私を殺した貴方への贈り物
「旅行に行かないか?」
そう夫から声がかかって、思わず私は表情が抜け落ちてしまった。
だってこう聞こえたの。
そろそろ死んでくれないか?
ってね。
夫はアンダーソン伯爵家の令息である、マーカス。
私はその妻のメリエラ。
元男爵令嬢の私が買われてきたのは五年前だ。
婚約したのは七年前。
初心者になった途端、両親は私をなるべく高く売れる相手に売った。
見た目は悪くないけれど、貴族の中では地味な方だ。
焦げ茶の髪に橙の瞳。
本来なら学園に通う年齢だったけれど、そんな寄付金はロッド男爵家には無かった。
一番高値を付けたのはアンダーソン伯爵家だ。
持参金は無い。
けれど支度金がある上に、離縁した時には財産を持たせてくれるという契約。
そもそも離縁しなければ発生しない金銭だけど、親は支度金を受け取れればそれで良かったのだ。
勿論私の支度になんか一切使われない支度金。
花嫁衣裳まで伯爵家が用意してくれた。
何故婚約者を買わなくてはならなかったのか。
それは、一人息子のマーカスが学園で出会った平民の女性と恋仲に落ちたからだ。
相手は子爵家の庶子で、平民の母親と二人暮らし。
父親の子爵は正妻に首根っこ捕まえられているので、認知も出来ず。
どうにか商家や良い相手に嫁がせたいからと、学園にだけは通わせていたらしい。
そして、出会ったのがマーカス。
まあ色々揉めるだろう。
子爵家の姉達も未婚で、異母妹の庶子が伯爵家の嫡男に見初められたのだから。
子爵としては認知した上で養女に迎えて伯爵家に嫁がせたかったらしいんだけど、妻と娘達が猛反対。
だって、庶子が自分達より格上の相手に嫁ぐのが許せなかったから。
同じく、アンダーソン伯爵も、片親が平民のジョアンを嫁にするなんてとんでもないと、こちらも大反対。
結局、二代続けて愛人という形で話はついた。
うん。
話はついただろうけど、結婚前に愛人がいる男に嫁ぎたい令嬢はいない。
結婚後に子供が出来て、暗黙の了解でこっそりとだとか、お互い公認でなら許されるけれど、堂々と真実の愛だってやらかしてたから、同年代の令嬢を含め、行き遅れと言われる二十歳以上の方からも断られる始末。
結局金で何とかなる私が選ばれてしまったのである。
領民を守る為に嫁ぐ……なんて崇高な理由があれば良かったけど、ロッド男爵家は所領なんか無いのだ。
代々馬鹿なんだと思う。
兄は爵位を継ぐけど、財産が無いから嫁を取るとしたら持参金目当てになる。
裕福な行き遅れの方がいつかは声をかけてくれるだろう。
私はと言えば、学園で変な虫が付いては困るという事で、学園には通わずに伯爵夫人から夫人教育を、伯爵からは領地経営を学んだ。
思いの外、それらが楽しくてバリバリ仕事をしていたら、伯爵も伯爵夫人も娘のように可愛がってくれるようになり。
だが、マーカスだけは「愛する事は無い」を貫いていた。
ある意味天晴だ。
領地の仕事はせずに、社交という名の遊びと愛人との逢瀬をしていて、跡取りの自覚無し。
あまりに素行が酷いので、どうするか義両親と私で話し合った。
「係累から養子を取った方が宜しいのではないでしょうか?」
「それがねえ……」
伯爵と夫人は顔を見合わせて困り顔。
「私の家は一子が続いてね、分家も傍流も無いんだよ。家系図を辿れば過去に遠い血縁がいるんだが、そちらも途絶えていてね……」
「珍しいですね……」
呪われているんじゃないだろうか、と思ったがそれは口に出さないでおいた。
「若い頃は呪われてるんじゃないかって話してたよ」
私が呑み込んだ言葉を、伯爵が笑いながら言う。
夫人もふふふと隣で笑っていた。
「だからね、二人目が出来ないのは当たり前だって言っていたのよね、あなた」
「うちの宿命だからね」
それは単なる軽口じゃなくて、慰めであり思いやりだ。
貴族夫人は子を成すのが大きな責務である。
周囲から言われても、伯爵はそう冗談めかして夫人を庇い続けてきたのだろう。
私は二人が羨ましかった。
「お義父様とお義母様みたいなご夫婦が、とても羨ましゅうございます」
私の言葉に二人は顔を見合わせて笑った。
「私達も、君のような娘が出来て、嬉しいよ」
「ええ、本当に」
実の両親にすら大切にされてこなかったけれど、人の縁は不思議なものだ。
優しい言葉に涙が滲み、私は誤魔化すように微笑む。
「それにね。本当にもう、無理だと思ったら爵位も領地も返上して構わないんだ」
「息子がずっとあの調子でしょう?……幼い頃、甘やかしすぎてしまったせいね」
「だからね、領民たちに迷惑をかけるくらいなら、他の適切な家に王家から与えて貰った方が良いと思うんだよ」
分かる。
あの放蕩息子は全く話にならない。
替えが利くなら替えたいけど、その相手もいないのだ。
私が孫を生めれば良かったけど、あの馬鹿は結婚式すら嫌がって。
結局家に司祭を呼んで執り行ったのである。
まあ親戚とか少ない家同士で、呼ぶ人もあんまりいないからいいけど。
そんなマーカスは誓いの言葉が終わった途端、家を飛び出した。
そのまま愛人の家に住み着いていて、金が尽きた頃にこの家に戻ってくるという生活。
何を言われてもそれを改める気が無いのは、彼がこの家のたった一人の相続人だからだ。
両親がそんな覚悟をしてるとは知らずに。
「出来るだけお二人の為に頑張ります」
私の言葉を聞いた二人は優しく微笑んだ。
二人が亡くなったのは、そんな決意を聞かされてから二年後だった。
私は社交期間でなくても王都に留まって仕事をして、二人は社交期間を終えると領地に帰って仕事をしていたのだ。
折悪しく、天候不順で足止めをくった場所で、水害による土砂崩れで二人は帰らぬ人となった。
領地で葬式をあげた時も、マーカスは参列すらしなかったのである。
篠突く雨の中、私は二人の墓前から離れる事が出来なかった。
優しい、優し過ぎる人たちだった。
他人の私にまで温かく、穏やかで、いつも陽だまりにいるような心地よさをくれた二人。
最後まで抱き合って離れなかった二人。
義父が義母を守るように抱きしめていた。
きっと、二人は怖くなかっただろう。
愛する人が一番近くにいて、寄り添っていたのだから。
だから、この涙は私の為だ。
私が二人を喪って悲しくて仕方がないのだ。
そして、夫に対しての怒り。
