第九幕後編。
「でも、コスモスさんと貴方の生命だけは、私が名誉をかけて救います」
ハルはそういって、何かをどぼんと風呂場に放り込む。やがて流れてくるひんやりした空気で、私はそれが巨大な氷であった事を知った。
氷と聞いて思い浮かぶのは、植物を長期にわたって保管するための氷漬け技術だ。生で無ければ効果を発揮しない薬草は、一度ハルファナに輸出され氷漬けにされてから再輸入される。それを日陰で保管して、何とか必要な時まで鮮度を保つのだ。
そして、腐死病のための薬草と言えば一つしかない。
蒼人参―――
人参のような橙色の根と、蒼い実をもつ稀少な薬草。
すぐに、青い実が湯の上に浮かんできた。
ハルはそれを腰につるしていた別の薬草と大雑把に混ぜ合わせて、無造作に私とコスモスに差し出した。
「半分こ、しなさいね。コスモスさんだけではなくて今は貴方も腐死病に感染しているのだから」
ハルは、いつものように幼い笑顔で笑った。
「魔女殿、これはちゃんと二人分あるのか?」
「ないわ」
ハルは当然のように、二人分の薬を持っていないことを告げた。
「でも、コスモスさんは貴方を差し置いて一人だけ薬を飲んで助かろうとは思わないだろうし、貴方はコスモスさんを助けるために何とか薬を飲ませたいと思うでしょう?それで二人とも薬を飲もうとしなかったら、薬がある意味が無いじゃないの」
「いや、私が言おうとしているのはそうじゃなくて―――」
私は、それが誰のための薬であるのか聞こうとして、止めた。
これがイングリットを助けるための薬であることは間違いが無い。わざわざ重い氷の塊を王城にまで持ってきたことを考えても、もう、イングリットの死は秒読みなのだろう。ここでイングリットの名前を出せば、ハルは迷った末にイングリットを選ぶだろう。今は、ただ死を目前にした私たちを見て感情的になっているだけだ。時間を置けば冷静さを取り戻す。
「さあ、どうしたの?半分こだから一人分には満たないけど、薬を飲んだ上で延命措置を行えば、腐死病だって何とか退治できるわ。さあ」
おずおずと、コスモスが手を伸ばす。コスモスが握ったのは、薬の半分。
残る半分は、イングリットの分では無くて私の分。
私はコスモスとハルから目を逸らすようにして、受け取った蒼人参を飲み下した。
※ ※ ※
「イーマは悪くないからな」
ハルが風呂場から立ち去って、暫くたった頃、ぽつりとコスモスは呟いた。
それが、一瞬「イーマが悪いんだからな」と聞こえて相当神経が参っているのだと自覚した。
いろいろと考えすぎるのが、私の悪いところだろう。
どうしても、魔女の言葉が頭から離れない。
コスモスが目の前に居るのに、コスモスが目の前にいるからこそ、他の事について考えてしまう。
腐死病が国中で蔓延していることについて考えてしまう。
自分がコスモスに対処療法を教えなければ、被害はもっとずっと小さくて済んだのにと後悔してしまう。
けれど、ああ。
ここで私が罪悪感を抱くことは、コスモスにも罪悪感を抱かせる事になってしまう。
とりあえず、国民の事ではない。
コスモスのことだ。
「ところで、コスモス。おまえ、魔女殿が来る前に何かいいかかったよな?」
「え?」
ぼんっ。と言う感じでコスモスの顔が唐辛子のように真っ赤に染まった。
「そ、そうか?わっちは覚えていないぞ」
下を向いて落ち着き無く体をゆするコスモス。忘れたことにしてとぼけようとするコスモスのために私は口添えした。
「『イーマが例え森の魔女にうつつを抜かしてわっちの事をちっとも構ってくれなくても、わっちの愛しているのは』のところで中断されていたぞ」
私がそういってコスモスの目を覗き込むと、コスモスはついと目を逸らした。
私がその様子に含み笑いをもらしながら黙ってみていると、コスモスはおずおずと顔を上げて、それからまた俯いてしまう。暫くしてもう一度トライするも、結局は耐え切れずに視線を逸らしてしまう。
私は調子に乗って、コスモスの視線を追いかけ始めた。
私が右行けば視線を左に逸らし、正面に立つと視線を上に逸らし、逃げ道が無いと悟ったのかしまいには両手で顔を覆ってしまう。
「そ、その、じゃな」
ふいに、コスモスのほうから私に視線を絡めてきた。あまりに急な動作だったので思わず私が視線を逸らしそうになってしまう。そんな、真っ直ぐな視線だった。
コスモスの金色の髪が、紅く染まった耳が、首筋が、どこか潤んだ目が、かすかに震える首筋が、私の心の現に触れてときめきの音を奏でてくれる。
「わっちは、イーマのことを愛しちょる・・・・・・これで満足か?」
最後の最後にはやっぱり目を逸らして。それでも大切な言葉ははっきりと紡いで。
コスモスはコスモスらしく愛の告白をした。
分かっていた事でも、実際にコスモスの口から言われた事が嬉しくて、私はコスモスをぎゅっと抱きしめてしまう。
それから、コスモスの肩を抱いた。
「私も、コスモスのことが好きだ」
私は誠意を持って答える。女王に忠誠を誓う騎士のように誠実に。
ここで紡ぐ言葉に、嘘は無い。
