真っ直ぐにあたしの目を見て、


「惚れ薬よ」


といって、すぐに目をそらしやがった。

本当に一瞬だけだったな・・・・・・

・・・・・・しかも惚れ薬って・・・・・・・・・

明らかに嘘だとわかる台詞に顔を引きつらせつつ、漸くロッキンツォンさんから離れ、あたしはコップを口元に持っていく。

ちらりと魔女を見る。

・・・・・・なぜか応援された。

ちらりとロッキンツォンさんを見る。

・・・・・・なぜか拝まれた!?

ごくり、と喉を鳴らして意を決したあたし。

沈黙があたしたちの間を流れた。

五、四、三、二、一.

ぐいっとカップを傾ける。途端にあたしの口の中に苦味があふれ、あたしはしわくちゃのおばあさんみたいに顔をしかめた。意思に反して吐き出しそうになる口を必死に押さえながら、なんとか胃袋に流し込もうとするが、何かが喉につっかえているみたいにそれを邪魔する。

あたしは涙目で魔女のほうを見て、吐き出してもいいかと視線で聞いた。


「イングリット。その薬はね、とても大切なものなの。その薬を飲めないで死んだ人や、その薬が開発される前だったせいで殺された人が数え切れないほどいるの。あなたがここにいてその薬を飲めるという事はとてもありがたい事なのよ。その薬がとてつもなくまずいことはわかっているわ。でも、ねえ、イングリット。私はあなたに生きて欲しいの。あなたみたいな小さな女の子がどうしてこんな森の中で倒れていたのか、私には想像する事しかできないわ。けれど、きっとあなたがこの森に来たのはとても悲しい事だと思うの。私のところに来るのは病人ばかり。たまに健常者が来ても必ずその影には病気の二文字が付きまとっている。そしてそのうちのいくらかは元気になって帰って行って、残りのいくらかは―――この館で死んでしまう」


あたしの事からは完全に話がそれていたが、魔女の台詞に、あたしは薬を含んだまま聞き入ってしまう。

そうだ。

この歳若き魔女は、妹と二人っきりでたくさんの人の死を見てきた。

時には、あたしのように事情を背負った幼い子供もいただろう。

時には、つい患者に情が移ってしまった事もあっただろう。

嗚呼。

お金がないから薬が飲めませんなんて、あたしはなんて失礼な事を言ったのだろう。

魔女は、純粋に、真っ直ぐな気持ちであたしに死んでほしくないと思っている。

なぜそんなにも、魔女は他人を思えるのだろう。

野垂れ死にしかかった子供なんて、助けなければいい。

ただ他人からもらうだけで、何も返す事のできない子供なんて、無視すればいい。

気づかなかったといえばいい。知らなかったと嘘をつけばいい。関係ないと主張すればいい!

なのに、魔女は手を差し伸べて。あたしの魂を温かい心でそっと包んで。

(切ない)

切ない。切ない。せつないせつない。胸が切ない。

あたしの心が震えて、声をつむぎだす。言葉にならない、意味のない声が。

だって初めてだった。

無用心に好意を振りまける人間が。

だって初めてじゃなかった!

他人のために心を開く人間が。

嗚呼。

いっそのこと、あたしなんて助けないで欲しかった。

ねえ、わかってる?

あたし、ほんとは死にたかったんだ。あそこで野垂れ死にたかったんだ。

行きようと頑張って見せたのは単なる悪あがき。

あんなところで少しぐらい頑張ったからって、死ぬのはわかってた。

あなたはあたしのためにあたしを助けたんじゃない。

ただ目の前で人が死にかかっているのが我慢できなかっただけ。

ねえ。

誰でも彼でも生きたいと思っているなんて思っているの?

子供だったら悲しい経験をした事がないなんて信じているの?

(生きて、)

そして何かいい事があるの?

(何かを我慢する必要があるの?)