今まで呆れや失望はあったけど、怒りや憎しみは無かった。
でも今、私の胸が許せない気持ちで焼けつくように痛む。
「やっぱり、あの人にこの伯爵領は任せられません、お義父様」
「本日は雨の中お集まり頂き、誠にありがとう存じます。わたくしにとってお義父様とお義母様は実の親以上に大切な、愛すべき方々でした。最後まで互いを守り愛し合っていたお二人は天の国でも、お互いを慈しみ合うでしょう。遺されたわたくしは彼らの愛した領地を生涯守ってゆきたいと思います。どうか皆様お力添えくださいませ……」
葬儀後の会食で、居並ぶ領主達を相手に私は挨拶をして、頭を下げる。
既に返上は決まっているが、これは彼らの紳士としての矜持に訴えかける為の挨拶だ。
夫には領地を継がせない。
慣習通りなら、当主が死んでからの40日間、未亡人が亡き夫の館に住み続ける権利がある。
この妻の権利の期間内に、次の領主への引継ぎをしなくてはいけない。
葬儀にすら来ない夫の事だから、分かっていないだろう。
当主が決まっていない領地には、ちょっかいをかける輩もいるのだ。
でも、彼らはそれ以前に紳士である。
私の挨拶を聞いたうえで不義理をすれば、他の領主から責められて孤立する事になる。
夫の不在も相俟って、同情心と義憤を持たせることができるのだ。
「あの放蕩息子はどうした」
「愛人宅にいるらしいぞ」
「まあ、何て恥知らずな……」
密やかに交わされる人々の憤りの会話を聞きながら、私は弔問客一人一人に挨拶をしていく。
そして、その中の目当ての人物は、クランフェール侯爵令息のヴィンセントだ。
侯爵家の次男で、この領地とは隣り合っている関係で、よく伯爵や私と仕事をしていた。
彼はこの領地の事もきちんと知っている。
「ヴィンセント様、ご相談したい事があるのでございます」
「この度は心より哀悼の意を表します。私にできることがあれば、どのような些細なことでもお申し付けください。亡き伯爵との旧誼に免じ、力添えを惜しまぬ所存です」
ヴィンセントは濡れたような黒髪に、深い青の瞳をした美丈夫だ。
その眼は本当に、義父の死を悼んでいるのだと思うと胸が熱くなる。
「生前はよく一緒にお仕事を致しましたね。お義父様の蔵書について助言頂きたいのですが、ご覧になって頂いても?」
「ええ、勿論ですとも」
私は周囲の人々の温かい眼差しに見送られながら、書斎へと足を踏み入れる。
不自然でない理由で、彼と書斎で話す理由を述べたので、誰も疑うような視線は向けなかった。
扉を開けたままであれば、不貞を疑われる事は無い。
彼も私も仕事仲間であり、お互いに結婚している。
「……ヴィンセント様、この本の間に挟んだ書類をご覧になって。お義父様が遺されたものでございますの。わたくしはお義父様の遺志に従います。お義父様は何より領民を案じておいででしたから」
私が本に挟んでおいた返上届を見せると、ヴィンセントは端正な顔を怒りに歪ませた。
「あの伯爵にここまでの決意をさせるとは……」
「彼は、遠からず私を亡き者とするでしょう。ですので、貴方にお任せしたいのです」
「メリエラ様、あなたは私に、この重責を引き受けろとおっしゃるのか。男爵家の令嬢であったあなたが、全てを捨ててまで」
彼はきちんと私の意を汲んでくれた。
領地を守り抜けるのは、この地をよく知るヴィンセントしかいない。
私は頷く。
「わたくしはもう伯爵家の娘でございます。お義父様とお義母様の。あの方達の最後の望みを叶えて差し上げたいの」
私の言葉を聞いたヴィンセントは、静かに頷き返した。
「……承知いたしました。伯爵と奥様が、あなたを実の娘としてこれほど信頼された理由が、今ようやく分かりました。そのお覚悟、私がこの身に代えてもお引き受けしましょう」
まるで騎士のような彼の重厚な誓いに、私は膝を屈して感謝の礼をした。
「その時が来たら、またお知らせいたします」
葬儀後の会食が終わった後、実務をしていた者達に集まって貰った。
私は領地の領主館の整頓をして、領地管理人のリードを筆頭に、家令や代官などにこれからの相談をする。
彼らもまた、マーカスの行状は聞き及んでいてこのまま領地を継がせることには懸念があったのだ。
これが大事な布石となる。
「実は、わたくしはお義父様より、返上届を預かっておりますの」
「へ、返上ですと!?」
リードは驚きのあまり、ひっくり返りそうになった。
爵位を返上すれば新しい領主が来て、現在の領地の体制は崩れる事になり、職を失うからだ。
私は落ち着かせるために、首を横に振る。
「きちんと、新領主の目途は付いておりますの。国王陛下にも申し出るので、貴方がたの仕事は奪われる事にはならないわ。紹介状もきちんと全員分書きますから、安心なさって」
「そ、そうですか、それならば……はい。否やはありません、若奥様」
「お金がなくなったらマーカスはこちらに来るでしょうが、一切の対応を拒否して結構よ。印章の無い者の命令はきけません、とだけ言えばいいの」
ニヤリと笑ってリードは顎をつるりと撫でた。
「ほほう。それは楽しそうですな」
「ふふ、あとはいつも通りに領地を管理してくださいね。亡き伯爵の遺志を継いで下さる方にこの領地を引き渡すので、皆さまも仲良く……そして長生きをしてください」
「若奥様……」
家令が言葉を詰まらせる。
その眼には涙が滲んでいた。
「大丈夫ですわ。夫はわたくしを殺そうと企むでしょうけれど、無事生き延びたら手紙を出します。どうか、この領地と領民と、貴方達自身を大事にするのですよ」
別離は悲しい。
でも私が生きてこの領地にいても、夫の横暴は止める事が出来ない。
寧ろ、防波堤になっていた夫妻がいなくなったのだから、金銭の要求も大きくなるだろう。
爵位を彼に渡すこと自体が許されないのだ。
決定権が、男であり、正当な相続人であるマーカスに渡ってしまうのだけは、どうしても。
忠実な家臣達が悲しみに顔を歪ませつつも、覚悟を決めて頷いた。
これで金が無くなった夫が来ても大丈夫。
彼にお金は一銭も渡らない。
次は、葬式に訪れた近隣の領主への挨拶状を書いて送る。
『先日は雨の中、お義父様とお義母様のために遠路お運びいただき、心より感謝申し上げます。お二人が愛したこの領地を、皆様の温かいお言葉を支えに守って参る決意です。今年も豊かな蜂蜜がお届け出来るかと思います。亡き伯爵を偲び、どうかお求めくださいますよう』