だから、ここで思っていることをすべて言ってしまわなくては、これからずっと言えないだろう。
「私は、人とは少し考え方が変わっていて、突拍子のないことを平気でやって、自分の運命さえも認めようとせずに逃げてばっかりいるどうしようもない男だ。だが、こんな私でもお前を愛している事に嘘は無い。お前の全てが好きだ。王家の血筋がお前のために全てを投げ出してもいいという私の願いを踏みにじってしまう事もあるだろう。誰かのために、お前のことを後回しにしなければいけないこともあるだろう。でも、忘れないで欲しい、コスモスが、私にとってかけがえの無い存在だという事には変わりがないのだと。私がコスモスのことを、心から好きなのだと言うことを」
だから、と私は一度言葉を区切った。
彼女に理解できるかどうかわからなかったけれど、言葉にしておくべきだと思ったから。
「だから、辛いときに、一人で抱え込まないでくれ。コスモスは強いから、なんでも一人で抱え込んで、たいていのことは一人でも解決できてしまうだろう。苦しみも乗り越えられてしまうだろう。でも、一人で何でも出来なければいけないという考えは間違っていると思う。いっそ乗り越えないでくれ、解決しようとしないでくれ。他人の手を借りる気が無いのなら、努力なんて放棄してしまえ」
それは、コスモスに言う言葉であると同時に、自分に向けて言う言葉でもあった。
だから、わかる。誰かを頼るという事が、口で言う以上に大変だということは。
「一緒に、乗り越えて行こう」
どんな苦境も、二人なら、大丈夫。
他人に迷惑をかけないために自分だけが被害をこうむるように努力するのは、もう止めよう。
腐死病が王都で蔓延して、国民に散々迷惑をかけて、いっそ開き直ってしまったのかもしれない。それでも、いい。
権力を持つものとして生まれたのだ。それを使うべき唯一の時にくだらない悩み事にうつつを抜かしていたら、自分が軽蔑する、王位を押し付けようとしてくる兄たちにすらも申し開きが出来ない。
口だけで誰かを頼れといっても、それは無責任なだけだ。
誰かを頼れというなら、態度でしめそう。自分の持っている重いものを、コスモスの肩にも、半分乗せよう。
「腐死病を、退治しよう」
まずは、私から。
国が滅びかかっているというプレッシャーと、沢山の都民が死にかかっているという重責を、二人で分け合うことにした。
※ ※ ※
国家書庫―――
そこには、国の全てがある。
王家の人間のみがそこの書物を閲覧する事が許され、そこから得られる知識は計り知れない。書籍数延べ七百万冊。石版記録が七十万枚。文化的価値のある絵画が七万枚。時代別の国の地図が七千枚。祖先が残した暗号と思われる書類が七百枚。一部紛失してしまったらしいが、代々の国王の肖像画が七十枚。王家の家宝が七点。書庫と言うよりも既に博物館といったような国家書庫に、私の記憶が正しければ私自身始めて入る。
国の全てがあると言う謳い文句は嘘ではない。だから、この国と腐死病がどうかかわってきたのかも分かるはずなのだ。
「・・・・・・わからんな」
私は貴重な書物の一つをどさりと「読了済み」とかかれた箱に放り込むと、硬い木の椅子に寄りかかった。
国家書庫の欠点を上げるとするならば、それは整理の悪さだ。時代別に並んでいるかと思うと急に作者の名前順になっていたり、かと思うと王族の書いた書物だけは別枠に用意されていたりする。おまけにこの書庫を利用したであろう代々の王族が読んだ本を好き勝手な棚に突っ込んでいくから、ただでさえ混沌とした書庫の中がもはやカオスと化している。
それだけならまだいい。売ればそれだけで金貨何十枚分もの価値がありそうな本に落書きがされていたりするのは何でだろうか?
ひょっとして王族は王族でも、三歳児とかがここの本を閲覧しているのではないだろうか?
ついでに言うとその落書きの中になぜか見覚えがあるものがいくつも混じっているような気がするのは何でだろうか?!
「・・・・・・」
私は幼少のころに思いをはせた。
あー、そう言えばあの頃はお絵かき帳が無かったんだっけ?
じゃあここに来たのって二回目か。
「なんじゃ、もう音を上げたか?」
コスモスが別の本を読みながら私を茶化してくる。
ちなみにコスモスは一度に三冊の本を読んでいる。目は二つしかないのにどうやって三冊もの本を同時に読んでいるのだろうか。
「ふむ。こうしてみるとあれだな、まじめに本を読んでいるコスモスと言うのもなかなか可愛い」
私がそう言うと見る見るうちにコスモスの顔が真っ赤になる。
あ、読む本の数が二冊になった。
「それで、そう言うコスモスのほうは何か進展があったか?」
「うむ」
・・・・・・あったのか。
「イーマ、わっちの仮説があっているか、検証してみて欲しい」
そういって彼女が差し出したのはこの国の地図。それも時代別のもので十枚以上に及んだ。
そして、その地図のあちこちを埃だらけになった手で指差しながらコスモスは私に仮説を説いた。私はにわかに信じられなかったが、コスモスはちゃんと裏づけまで取っていた。
腐死病を撲滅する一縷の可能性が、コスモスによって示されたのだった。