(あたしなんか)

あたしなんか

(あたしなんか)

あたしなんか。





「イングリット、私たちを助けてくれるかい?」






村を離れるときに聞いた大切な人の声が頭に響く。

あたしが、初めて村の人たちに嘘をつかれたとき。

嘘だとわかっていても、あたしは頷かざるをえなかった。裏切られたからこそ、村の人たちがどういう目であたしを見ていたかを知ってしまった。

じわりと、目の前がにじむのがわかった。

目の前がやみ色に染まる。

喉の奥から、熱いものがとめどなくあふれ出した。


 ※ ※ ※


腐死病。名前だけは知っていた。人の体が徐々に腐ったような黒色に染まっていき、数日で死に至る恐ろしい病気だという話は、お世話になっていた家が開業医だった事もあって、時々耳にした。



「イングリットちゃん、ちょっと手伝ってくれる?」


階下から聞こえてきたおかみさんの図太い声に、あたしは「はあい」と返事をして、友達の誕生日プレゼントのために編んでいた小さな手袋を放り出した。

あたしは、孤児だ。夫婦で旅をしていた両親はあたしがまだ四歳のころに山賊に襲われて負傷し、ほうほうのていで逃げ込んだ村で息を引き取った。それ以来あたしはその村の人たちの中で育てられた。

本来招かれざる存在だったであろうあたしに対し、村の人は誰一人として嫌な顔一つしなかった。

彼らは、病気になったときに医者がいないと大変だろう、貧しくても子育ての経験がある家に預けるべきだろうか、子供がいなくても裕福な家に預けるべきか、などと、あたしが村に来て以来彼らは何度となく集会所に集まり、たかだか四歳の子供一人のために額を寄せて話し合った。結局、あたしは中年の医者夫婦のところに居候することになり、その家の二階にあたし専用の部屋が与えられた。



とんとんとん、と階段を下りていくと、おかみさんが鍋で医療品を煮沸消毒していた。


「ああ、漸く来たね、イングリットちゃん」


あたしを見つけたおかみさんはそういって手招きする。


「そろそろだんなが帰ってくるはずだから、パン買ってきてくれるかい?白い大きいのがいいねえ。小麦のやつだよ」


おかみさんの言う、「だんな」は文字通りだんなさんのリットさんの事だ。この村唯一の医者の上、とても腕が立つのであちこちから引っ張りだこで、いつも回診に行っている。

おかみさんはあたしに小銭を渡しつつ、頭をくしゃっと撫でた。あたしはくすぐったさにちょっと目を細める。おかみさんの手から消毒薬のにおいがするのはいつもの事。そのにおいあたしの友達は嫌がるが、あたしの大好きなにおいだ。

元気よくドアを開けて、あたしは秋空の下を走り出す。両側の小麦畑には麦がたわわになり、そろそろ刈り時だ。

いつもバターの香りのするエマーさんのパン屋に飛び込んで、あたしは「小麦の食パンください!」という。それこそパンのようにふっくらした顔のエマーさんは、あたしがパンを買いに来るといつもおまけをしてくれるので、現金だと思いつつもあたしも惜しげなく愛想を振りまく。

エマーさんがおまけしてくれたチョコパンをほおばりながらパン屋を出たあたしはそこで「だんな」さんと鉢合わせし、驚いただんなさんは、

「■■■■■■」


・・・・・・え?


視界がぐるりと暗転する。

小麦畑が真っ黒に染まり、腐ったようなにおいが辺りを覆う。

「■■■■ット」

「■■■リット」

「■■グリット」

「イングリット!」

そこには、いつもどおりのだんなさんがいた。

けれど、その目はいつもと違い、優しさの代わりの恐怖をたたえていた。

がしり。と、想像もできない力で肩をつかまれ、あたしは思わず怯む。心臓が高鳴り、つる草でも絡みついたかのように体が動かなくなる。

恐怖を感じた。


「イングリット」


後ろから別の声が聞こえて振り返ると、焼きたてのパンをたくさん抱えたエマーさんがいた。身じろぎしようとして、何か奇妙なものに触れて、あわてて身をすくめた。

ぐにょりという、不気味な感触。背中の上をぞわぞわと恐怖が駆け抜け、心臓が痛いぐらいに高鳴る。


「イングリット」


右から、漁師のミュールさんの声。


「イングリット」


左から鍛冶屋のシムさんの声。

みんな、黒かった。

強烈な酸の臭いにあたしは両手で鼻を覆う。

村のみんなの体が、濁った闇色に染まっていく。だらんと皮膚がたるみ、目は窪み、頬は垂れ、赤黒く膨れ上がった唇からはでこぼこの歯が見える。


「イングリット!」


誰かが呼んだ。もう誰の声だかわからない。喉の奥から搾り出したようなその声は、あたしの頭の中でがんがん響く。


「・・・・・・っ!」


あたしは耐え切れなくなって耳をふさいでしゃがみこむ。けれどもあたしを呼ぶ声は絶えず、何かがあたしの体に触れるたびにあたしは嫌悪感で身震いする。



どれほどの時間、そうしていただろうか。

気がついたら、焚き火に照らされたやや広めの建物の中にいた。粉臭いにおいに(ああそうか)と気がつく。ここは、村の集会所だ。村で栽培される麦をいったん集めて王都へ出荷するための拠点で、隣に麦を挽くための風車小屋が隣接しているうえ、窓が小さいせいで風通しが悪いから、秋のこの時期はいつも粉っぽい匂いが漂っている。