小さな蜂蜜の小瓶も一緒にお礼として贈る事で、今後の特産品の流通にもなる筈だ。
少なくともヴィンセントが継いでくれた後も、伯爵への追悼と新領主へのお祝いで蜂蜜が売れる事だろう。
そして、使用人一人一人に紹介状を書いて、今までの感謝の気持ちを伝えて、領主達へ贈った物と同じ蜂蜜の小瓶を渡す。
この領地を守って欲しいという思いを込めて。
彼らはこれが私との別れになると分かると、涙を流して惜しんでくれた。
私も彼らと離れるのは寂しい。
でも彼らの幸せの為にも、私は行かないといけないのだ。
執事や自分の侍女を伴って王都に戻ると、そこには夫のマーカスが待っていた。
親の葬式にすら出ない、放蕩者で遊び人。
うっすらと酒と女性物の香水の香りを漂わせているが、いつもの事だ。
娼婦か愛人の付けている安っぽい匂い。
「葬儀で疲れただろう? 気分転換に、二人で静かな湖畔へ旅行にでも行かないか」
ああ、やっぱり。
殺そうと思っているのね。
そう思ったら思わず私は笑みを浮かべそうになって、表情を固まらせてしまった。
それを戸惑いだと彼は思ったのだろう。
「ほら、隣のオーブル王国の国境付近にさ、有名な避暑地があるだろう?」
「ええ、迷いの霧の森があるのでしたっけ。朝にはかならず濃霧が出るのですわよね。少し怖いけれど、森を散策するのは楽しそうですわね。……でも一週間、お時間をくださらない?」
私は時間稼ぎをする。
今すぐ旅立つわけにはいかないの。
きちんと用意をしないと。
「書類の整理をしないとなりませんの」
困ったように言えば、マーカスは肩を竦めてみせた。
仕事をやった事も無ければ、やる気も無い人だ。
あれだけ両親に怒られ、頼まれてもどこ吹く風だったのだから、私の言う事なんて聞く事は無い。
でも仕事と言えば彼は出来ないから断らないと知っていた。
「そうか。じゃあ一週間後に迎えに来るよ」
上機嫌に言って、マーカスはにやにや笑いながら部屋を出て行った。
『迎えに来る』
そんな言葉が夫から出るというのが既に可笑しい。
彼にとって帰るべき家は、平民達の住まう区域の愛人の家で、貴族街のこの邸宅ではないのだ。
自分の放った言葉の可笑しさにも気づかないまま、彼は執務室を出て行った。
さて。
わたしも準備しなくてはね。
まずは遺品整理。
領地でも整理したけれど、王都邸にも沢山の遺品が残されている。
大半は次期領主に引き継がれるが、二人の服はどれも仕立てが良い。
義父からは革の手袋、義母からはよく身に着けていた私の贈った肩掛け布を貰った。
指輪や貴金属は売る為に持ち出す。
紳士物の一式は従僕から執事まで呼んで、一揃えずつ贈る。
大きさが合えば、靴も。
「形見として受け取って欲しいの。勿論売ってもかまわなくてよ」
誰でも良い服の一着を持っていれば、平民なら困る事も無いだろう。
女性従業員には、衣装を着る機会も無いだろうから、化粧品や小物を譲り渡す。
義母の衣装や私の衣装は、次に来る領主夫人が相続する。
売るなり身に着けるなり、自由に活用できる財産だ。
王都邸の使用人達への紹介状は、私が居なくなった後で執事に渡してもらうようにまとめて渡してある。
間違っても夫の耳にその情報を入れたくないからだ。
使用人達も口は堅いが、うっかり何かしら口を滑らせる可能性だってない訳ではないし。
書類で気づく事のないだろうマーカス相手でも気を抜きたくはない。
これからの領地の未来がかかっている。
私は全ての用意を終えて、その日を迎えた。
旅に持って行く荷物は、特別な物ではない。
日常服に、外着や外套、保存食やお菓子は詰めたけど。
執事のローレンスに声をかける。
「わたくしの身に何か起きたら、宜しくね、ローレンス」
「はい。畏まりました、若奥様」
心配そうにしながらも、彼は邪魔しない。
これが唯一の道だと分かっているから。
私が自由になり、彼らも安泰な生活が送れる道。
王都を早朝に出るのは、一刻も早く私を森に置き去りにしたいからだろう。
彼は勘違いをしているのだ。
学園でも婚約や結婚の話は出ているから、持参金の話も彼は知っている。
ただ、私の実家が貧乏で、私には持参金を持たせていないという事を彼は知らない。
寧ろ支度金まで頂いた上での婚約と結婚だった。
けれど、伯爵夫妻が亡くなった今、彼は離縁を考えただろう。
そして浅はかにも、離婚したら持参金を返還しなければいけないという事に気づき、その金を返さずに済むようにしたい。
それなら、私を殺せばいいと気づいたのだ。
本来ならばそう。
私がいなくなれば、持参金は彼の物になる。
でも居なくなったところで、元から無い物は無い。
「……おい、さっきから黙りこくって。葬儀の疲れか? せっかくこうして二人きりで出かけてやっているんだ。もっと僕を敬うような言葉の一つでも言ったらどうだ」
馬鹿だなぁと思っていたらまさかの要求で、私も一瞬戸惑う。
「……そうでございますわね。葬儀で一週間かかりましたし、移動でも往復で一週間でしたでしょう。弔問客の皆様にお礼状を書いたり、書類整理をしたりと色々な雑務に追われておりましたの」
「ふん、仕事仕事と……相変わらず可愛げのない女だ。そんなに仕事が大事か? 僕という夫がいるのに、いつも書類ばかり見て。……おい、こっちを見ろ。これほど美人の妻を、白い結婚のまま放っておくのも、男として損をしている気がしてきたぞ」
突然何を言い出すのか。
美人と言われる部類の人間ではない。
男爵家より良い食べ物や良い環境で少しはマシになったけど。
私は思わず冷たい眼差しを向けた。
そして、すぐ視線を逸らす。
「……お戯れはおやめくださいませ。貴方にはジョアン様がいらっしゃるではないですか。わたくしの事は今まで通り、捨て置いてくださいませ」
「……っ、何だと? 夫に向かってその物言いは何だ。ジョアンの名を出すなと言っているだろう! ったく、お前はいつもそうだ。そうやって冷たく突き放すから、僕は外に癒やしを求めるんだ」
だって、愛人の名を出した方が貴方は私に興味を失ってくれるんですもの。
まったく便利な方だわ、ジョアン様。
今までほとんど顔を合わせる事が無かったから、気づかなかったらしいけど、まさか美人だと言われると思わなかった私は少し焦った。
