第八幕前編。再び、イングリット
あたしは溜息をついて服の上を見た。
服の上には、コスモスという女性によって書かれた文字が躍っている。
書くものがないからといって指先を噛み切って血をインクの代わりにしたり、紙がないからといって服の上に直接書いてきたのには驚いたけれど、よく考えれば国の上層部では日常的に血判が使われているのだとか聞いたことがあった。
しかし、あたしの服の上の文章は一味違う。ライヒビの識字率はあまり高くないのであたしが文字の読み方を知っているのは奇跡に近かったが、その文字の表す内容は素直に喜んでいいのか微妙なものだったからだ。
「イングリット・コスモ・イタカを本日付で一代限りの準男爵に任命する。ナタリエル・テリテマ・ゲンテリリエール・トマコ・チェミエンス・ニャマラ・スズラヒ・レノハ・コスモス」
と書かれているのだ。つまり、この服があたしを貴族だと認める正式な証書だという事にもなる。
(文面の半分以上を名前が占めているというのも、どうかと思うけどね・・・・・)
コスモスが事務仕事を嫌うのは、ただ読んでサインするだけでも腕が疲れるからだといっていた。それぐらいならいっそ名前を変えればいいじゃんと、あたしは即座に突っ込んだ。
「はあ~」
村娘がいきなり貴族に出世してしまった。その理由はコスモスによって聞いたがそもそもどうしてそんな理由であたしなんかを貴族にしたのか分からない。
腐死病についての話題は、コスモスがあえて避けている様なのでこちらから切り出す事ができず、ほとんど話題に上っていない。
そのため、今のあたしの状況が分からない。
宰相閣下を前にしたときのロッキンツォンさんの奇妙な言い回しも気になった。
自分が生きているのか、死んでいく途中なのか。
終わる存在なのか、始まる存在なのか。
それが分からない。不安はあたしの不安をより一層募らせた。
「コスモス、早く来ないかな」
幽閉された日から毎日、最低でも一回はこの牢屋を訪ねてくれるコスモスの存在はいつの間にかあたしの心の支えになっていた。コスモス以外の人間はそもそもこの牢屋を訪れないし、腐死病にかかっているという今の状況でそれは当然だろう。
「はあ~」
あたしはもう一度溜息をついて、それから首をかしげた。牢屋の檻の外側に、なにやらもぞもぞ動く茶色いものを見つけたからだ。
暫く目を凝らして、それが魔女の館に居た「アサさん」と同じ猫という生き物である事を思い出す。確か魔女は人食・・・・じゃなくて大喰らいでグルメの「アサさん」と、方向音痴で盗癖の「マサさん」という猫を飼っていたはずだ。
(・・・・・・あれ?)
あたしは魔女から聞いていたマサさんの身体的特徴を思い出す。
(茶色い子猫、だったわよね)
目の前に居るのは茶色い小さな猫。
どうやらこれがマサさんらしい。
あたしは思わず眩暈を感じて天・・・・・・ではなくて牢屋の天井を仰いだ。
(嗚呼)
王都と魔女の館がどのくらいはなれているのかは知らないけれど、イタカの村から王都まではかなり近いと聞いていたから、きっと大人でも五日はかかる旅程なのだろう。ついでに言うとライヒビは地形的に山あり谷あり川ありなんでもありの地形で、お城で飼われているごく一部の馬以外はその地形を乗り越えることが出来ないため普通は王様でも何処かに向かうときは徒歩だ。
ちなみにイタカの村は結構低い山の頂上にあった。標高が高いためか空気は薄かったけれど、王都までの街道はちゃんと整備されていたから困ることはなかった。
・・・・・・で!あたしの言いたいのはそういう事ではなく!
「マサさん、だっけ?あんた、方向音痴にも程があるでしょう!どうやったら道に迷っただけで魔女の館からここまで来れるの!あんだひょっとして国境をまたいだ事があるとか言わないでしょうねえ!?」
マサさんはあたしの怒鳴り声に驚くこともなく、つぶらな瞳であたしを見つめたままこちらにヨチヨチ近寄ってくる。
「あんたもうちょっと警戒心って物を・・・・・・」
そこであたしは絶句した。マサさんは、鍵を咥えていたのだ。
「・・・・・・盗癖も、あんたの特徴だったっけ?御都合主義にも程があるけどそれってひょっとしてこの牢屋の鍵だったりしないわよねえ?」
そんなことはないだろうと思いながら、わたしの眼がキラーンと輝き、子猫がひるむ。
「一体どうしてマサさんが鍵を持っているのか解からないけど、おとなしく渡してもらおうかしら?」
十分後、ムギャーという猫の悲鳴が再び城中に響き渡ったという。
※ ※ ※
牢屋から廊下に出て、ドアから出るのはさすがに拙いだろうと窓から飛び出そうとして寸前で間に合った。ガラスなどという高価なものが窓に使われているのは国王や王子といった、城の中でも一番上の人たちの部屋だけで、牢屋しかないここには木窓も何もないただの穴といった感じの窓しか開いていなかったのだが、そこから見える地面は途方もなく低かった。
(あ、そういえばお城って部屋を縦に積み重ねているんだっけ?)
