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第3話「図書館の番人と夜の約束」

 翌日も、私は変わらぬ日常を過ごしていた。

 朝食を摂り、刺繍のレッスンを受け、午後には社交界の知人を訪ねる。全てが、前の世界線と同じ。だが、私の心は常に不安に満ちていた。

 リオン侯爵の脅し。

 セルゲイの違和感。

 そして、書士の警告。

 全てが、私の心を重くする。

 夕刻、私は再び王立図書館を訪れた。

 昼間の図書館は、多くの学者や貴族で賑わっている。私は人混みを避けながら、奥の書架へと向かった。あの黒い本を見つけた場所。だが、そこに本はなかった。

「探し物かな?」

 背後から声がして、振り返る。

 そこには、昨夜の書士が立っていた。

 今日はローブを脱いでおり、普通の司書の服装をしている。顔もはっきりと見えた。年齢不詳の、中性的な顔立ち。長い銀色の髪を後ろで束ね、琥珀色の瞳が私を見つめている。

「あなた……書士」

「昼間はただの司書だよ。夜になれば、番人に戻るが」

 書士は微笑んだ。その笑みは穏やかだが、どこか人間離れした雰囲気を纏っている。

「契約の書を、探しているのか?」

「ええ。もう一度、確認したくて」

「本はここにはない。必要な時にだけ、現れる」

 そう言って、書士は書架の間を歩き始めた。私も後を追う。

「あの……昨夜、言っていたことについて」

「世界の歪み、か?」

「ええ。私がやり直したせいで、本当に何か悪いことが起きるの?」

 書士は立ち止まり、書架から一冊の本を取り出した。

「この本を見てごらん」

 差し出されたのは、古い歴史書だった。『アルトリア王国の興亡』という題名。

「これは、百年前に書かれた歴史書だ。だが、この世界では、この本に書かれている歴史が実際に起こったことになっている」

「当たり前じゃないですか。歴史書なんだから」

「いや、違う」

 書士は首を横に振った。

「実は、この歴史は書き換えられたものだ。誰かが契約の書を使い、過去の選択を変えた。その結果、歴史が変わった。だが、世界はそれを『最初からそうだった』ことにする」

「それって……」

「そう。誰も気づかない。本人以外は、全員が新しい歴史を受け入れる。まるで、最初からそうだったかのように」

 背筋が寒くなった。

 つまり、私がやり直した世界も、周囲の人間にとっては『最初からこうだった世界』なのだ。セルゲイが記憶の違和感を覚えているのは、彼が代償の対象だから。だが、他の人々は何も気づいていない。

「でも、それなら問題ないんじゃ……」

「いや、問題は大きい」

 書士は本を書架に戻した。

「世界は必ず、バランスを取ろうとする。因果を捻じ曲げれば、どこかで必ず反動が起きる。あなたが婚約破棄を防ごうとすれば、別の形で不幸が訪れる。それは、あなたかもしれないし、あなたの大切な人かもしれない」

「そんな……」

「それでも、やり直すかい?」

 書士の瞳が、私を見つめる。

 私は唇を噛んだ。

 やり直せば、代償がある。

 やり直さなければ、婚約破棄が起きる。

 どちらを選んでも、苦しみが待っている。

「私は……どうすればいいの」

「それは、あなたが決めることだ」

 書士は静かに言った。

「だが、一つだけ助言をしよう。契約の書は、あなたの願いを叶える道具じゃない。あなた自身が答えを見つけるための、試練だ」

「試練……」

「そう。本当に大切なものは何か。本当に守るべきものは何か。それを見極めるための、試練」

 その言葉が、胸に刺さった。

 私は本当に、セルゲイとの婚約を守りたいのだろうか。

 それとも、ただ屈辱から逃れたいだけなのだろうか。

 自問自答する。だが、答えは出ない。

「考える時間は、あまりない」

 書士が言った。

「三日後の夜会まで、あと二日。その間に、あなたは決断しなければならない」

「もし、もう一度やり直したら……代償は?」

「次は、もっと大きなものになる。セルゲイ・アルノの記憶だけでは済まないだろう」

「じゃあ、何が……」

「それは、契約してみなければ分からない」

 書士はそう言って、書架の奥へ消えていった。

 私は一人、その場に立ち尽くした。

 周囲には、本を読む人々の姿。誰も、私の苦悩には気づいていない。この世界は、何事もなかったかのように動き続けている。

 でも、私の心は揺れ動いている。

 その夜、私は自室で一人、考え込んでいた。

 窓の外には満月が浮かび、銀色の光が部屋を照らしている。

 机の上には、セルゲイからの手紙が置かれていた。夜会の詳細について書かれた、形式的な内容。だが、その文面からは、彼の本心が読み取れない。

 彼は、本当に私を愛していたのだろうか。

 それとも、ただ婚約者としての義務を果たしていただけなのだろうか。

 そういえば、前の世界線で、彼は何と言っていたか。

「リアナ様には、公爵妃としての資質が欠けています」

 資質。

 つまり、私には彼に相応しい能力がない、ということ。

 それは、本心だったのだろうか。それとも、誰かに言わされた言葉だったのだろうか。

 考えれば考えるほど、分からなくなる。

 でも、一つだけ確かなことがある。

 私は、セルゲイのことが好きだった。

 幼い頃から一緒に過ごし、彼の優しさを知っていた。冷たく見える彼の裏に、誰よりも温かい心があることを、私は知っていた。

 だからこそ、婚約を守りたい。

 彼を失いたくない。

「でも……それは、私のエゴなのかもしれない」

 呟いた言葉が、静かな部屋に響く。

 もしかしたら、セルゲイは本当に私を愛していなかったのかもしれない。だとしたら、無理に婚約を続けることは、彼にとって不幸なのではないか。

 それでも、私は——。

 ノックの音がして、思考が途切れた。

「お嬢様、お手紙が届いております」

 メイドの声がする。

「どうぞ」

 扉が開き、メイドが一通の封筒を差し出した。

 差出人の名前を見て、私は驚いた。

 セルゲイ・アルノ。

 彼からの、私信だった。

 メイドが部屋を出た後、私は封を開けた。

 そこには、彼の几帳面な文字で、短い文章が書かれていた。

『リアナ様

突然のお手紙をお許しください。

あなたにお尋ねしたいことがあります。

明日の午後、王立図書館でお会いできないでしょうか。

大切な話があります。

セルゲイ・アルノ』

 心臓が高鳴る。

 大切な話?

 それは、婚約に関することなのだろうか。

 まさか、もう婚約破棄を決意したのだろうか。いや、それはまだ早すぎる。前の世界線では、三日後の夜会で宣言されたのだから。

 それとも——。

 もしかして、失った記憶について、何か気づいたのだろうか。

 不安と期待が、胸の中で渦巻く。

 私は震える手で、返事を書き始めた。

『承知いたしました。明日、図書館でお待ちしております』

 短い返事を書き終え、封をする。

 明日、セルゲイに会う。

 そこで、何が語られるのか。

 窓の外では、月が雲に隠れようとしていた。

 まるで、何かの予兆のように。

 私は手紙を握りしめ、目を閉じた。

 明日、きっと何かが変わる。

 良い方向なのか、悪い方向なのか——それは、まだ分からない。

 だが、私は逃げない。

 どんな結果が待っていようとも、私は向き合う。

 それが、契約の書を使った私の、責任だから。

「セルゲイ様……」

 彼の名前を呟き、私は深く息を吸った。

 長い夜が、始まろうとしていた。

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