ここにきて今更身体を穢されたくはない。
「申し訳ございません。ジョアン様の元で癒されてくださいませ。わたくしは今まで通りで構いませんので」
本当は今日で終わりだと、お互いに分かっているのに皮肉な事だ。
私は何も知らない妻を演じ、マーカスは私への殺意を隠している。
「ああ、そうか!勝手にしろ! お前がそう言うなら、僕は遠慮なくそうさせてもらう」
屈辱に顔を歪ませた顔をしたマーカスを見て、私はほっとする。
彼は私を直接害する勇気はない。
故意に殺したと思われたくないからだ。
湖よりも森の方が対処しやすいから誘導したのは私だけれど。
事故を装って湖に落としたら、確実に殺人を疑われるし、目の前に死体という現実が残る。
どうしたって、その後の処理……遺体を持ち帰り、葬式をあげるという実務を夫として熟さなければいけない。
他国の貴族だから、この国での取り調べの対応にも苦慮するだろう。
でも森なら。
私を森の奥に置き去りにするだけでいい。
見失ったというだけでいいのだ。
か弱い令嬢なら、森の奥から獣達を躱して、飢えや寒さを凌いで生還できる可能性は低い。
「宿の手配はしただろうが、ここまで折角来たんだ。森を散策しよう」
苛々を押し隠した胡散臭い笑顔をマーカスは顔に貼り付けている。
私は素直に従って、小さな手荷物だけを持つと、急かすマーカスの後ろに続いた。
「ええ、参りましょう」
御者に目配せをすれば、彼は頷いた。
他に持って来た私の荷物を所定の場所に隠してくれる手筈になっている。
手荷物はあくまで緊急用だ。
森の中は歩きにくいという程でもない小道が続いていたが、途中でマーカスは道を逸れて奥へと進んでいく。
「もっと奥まで行ってみよう」
「はい」
素直に付いて行く私に満足したのか、さっきまでの不機嫌は無くなって、鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気だ。
けれど、あまり奥に行くのも大変なので、適当な所で私は足を止める。
「マーカス様、申し訳ございませんが、足が痛くて……少し休んでも?」
「あ、ああ、分かった。僕はもう少し先まで見て来るよ。君は此処で休んでいると良い」
マーカスはそれは嬉しそうに笑う。
今まで見た中で一番の笑顔が、私を殺す時なんて本当に笑ってしまうわ。
でも、私も同じ位良い笑顔だったと思う。
「お気をつけて」
さようなら、あなた。
私を殺そうとした夫。
マーカスが鼻歌まじりに霧の彼方へ消えた数分後。
私が足を止めて休んでいるその場所で、音もなく草木が揺れ、護衛騎士が姿を現した。
「……お怪我はありませんか、メリエラ様」
「ええ。物資と馬の用意は?」
「万全です。森の外へ抜ける道筋も、ヴィンセント卿の部下と連携して確保してあります」
彼らは私の用意した護衛達だ。
それぞれが物資を持ち、森に馴染む軽装で立っている。
マーカスがくれた一週間で用意した人員だ。
「わたくしの荷物も回収して来て貰えたかしら?」
「ええ、此処に。森の中で淑女に荷物を持たせる訳には参りませんので、このまま私が持ちましょう」
「お願いします。手荷物はこのまま、わたくしが自分で持ちますわ。参りましょう」
その日オーブル王国とレブラン王国の境界の森近くの修道院に若い女性が保護された。
彼女の身形は森を抜けて来たので汚れ、衣服にも傷があったが、明らかに高貴な佇まいである。
不安げに記憶を失くしたという彼女を保護した神父と修道女は、慌てて領主に連絡をした。
領主が迎えに訪れ、彼女は保護されたのである。
記憶喪失の振りをした私です。
修道院にそのまま住み着くつもりだったのだけれど、確かにこれでは領主に連絡がいってしまっても仕方のない事。
まずは一晩身体を休めるように言われて、言葉に甘えた。
そして翌日。
「わたくし……どうして、あのような恐ろしい森に迷い込んだのか……誰かに捨てられたのでしょうか」
客人として丁寧に扱ってくれている領主様に申し訳ないので、旅券を渡す事にした。
記憶喪失なので、事情はそちらで調べて貰おう。
どうなっているのかも気になるし。
「名は……メリエラ・アンダーソン……伯爵家か」
旅券を手にした領主が呟いた。
そして、きりっとした真摯な目で言う。
「何があったのかは存知ないが、か弱い淑女を置き去りにする様な者達がいる場所へ事情も分からないまま返したりはしない。貴女は客人としてこの城で疲れた身体を休めると良い」
「ありがとう存じます……あの、図書室の利用はお許し頂いても?」
さすがにこのオーブル王国の事を細部までは知らない。
今後の事を考えるなら学びは必要だ。
「図書室か。ああ、構わんとも。エドワード、案内して差し上げなさい。重い書物を取る手伝いも必要だろう」
「……はい、父上。喜んで」
濃紺の髪に氷青色の瞳の青年が会釈をして、手を扉の方へ向ける。
私はその案内に従って図書室へと向かった。
「どんな本をご所望ですか?」
「まずはこの地の事を知りとうございます。どんな地理でどんな作物が育ち、どんな方達が暮らしているのか……わたくしをこんなに大事にしてくださるのですから、優しい方達が住まう土地だというのは存じ上げております」
「……驚きました。普通、記憶を失った方は、ご自分の出自や華やかな歴史を調べたがるものですが……。貴女はまず、この土地の今を知ろうとなさるのですね」
彼の冷たい氷のような瞳が深い情熱を帯びる。
この方もこの領地を愛されておいでなのね。
「このバルメールは、冬が長く厳しい土地です。ですが、だからこそ人々は辛抱強く、結束が固い。作物は……先ほど貴女が手に取られた統計の通り、小麦が命です。決して楽な暮らしではありませんが、貴女が仰る通り、皆、真面目で優しい者たちばかりですよ」
私はその領民に向ける彼の言葉に、胸の中がじんわりと温かくなった。
ああ、こういう方に治めて頂ける地は幸せね。
エドワードは棚の奥から、一冊の分厚い地誌を取り出し、恭しく私に差し出してくれた。
「これには、我が領の土壌から水脈、各村の特質まで記されています。……もしよろしければ、私が解説を。……貴女のような聡明な方に、我が故郷を知っていただけるのは、この上ない喜びです」