あたしが立っているのは、集会所の玄関戸口。そして集会所の中では、大人たちが難しそうな顔で話している。いつもの話し合いとは違い、集会所に入りきらないほどの大人数だ。普段の寄り合いでは見かける事がないお年寄りや、女の人までも混じっている。

誰も彼も、体の一部に黒いシミのような跡がある。そのシミは、ここ数日徐々に体全体に広がっていて、ひどい人だと体の半分以上が侵されていた。

この村にいる、わたしも含めてたった五人の子供はまだ幼かったので寄り合いには参加していなかっが、あたしだけは家が遠い事もあって、家に一人で置いておくのが不安だったのかおかみさんとだんなさんに連れてこられた。

寄り合いは、いつも以上に緊迫していた。

剣のある低い声が集会所の中を行きかい、声を荒げる人も何人かいた。

一体どんな話し合いが行われ、どういう提案がなされようとしているのか幼いあたしにはわからなかったけれど、「腐死病」「焼き払い」「国王軍」という物騒な言葉は、状況が理解できない分余計にあたしを不安にさせた。

ときどき村の人たちはあたしのほうにチラッチラッと目配せし、やがて村の指導者的立場のロコさんがあたしのほうに近寄ってきた。

決して他人に己の苦労を悟らせるような事のないロコさんには珍しく、憂いを帯びた顔。


「イングリット、助けてくれるかい?」


今でも覚えてる。

ロコさんの必死の声も。

媚びへつらうようなまなざしも。


「イングリット、腐死病という言葉を知っているかい?」


普段とは様子の違うロコさんに、あたしは身を引いた。慌てたコルさんがあたしの両肩をがっしりとつかむ。

やや弾力に欠けた、その手で。


「腐死病というのはね、恐ろしい病気なんだ。村の人たちはお前を除いてみんな、それにかかってしまった」


「・・・・・・どうして、あたしだけかからなかったの?」


村の人はみんな腐死病にかかったのに、どうしてあたしだけがかからなかったの?

あたしは聞いた。

同じものを食べて、同じところで同じように暮らしていたのに、何であたしだけが仲間はずれなのか―――と。

村の人たちはみんないい人達だったけれど、この村の生まれではないあたしはいつも仲間はずれにされる事を怖がっていた。一人だけ疎外感を感じる事を恐れていた。この村にあたしの家族はいない。おかみさんとだんなさんも、結局はあたしとは血のつながらない人たちだ。

いつかはこういう日が来るとわかっていた。村の人たちと自分が違う存在なのだとまざまざと自覚させられる日が来ると知っていた。


「イングリット。今からお前に村の全財産を預ける」


すぐに、ロコさんが何を言おうとしているのか気がついた。

病気にかかっていないあたしを、病気にかからないうちにこの村から出す気だ。


「収穫前のこの時期だから、銀貨のような大きな貨幣はないが、それでも銅貨三千枚はあるはずだ。それを持って、森の魔女のところに、腐死病を治す薬を依頼してきて欲しい」


あたしは、この村の人間でないから。

一緒に死のうとは、言ってくれなかった。

ロコさんは、あたしが腐死病がどんな病気は本当に知らないと思っていたんだろうか?

村の人たちの余命は、せいぜいあと三日、長くても一週間。

子供の足では、魔女のところまで行って帰ってくる間にみんな死んでしまう。


「そうしたら、みんな助かるの?」


棘のこもった口調であたしはロコさんに聞いた。


「ああ」


それに気づかずロコさんはにっこりと笑う。

うっすらと腐敗臭がした。


「イングリットが頑張れば、みんな、助かるのさ」


生まれて初めて、嘘を吐かれた。そしてその嘘は、あたしと村の人達との関係を、決定的に壊した。


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