建物を大きくするのに、横に広げる代わりに縦に広げようという発想は分かるけど、そんなことをしたら重みで一番下の部屋とかがぺしゃって潰れそうな気がする。
まあでも、実際にこんな風に部屋が縦に積み重ねられた建物があるのだから不可能ではないのだろう。
だけど、ここで問題になるのはどうやって地面に降りるかという事だ。まさかここから飛び降りても足の骨を折らないということはないのだろうから、どうにかして降りる手段はあるのだろう。
あたしは改めて窓の下を覗く。ここに着た時には目隠しをされていたが、まさか兵隊さんがあたしを担いでこの城壁をよじ登ったわけではないと思う。
「あ、梯子か」
あたしは木の、高いところに生っている果物を取るときに使うはしごのことを思い出した。長い長い梯子があればここまで登ってくることもできるだろう。
(でも、ここから梯子持ってきてくださいって叫ぶわけにも行かないわよね)
そんなことをしたら元も子もない。鍵を取り上げられて牢屋にもう一度放り込まれてそれでおしまいだ。
あたしは仕方が無く、窓枠をまたいだ。
(えーい。女は度胸よ!)
確かそんなことを昔言っていた人が居た気がする。
女は度胸と尻と太もも・・・・・・だったっけ?
(度胸は解かるけど、どうして尻と太ももなんだろう?結婚してからは亭主を尻に敷いて太もものマッサージをさせるって事かなあ?)
あたしは度胸でもう片方の足も建物の外側に出して
びゅううん。
きゃあ。
てな感じに、急に吹いた突風に驚いてイモリのように城壁に張り付いた。
あ!
気がついたら体が全部建物の外に出ちゃってる!
つまりあたしは今手と足の力だけで壁にへばりついているわけで。
カッチンコって、怖くて固まっちゃった!
一人しか居ないのに妙にシリアス。
何で悪役も居ないのにこんなに緊張しているのかと思うと情けなくて涙が出てきた。
けれど、ここで気を抜いてはイングリットの・・・・・・じゃなくて、イングリット・コスモ・イタカの名折れ。そう心に念じて、あたしは匍匐後退を開始した。
・・・・・・亀並みの速度で。
城壁に起伏はほとんどない。フェリンターナから輸入した建築技術だろう。
あたしは八歳の女の子が城壁を這い降りなければいけないという事態も想定しないでこの城の設計をしたフェリンターナが嫌いになった。
フェリンターナが他の国にやや嫌われる傾向にあるのは、うまく立ち回って甘い汁をすいつづけているということもあるだろうが、こういうところもあるに違いない。
とりあえず生きて再び地面に立てたらフェリンターナに苦情を申し立てる手紙を書こうと思いつつ涙を流す。
そろそろと城壁を這い降りる。
そろそろ。
そろそろそろそろそ・・・・・・ろ・・・・・・・・・(ちょっと休憩)そろそろそろ。
イモリのように壁に体を貼り付けての行軍は案外疲れる。
あたしは痛くなって熱を持ち始めた手をフーフーしようと両手を離した。
手は真っ赤にはれていて、ところどころ城壁の形に歪んでいる。
あたしはもう一度恨みがましく城壁を睨みつけて、それからきょとんとした。
城壁と手を交互に見比べて、かくりと首をかしげる。
状況確認。今、あたしは両手両足を使って起伏の少ない城壁にしがみついていたわけで・・・・・・って、
(手、離しちゃ駄目じゃん!?)
頭の中が真っ白になるのと同時に体が傾いた。とっさに思い浮かべた顔はロッキンツォンさんのもの。でもいくらロッキンツォンさんでもご都合主義にここに表れたりはしないだろう。
あたしはぎゃーっと悲鳴をあげることもできず、引きつった笑みを浮かべながらまっさかさまに転落していった。
マサは、迷子になった挙句に世界を一周した経験があります。