「貴方はこの土地と領民を愛していらっしゃるのですね。その様な方に治めて頂ける地は幸いでございますわ。是非、解説をお願いいたします」
伯爵夫妻と過ごした日々が胸を過る。
領地の事を共に考えられる人と話すのは喜びだ。
エドワードは、地誌を手に取った私の隣に、敬意を込めて一歩近づく。
それは、不快な距離ではなかった。
「……恐縮です。領民を愛するのは、このバルメール公爵家に生まれた者の義務ですから。ですが、貴女のような方にそう仰っていただけると……不思議と、報われたような心地がします」
彼は、分厚い地誌を開き、頁を指し示た。
「ここは国境沿いの小麦畑です。冬の寒さは厳しいですが、春になれば……見渡す限りの黄金色が広がります。もしよろしければ、この記録だけでなく、実際の収穫の様子もいつかお見せしたい。貴女のその真摯な瞳に、我が領の誇りを見ていただけたらと……」
「それはさぞ美しく壮観な風景でございましょうね。是非拝見しとうございます。……治水についてのお話を伺っても?この小麦は寒さにつよい種なのでございましょうか?」
とても楽しい。
領地を愛し、豊かにしたいという義両親と同じ熱を感じる人と話すのが、とても楽しいのだ。
失ったぬくもりが返ってきたようで、私は天に感謝をしつつ彼に問いかける。
彼は熱に浮かされたように、再び地誌の頁をめくった。
「……信じられない。貴女は、このバルメールがなぜこれほど豊かな小麦を産み出せるのか、その核心を一瞬で見抜かれた。……ええ、おっしゃる通りです。我が領の小麦は、先代が北方の山脈から持ち帰った『雪解けに耐える独自の種』。そして、この迷いの森から引き込んだ複雑な治水路こそが、バルメールの生命線なのです」
「まあ……治水路……とても興味深いですわ。雪解けに耐える小麦……雪小麦とでも呼びましょうか。雪小麦はそのまま流通させておいでですか?」
「雪小麦……。なんという、美しくも的を射た呼び名だ。これからは、我が領の誇りをその名で呼びましょう」
特産物を我が領の誇り、と迷いなく言える姿に敬愛を覚える。
そして、伯爵領の蜂蜜を思い出して、胸が僅かにチクチクと痛む。
私の故郷とも言える、彼の地の甘い蜜。
私の守りたい、義両親の愛した土地。
そうね……きっと遠く離れていても守れるわ。
エドワードが熱を込めて説明を続ける。
「……鋭いご指摘だ。残念ながら、現状は収穫したままの状態で、安値で卸すしかありません。この寒冷地では加工の技術も、効率的な流通販路も不足しており……。せっかくの『雪小麦』が、他領ではただの雑穀と混ぜられ、価値を失っているのです」
エドワードは、図面を指し示す指先に力を込めた。
「もし、この雪小麦を粉にし、独自の特産物として流通させることができれば……バルメールは変わる。……メリエラ様、貴女は、私が数年悩み続けている流通の問題を、その一言で突いてしまわれた」
流通は多分、オーブル王国よりもレブラン王国に流す方が安上がりで高く売れる。
何せ王都が近いのだ。
でもそれは後回しにする。
まずは小麦粉への加工が先。
私は地図の上の治水路を指さした。
「わたくしに幾つか考えがございますの。まずこの治水路に水車小屋を建てて、小麦粉に加工するのは如何でしょうか?」
「水車小屋……治水路の勾配と水圧を、粉挽きに転用するのですか!」
エドワードは弾かれたように立ち上がる。
図書室の静寂の中で、彼の歓喜の声が響いた。
「……盲点でした。我々は治水路をただ、水を運ぶものとしてしか見ていなかった。しかし、あの雪解け水の勢いがあれば、巨大な石臼を回し、人力を介さずに大量の『雪小麦粉』を精製できる!」
エドワードは、私がさらさらと図面の端に書き込んだ、水車の配置案を食い入るように見つめた。
「これなら、冬の間も凍らない治水路の利点を活かして、通年での加工が可能になります。……メリエラ様、貴女は……貴女は我が領に、どれほどの富をもたらそうとしているのですか」
彼は、実務の興奮で熱を帯びた自分の手を、思わず私の指先に重ねそうになり、慌てて敬意を込めて手を引っ込めた。
私も手放しで褒められて、嬉しさに笑みを浮かべる。
が、地図に勝手に配置案を書き込んでしまった。
「も、申し訳ございません。大事な地図に勝手に書き入れをしてしまって……!」
エドワードは、申し訳なさそうに身を縮める私の手元を、宝物を見るような目で見つめる。
「……謝る必要など、どこにありますか。この書き込みこそ、我が領が数十年探し求めていた、答えそのものです。……この地図は、今この瞬間から、我が家の家宝になりますよ」
彼は、墨が乾ききらないその配置案を愛おしそうに指でなぞった。
「メリエラ様。貴女が書き入れたこの数本の線が、何百人、何千人の領民を飢えから救い、冬の間も仕事を与えることになる。……貴女のその手は、魔法使いの杖よりも素晴らしい価値を産み出しているのです」
「お役に立てましたら幸いでございます。幸い迷いの森も近いので、少しくらいなら木を切って小屋にするのも問題ございませんよね?」
迷いの森から引き込んだ治水路なのだから、森が近くて楽である。
だが、許可を得られればいいなあ、くらいの思い付きで言った言葉に、エドワードが食いついた。
「迷いの森の木を、水車小屋の資材に……!」
ああ、そうか。
彼らは長年彼の森を畏れていたのかと今更ながらに思い起こして私は蒼褪めた。
それぞれの土地には文化や慣習があるというのに…。
「……驚きました。我々はこの領地に住みながら、あの森を人が迷い込む恐ろしい場所として遠ざけてきました。しかし、貴女にとっては……あそこは、良質な木材が眠る宝の山に見えているのですね」
エドワードは、私が書き入れた配置案と、窓の外に広がる森の境界線を交互に見つめた。
「ええ、もちろんです! 父上の許可など、私が一瞬でもぎ取ってきます。国境沿いの木を伐採して、治水路の脇に水車を建てる……。これで、輸送費用も建築費用も最小限に抑えられる。……メリエラ様、貴女は、この領地の『眠れる富』を呼び覚まそうとしている」
「治水路もありますから、川に木材を浮かべて運べば、運搬も楽でございましょうしね」
輸送費用の削減とはそういう事だろうと思ったが、違ったらしい。
エドワードの瞳が見開かれた。
「……川を使って、木材を流す……」
あら?
そういう意味ではなかったのかしら、と私が見守ってみると、息を吹き返したように彼が喋り出す。
「……信じられない。我々がこれまで、森から切り出した巨木を運ぶのにどれほどの馬と人手、そして歳月を費やしてきたか……。川を『道』として使う。その発想一つで、工期も費用も劇的に短縮される!」
彼は、私が書き入れた治水路の図面を、食い入るように見つめ直した。
「……メリエラ様。貴女は、このバルメールの土地の形を、水の流れを、まるですべて知っているかのように操られる。……貴女が微笑みながら仰るその計画が、この領地の千人の命を救い、万の富を産むのだと、ご自覚されていますか?」
エドワードの氷青色の瞳は、情熱と敬意で燃えるように輝いている。
「いえ、あの買い被りでございますわ。エドワード様が輸送費用を最小限にと仰ったから、そういう事なのだと勘違いをしただけでございますの……」
恥ずかしくて、頬に熱が集まっていく。
勝手に壮大にして褒められるのは、とても恥ずかしい。
「……勘違い、などと。とんでもない」
彼はふるふると首を横に振った。
「……費用を最小限に、という私の一言から、川の流れという物流に森の資材という資源を瞬時に結びつけてしまわれた。……メリエラ様、貴女が勘違いで導き出したその答えこそが、我がバルメール公爵家が何代もかけて到達できなかった真理なのですよ」
彼は、椅子を引き寄せ、私の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「川を物流に使う。その発想一つで、我が領の冬の景色は一変するでしょう。……メリエラ様、貴女が何者で、どこから来られたのか。今はまだ、思い出さずとも構いません。ただ、貴女のその知恵が、このバルメールの地を救おうとしている……その事実だけで、私は貴女を心から尊敬し、歓迎いたします」
彼は、書き込まれた配置案地図を大切に巻き取った。
「この案は、私が責任を持って父上……公爵閣下に伝えます。……そして、貴女が安心してこの図書室で、あるいはこの城で過ごせるよう、全力を尽くすことを誓いましょう」
大袈裟だと思いつつも、確かに逆だったら私も嬉しかっただろうと思う。
実際に仕事で真摯に対応してくれたヴィンセントに感謝もしていた。
きっとそういう事なのだろう。
少なくとも、受け入れて貰えたことに安堵する。
「ご配慮、有難く存じます。わたくし……この地に居ても宜しいのですね」
「居ても良いなどと……。むしろ、我がバルメールが貴女を離したくないのです。貴女のような方がこの地に光をもたらしてくださるというのに、拒む理由などどこにもありません」
騎士と同じ位立派な体格で姿勢よく立ち上がったエドワードが真剣な眼差しを向けた。
「……ここを、貴女の新しい家だと思ってください。図書室の鍵も、書き物に必要な道具も、すべて貴女の自由です。……貴女がこの地の治水や小麦を案じてくださるなら、私はそのすべてを形にするために、泥にまみれることさえ厭いません」
「はい。どうか、領民の皆様の為にお役立てくださいませ」
「……ああ、必ず」
私は満足して、彼の図書室を出ていく背中を見送った。
あとはお借りした本と、この国の刺繍の図案でも借りて、部屋で読もう。
そしてその日の内に、公爵家のお抱えの医師が私に遣わされた。
どうやら、誰かによる虐待を疑っているらしい。
拒否する理由は無いので、全身くまなく調べて貰って無実?の証明とする。
その時の私は、それがどんな形で返ってくるかも分からずにいた。
穏やかに日々が過ぎる。
私は最初に駆け込んだ修道院の為に、手巾に刺繍をして寄付をする事にした。
元々、針仕事は嫌いではない。
男爵家では、強欲な両親に働かされていたので、手作業はお手の物だ。
しかも、寄付をした修道女達は何だか物凄く喜んでくれた。
「……まあ、なんて細やかで美しい刺繍なのでしょう。メリエラ様、これを本当に私共のような者に……?」
年配の修道女は、ハンカチの縁を縁取る繊細な縫い目を指でなぞり、涙を浮かべている。
何だかこの国の人達は感謝に溢れすぎている気がした。
「何を仰るのです。貴女がたは神に仕える尊い御身ですわ。何よりわたくしを救けて下さったのですもの。このくらいではご恩返しになりません。どうぞこちらを売って資金にあててくださいませ」
実際に、とても助かった。
此処に住んでも良いと思える程親切にして貰ったのだ。
元々修道院や教会で過ごしても良いなと思っていた。
今は事務官や代官の座を狙っていますけどね。
「ご恩返し、などと……。救われたのは私たちの方です。貴女様のような高貴な方が、私たちの活動を案じてくださるなんて。……この手巾を売って資金にするなど、勿体なくてとても。ですが、貴女様の御心として、大切に、この地の困窮した者たちのために活かさせていただきますわ」
困窮した者達……。
領主に恵まれたこの地でも、手の届かない人達がいるのは仕方がない事だ。
だったら、私もお手伝いしなくては。
「この地の刺繍図案を使って刺しましたの。また仕上がりましたらお持ちしますね」
「このバルメールに古くから伝わる図案を、これほどまでに慈しみ、美しく縫い上げてくださるなんて。……メリエラ様、貴女様は、ご自分も過酷な目に遭われ、異国の地で不安なはずですのに……」
私を気遣う言葉に、胸がじわりと温かくなる。
この地の人達は何処までも優しい。
私は決意も新たに宣言する。
「わたくしの不安は、貴女がたの御親切で吹き飛びましたの。それにこちらの領主様もご子息も大変領民思いの方々でいらっしゃいますから、もっと、貴女がたの生活も良くなると存じます。わたくしも微力ながら力を尽くさせて頂きますね」
「……まあ、メリエラ様……」
「ふふ。またお伺いいたしますわ」
修道女達の美しく澄んだ目を見つめて、私は微笑んだ。
さすが神に仕える方達は優しくて素敵。
挨拶をして馬車へ向かおうとすると、不意に大きな影が飛び出してきた。
エドワードだ。
「……メリエラ殿」
「……エドワード様! 視察の途中でいらしたのですか?」
熊かと思った。
驚いた私に、エドワードはこれまで以上に真摯な、そして激しい情熱を秘めた瞳を向けてくる。
「貴女の言葉、すべて聞かせていただきました。……父上や私を信頼してくださるのは光栄ですが、貴女が『微力ながら』などと仰る必要はありません。……貴女のその指先が、その知恵が、既にどれほどの光をこの地に与えているか……。修道院の皆が、そして何より私が、一番よく分かっています」
そう言って、まだ修道女たちの見つめる前で、私の手をそっと、しかし力強く包み込む。
彼女達の視線が気になるけど、目が逸らせなかった。
「貴女を不安にさせるもの、貴女をここから引き剥がそうとする不浄な過去など、私が、このバルメールの地が、一欠片も残さず焼き払ってみせます。……ですから、どうか、これからも私たちの側に……。この領民たちの、そして私の、光でいてください」
「えっ……? えっ……?」
大袈裟すぎやしないだろうか。
でも、必要としてもらえるのは、嬉しい。
修道女の皆さんも笑顔で頷いている。
「ご、ご期待に沿えますよう、邁進いたしますね」
「……邁進、ですか。ええ、共に歩みましょう。君がこの地を愛してくださるなら、私は君の行く道を、何者にも邪魔させないと誓います」
これは。
きっと就職へのお誘いだ、と私は確信する。
有能な主人の元で働ける楽しさは知っているのだ。
しかも、エドワードも修道女の皆さんも誉め上手。
私はやる気を漲らせた。
そして、私宛に手紙が届く。
商会に預けられた執事からの手紙だ。
私からの手紙は護衛騎士と別れた時に預けておいた。
無事だという報せだ。
領地の皆に対しては、この地で記憶を取り戻した事を告げるまでは連絡出来ない。
執事からの手紙は『妻が失踪』してからの報告である。
伯爵夫妻が早くに亡くなってしまった後、離縁をされた時の用意をしてくれた伯爵が書いた色々な書類を私は受け取った。
その一つが返上書であり、信託の証書だ。
何度も『仕事をしろ』『真面目に生きろ』と言われていたマーカスが、夫妻が居なくなった後で私を追い出すのは目に見えていた。
だから伯爵は私に何があってもお金が入るように信託を用意したのだ。
これは、私がずっと身に着けていた印章指輪と私の同意がないと解約できない。
印章指輪も既に森を出る頃に訪れた、ヴィンセントの使者に渡してある。
彼が次の正当な後継者であり相続人だからだ。
それに対して伯爵は実の息子であるマーカスに信託は用意していない。
返上書が正式に受理されれば、新しい領主に私が望んだヴィンセントに爵位だけでなく領地と、屋敷や資産が全てヴィンセントの相続になる。
今まで蓄えた資産の一部は私個人の信託とは別に、信託財産として屋敷と使用人達の給与に使われる仕組みだ。
両方とも信託財産なので、マーカスは指一本触れることが出来ない。
相続も出来ないので、無一文になるのだ。
その期限が、もうすぐ。
妻の権利の期間の期間が40日。
遺産の相続に対する行動や異議申し立てなどは、この期間にしなくてはいけない。
マーカスは私が失踪したと言いながら、執事にお金の無心をしに現れたようだ。
想定済みだったので、一か月分のお小遣いを渡すように執事には命じてあった。
そうすれば愛人宅に戻って、時間が経てば『私を殺した』件がうやむやになるだろうと隠れて過ごすだろう。
だが、同じ時期にヴィンセントが動いた。
社交界で伯爵夫妻の葬式を一人で健気に取り仕切った妻が、夫に殺されるのではと怯えているという噂。
私が旅立ったその日に、執事に付き添ってヴィンセントは王城へ行き、国王の裁可を得たうえで、その話を広めたのだ。
そして帰ってきて『妻が失踪した』と主張した夫は、社交界で『妻殺しの悪逆夫』となった。
でもそれを、マーカス本人だけが知らない。
何故なら彼は正式な夜会どころか、男性達の集まる社交倶楽部にも顔を出していないからだ。
平民である愛人も愛人の母親も、貴族の噂など入ってこない。
社交界での噂は、時に法律よりも勝る。
相続に関してもそうだ。
社交界での噂が、国王の裁定にまで影響を及ぼす。
誰だって『妻を殺した可能性が高く、仕事をしない夫』よりも『友人ながら妻を助けていた侯爵家の次男』の方が領地を継がせるのが安全だと思うだろう。
国王としてはみすみす馬鹿に家を継がせて、財産を食いつぶして領民を苦しめる未来しかなさそうなマーカスよりも、元々爵位も血筋もよく有能な侯爵家の次男のヴィンセントの方に治めさせたい、となるのだ。
少なくとも前伯爵の返上の書類は伯爵の手跡で書かれ、署名もあり印章による押印がある正式な物。
彼は信託と返上書を私の結婚したその日にしていた。
死後にその書類を見つけて、私は胸が詰まって大号泣をしたのだ。
親に愛されなかった私が、義理の親には愛されていた証拠だったから。
社交界の噂、正式な書類、国王の裁可。
それはもう取り返しのつかない、マーカスへの包囲網の完成だ。
私は手紙を読み終えると深く溜息を吐いた。
お金が尽きる、41日を過ぎた期限切れの後、マーカスは思い知ることになるだろう。
最近、どうもジョアンの奴が冷たい。
ジョアンの母親も以前みたいな阿る雰囲気も無く、距離を置いている。
僕が伯爵様になったからだろうか。
煩い両親が死んで、邪魔な嫁も死んで、今は身軽だ。
「おい、ジョアン。煩い両親が死んで、邪魔な嫁も死んで、今は身軽だ。僕たちやっと結婚出来るな」
僕はニヤけながらジョアンの肩を抱こうとした。だが、彼女はまるで這い回る虫でも見るような目で僕を撥ね退けた。
「……近寄らないで、マーカス。気安く触らないでよ」
「な、なんだよ。照れてるのか? 十年も待たせたけど、これからは僕が伯爵様だ。君を女主人にしてやれるんだぞ?」
僕の言葉にジョアンは馬鹿にしたように嗤う。
「伯爵様? ふふ……。お父様に言われたわ。『あの男はもう終わりだ。関われば共犯として処刑台に送られるぞ』って。お母様があなたを避けるようになったのも、お父様の命令よ」
ジョアンの声は、以前の甘ったるい響きが嘘のように冷え切っていた。
「処刑台……? 何を言ってるんだ。事故だよ、森ではぐれただけだ! 証拠なんてどこにも……」
「証拠なんて関係ないわ。社交界ではもう、あなたが奥様を殺そうとして連れ出したって噂で持ちきりだそうよ。侯爵家のヴィンセント様がそう仰っているんですって。それなら、誰も疑わないわよね。……ねえ、マーカス。まさか自分がまだ『選ばれる側』にいると思っているの?」
覗き込むように言われて、僕は言葉を失う。
漸く絞り出した声は震えていた。
「ジョアン……冗談だろ? 愛してるって、十年も……」
「愛? 十年? ……ああ、鬱陶しい。お父様に言われた通りにするわ。……もう二度と、この家の敷居を跨がないで。人殺しの疑いがある男なんて、顔を見るのも反吐が出るわ」
ジョアンは僕を突き飛ばすと、バタンと激しく扉を閉めた。
内側から鍵をかける、ガチャンという重い音が響く。
「おい! ジョアン! 開けろ! 僕は伯爵なんだぞ! 金なら……金なら明日持ってくるから!」
扉を叩き続けたが、返事はない。
代わりに、二階の窓が勢いよく開いた。
「しつこいわね! 誰か、衛兵を呼んで! ここに人殺しがいるわ! 私を道連れにしようとしている不審者がいるのよ!」
ジョアンの絶叫に、近隣の家の窓が次々と開き、冷ややかな視線が僕に突き刺さる。
「……ジョアン、お前……」
僕は、十年通い詰めたはずの家の前で、一文無しのまま、ただの「不審な男」として夜の街に放り出された。
私は事務官を目指す為に、役に立つというところを見せるべく、奮闘していた。
執事からの手紙にはきちんと自分が公爵家の客人になっている事と、頑張って事務官を目指す事も書き添えておく。
上手くいったら、仕事のお話がしたいとヴィンセントへの伝言も頼んだ。
良い事を考え付いた私は、まずは雪小麦を使った焼き菓子作りを始める。
お城の厨房では迷惑になるかもしれないので、修道院の厨房を貸して欲しいと頼んだら、快く了承してくれた。
持って来た宝石を商会で売って、材料を買う資金に変える。
砂糖と少しの塩とバターに雪小麦の小麦粉。
塩は甘みを引き立てるのに良いのだ。
焼き上がった焼き菓子を修道女達と孤児達に振る舞って、感想を聞く。
「……まあ! なんて香ばしくて、優しいお味。メリエラ様、これをご自身で?」
「ええ。見様見真似ですけれど」
孤児達は、見たこともない黄金色のお菓子を小さな手で大切に持ち、一口かじると、ぱっと顔を輝かせた。
「サクサクしてる! メリエラ様、これ、いつものパンよりずっと甘くて美味しいよ!」
「口の中で雪みたいに溶けるね。……これ、本当に僕たちが食べていいの?」
子供たちの無邪気な歓声に、修道女たちも目尻を下げ、お茶を淹れながら深く頷いている。
「雪小麦特有の、あの力強い香りがバターと重なって、これほど上品な風味になるとは……。メリエラ様、貴女様は美しい刺繍だけでなく、台所の仕事までこれほど完璧にこなされるのですね」
「喜んで頂けて嬉しゅうございます。そうだわ、子供達、わたくしと一緒にお勉強しましょう」
私はその思い付きをすぐさま実行に移す。
国境近くのこの地域で、二つの国の言語を覚えれば、将来商人として働けるようになる。
早速私は子供達に勉強を教え始めた。
「きちんとお勉強した良い子にはまた焼き菓子をあげますからね」
「わあ、お勉強する!」
「焼き菓子、また食べられるの!?」
子供たちの歓声が修道院の庭に響き渡る。
私が手近な石盤にさらさらと文字を書き込むと、子供たちは身を乗り出してその手元に注目した。
「さあ、まずはこの国の言葉で『パン』。そして、あちらの国の言葉ではこう書きますのよ。……ふふ、将来、皆さんが立派な商人になって、この美味しい雪小麦を世界中に広める時に、きっと役に立ちますわ」
視察帰りのエドワードが、修道院にいた私を迎えに来てくれた。
見送ってくれた修道女と孤児の皆に手を振って馬車に乗り込む。
「……メリエラ殿。君は、自分の持ち出しでクッキーを焼き、子供たちに二つの国の言葉まで教えていましたね」
エドワードの声は、いつになく低く、熱を帯びている。
私はどきりとした。
事務官へのお誘いかしら、と胸がときめく。
「君がこのバルメールで『事務官』のような役職に就き、自立したいと願っていることは重々承知している。……だが、今日、君が子供たちに未来を説く姿を見て、私は確信したんだ」
私は、彼の真剣な眼差しに少し戸惑う。
何だか良くない報せかしら。
だが、って駄目って事よね?
「わたくしの教え方が、この地の習慣に合わなかったのでしょうか……?」
「違う。……逆だ。君をどこかの部署の部下として、机の前に縛り付けておくなど、この地の、そして私の損失だ」
エドワードは意を決したように、そっと、包み込むように私の手を取った。
「私の隣にいてほしい。バルメールを、私と共に導く公爵夫人として。君が望む『土地を慈しみ、人を育てる仕事』は、この領地の女主人として、思う存分振る舞っていただきたいのです。……このバルメールの未来を、私と一緒に縫い上げてはくれませんか?」
事務官の採用内定を期待していた私にとって、それは想像もしなかった、けれどこれ以上ないほどに自分のこれまでの研鑽を肯定してくれる言葉だった。
「……えっ……? えっ……。……わたくしが、公爵夫人……? 事務官、ではなく……?」
混乱する私に、エドワードは力強く、しかし慈しむように頷いた。
「ああ。君のその素晴らしい知恵と、ひたむきな真心。それを一生、私の隣で貸してほしいんだ」
でも、駄目だ。
それは断らなければならない。
私は胸が痛んだ。
「エドワード様……? 公爵夫人、だなんて……。わたくし、事務官として雇っていただけるものとばかり……。……いいえ、お断りしなければなりません。わたくしには、貴方に捧げる資格などないのです」
声が震えないように、祈りながら伝える。
今まで記憶喪失だと隠していた嘘を。
きっと公爵の方で事情は調べてあるだろうけど。
「……実は、記憶は戻っておりますの。わたくしは隣国の伯爵夫人。……愛人に溺れた夫に、持参金を惜しまれ、殺意を持ってあの森に捨てられた身なのです。離縁も済んでおりません。……わたくしのような汚れた過去を持つ者が、貴方の隣に立つなど、あってはならないことですわ」
ずっと隠しておくつもりだった訳じゃない。
時機が来たら話すつもりでいた。
でも、彼の優しさを裏切る様で涙が勝手に零れる。
私はこれで追放か、良くて何処かの事務官になれれば良い方だろう。
けれど。
エドワードは動じなかった。
それどころか、愛おしげに見つめながら、私の涙を節くれだった指で拭い、優しく微笑む。
「……知っていましたよ、メリエラ。貴女が誰で、貴女の夫が貴女に何をしようとしたか。……そして、貴女が自分の命よりも領民を守る事を優先した、高潔な女性である事も」
「えっ……? ご存知、だったのですか?」
「ええ。父上がすべて調べ上げ、既に我が国の王から隣国の王へ、強い抗議と共に『婚姻無効』の要請を出しました。……昨夜、正式に受理されたとの報せが届いた。貴女はもう、あんな男の妻ではない。……心も、体も、そして法の下でも、貴女は誰のものでもない、自由な女性だ」
調べるとは思っていたけれど、婚姻がどうにかなるとは思っていなかった。
私は驚きすぎて、声が出ない。
彼は狭い馬車の中、床に跪いた。
「過去に汚されたことなどない、清廉な乙女であることも……医師から聞いております。……メリエラ。君の過去は、私がすべて白紙に戻した。……どうか、事務官や代官ではなく、私の妻として、新しい未来を共に歩んでほしい」
「……はい。わたくしで良ければ、喜んで」
知らない所で伯爵夫妻に守られていたように、ここでも、私は守られていた。
虐待が無いか調べてくれた医師が、清いままだということも証明してくれたのだ。
そして、公爵閣下がこのオーブル王国の国王に、親書を送ってくれて。
私の居たレブラン王国の国王と手紙でやりとりをして、婚姻を無効にしてくれたのだという。
やっと、全てから解放されて。
私は領地を愛して身を捧げる人と、この新しい土地とかつて愛した土地を繋ぐかけはしとなるのだ。
長くなっちゃいました。本当はもっとざまぁターン考えてたのですが短く…領主父子のやりとりとか領主夫人との顔合わせとか色々書きたかったけど、取り敢えずはぎゅっと短編で。
鋭いひよこ読者様は気付くと思いますが、蜂蜜と小麦の特産……蜂蜜クッキーですよね!!!今後二つの領地が協力して美味しいお菓子が出来ます。
今年もメリーチョコの弾けるチョコ食べました。美味しい…美味しい…!
※※
一応エドワード(チョロワード)の弁明しますと、川が近くにあるという前提でしか川を使うって発想が出来ないからですね。禁忌ではないけど、森の木を切るっていう前提が彼の頭の中に無く、他の森から切って馬車で運んで…と考えていたのです。逆にメリエラは森の木切るからそのまま治水路使えばいいじゃん?と直結出来たという差ですね。
白紙化については……公爵家の先走りですね(結婚したかった…)。でもじゃあ無効にしないでいたら、いつまでも駄目夫との縁が繋がっていたわけで。メリエラは命まで奪いたいわけじゃないから刑事告発は出来ず、彼が生きている限り夫婦でいる事になるというお話になってしまいますね。元々メリエラもそのつもりでした。流石に愛した伯爵夫妻の遺児である夫を害したくはないので…逆に夫はメリエラから生きていると知れば絶対離れないので、結局は白い結婚による婚姻無効(高位貴族の介入)でしか決着はつきません。それに伯爵夫妻との繋がりは法的な根拠よりも、領地で繋がっていると思うのです。
沢山の感想ありがとうございます!




