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第2話「一回目の選択――戻した世界の違和感」

 朝食の席で、私は両親の様子を窺っていた。

 父は新聞に目を通し、母は紅茶を優雅に啜っている。いつもと変わらない朝の風景。だが、私の心は落ち着かなかった。

 本当に、戻ってきたのだろうか。

 あれは夢ではなかったのか。

 でも、記憶は鮮明だ。雨の夜、王立図書館、黒い本、契約——。全てがはっきりと思い出せる。

「リアナ、今日はセルゲイ様のお屋敷を訪ねる予定でしたわね」

 母の声に、はっとする。

「え、ええ。そうでした」

 そうだ。この日、私はセルゲイを訪ねる予定だった。三日後の夜会に向けて、打ち合わせをするためだ。あの夜会で——婚約破棄が宣言された。

 ということは、今日セルゲイに会える。

 彼の様子を確認できる。何か変化があるのか、ないのか。

 午後、私はアルノ公爵邸を訪れた。

 広大な屋敷の門をくぐり、執事に案内されて応接室へ。心臓が早鐘を打つ。もうすぐ、セルゲイに会える。彼は、私のことを覚えているだろうか。まさか、全てを忘れているなんてことは——。

「お待たせしました、リアナ様」

 扉が開き、彼が現れた。

 セルゲイ・アルノ。金色の髪に青い瞳、整った顔立ち。いつもの冷静な表情で、私を見つめている。

「こんにちは、セルゲイ様」

 私は努めて平静を装いながら、挨拶をした。

「ええ、こんにちは」

 彼は短く返事をして、ソファに座るよう促した。

 いつもと同じ。いつもの彼だ。冷たいわけではないが、特別温かいわけでもない。淡々としていて、感情が読み取りにくい。それが、彼の普段の態度だった。

 打ち合わせは滞りなく進んだ。

 夜会での立ち居振る舞い、誰と挨拶を交わすべきか、どのタイミングで退席するか——全て、形式的な内容。彼の口調は丁寧だが、どこか機械的だった。

「それで、リアナ様は当日、どのようなドレスを?」

「ああ、青いドレスを用意しています。あなたの衣装に合わせて——」

「青、ですか」

 セルゲイの表情が、微かに曇った。

 ほんの一瞬、眉が動いたように見えた。

「何か……問題でも?」

「いえ、特には」

 彼は首を横に振ったが、どこか釈然としない様子だった。まるで、何かを思い出そうとしているのに、思い出せないような——そんな表情。

「セルゲイ様?」

「……すみません。何でもありません」

 彼は微笑んだが、その笑みはどこか ぎこちなかった。

 打ち合わせが終わり、私が屋敷を出ようとした時。

「リアナ様」

 セルゲイが、背後から声をかけてきた。

 振り返ると、彼は少し困惑した表情で立っていた。

「あの……失礼な質問かもしれませんが」

「はい?」

「私たちは、以前……青いドレスについて、何か話したことがありますか?」

 胸が、ぎゅっと締め付けられた。

「青いドレス……?」

「ええ。何故か、あなたが青いドレスを着ている姿が、頭の中に浮かぶのです。でも、いつの記憶なのか思い出せない。まるで、夢を見ているような……」

 彼の言葉に、私は息を呑んだ。

 これが、代償の影響なのか。

 セルゲイの失われた記憶——それは、私たちが一緒に過ごしたある日の思い出。もしかして、その日、私は青いドレスを着ていたのかもしれない。

「……いえ、特には」

 私は首を横に振った。本当のことは、言えなかった。

「そうですか。では、私の勘違いですね」

 セルゲイは苦笑して、そのまま屋敷の中へ戻っていった。

 帰り道、私は考え込んでいた。

 セルゲイの記憶の一部が失われている。でも、完全に忘れたわけではないようだ。断片的に、何かが残っている。それが彼を混乱させている。

 これは、良いことなのか。悪いことなのか。

 分からない。

 屋敷に戻ると、執事が私を呼び止めた。

「お嬢様、お客様がお見えです」

「お客様?」

「はい。リオン侯爵様が」

 その名前を聞いた瞬間、背筋が凍った。

 リオン侯爵。

 父の政敵であり、ヴァレンティア家を失脚させた張本人。そして——前の世界線で、婚約破棄の裏で糸を引いていた人物だと、私は後から知ったのだ。

 彼が、何故今、ここに?

「お断りして——」

 言いかけて、私は口を閉じた。

 いや、待て。これはチャンスかもしれない。リオン侯爵と直接話せば、何か手がかりが掴めるかもしれない。婚約破棄の真相に、近づけるかもしれない。

「……応接室にお通しして。すぐに参ります」

 執事は頷き、去っていった。

 身なりを整え、応接室へ向かう。

 扉を開けると、そこには中年の男性が座っていた。鋭い目つき、薄く笑う口元。見るからに腹黒そうな雰囲気を纏っている。

「やあ、リアナお嬢様。お久しぶりですね」

「リオン侯爵。ご無沙汰しております」

 私は丁寧に挨拶をして、向かいのソファに座った。

「突然の訪問、失礼いたしました。実は、あなたにお話ししたいことがありまして」

「私に、ですか?」

「ええ。あなたとセルゲイ・アルノ公爵の婚約について」

 その瞬間、私の心臓が跳ね上がった。

 やはり、この男が関わっているのか。

「婚約……について?」

「ええ。実は、私の姪がセルゲイ公爵に恋心を抱いておりましてね。あなたが婚約を解消してくだされば、姪も幸せになれるのですが」

 彼はにこやかに、そう言った。

 だが、その笑みの裏には、明確な悪意が潜んでいる。

「それは……お断りします」

 私ははっきりと答えた。

「セルゲイ様との婚約は、私にとって大切なものです。簡単に手放すつもりはありません」

「そうですか。残念ですね」

 リオン侯爵は肩をすくめた。

「では、こう言い換えましょう。あなたが婚約を解消しなければ、ヴァレンティア家は王都での地位を完全に失うことになる、と」

「……それは、脅しですか?」

「脅し? いいえ、助言ですよ。あなたの家は、既に風前の灯。あと一押しで、崩れ落ちる。それを防ぎたければ——」

「セルゲイ様との婚約を解消しろ、と?」

「ご理解が早くて助かります」

 彼は満足げに頷いた。

 怒りが、胸の奥から込み上げてくる。

 この男。前の世界線でも、きっと同じことをしたのだろう。父を脅し、私を追い詰め、婚約を破棄させた。そして、自分の姪をセルゲイと結婚させようとしている。

 全て、こいつの陰謀だったのだ。

「お断りします」

 私は再び、はっきりと答えた。

「例え家が崩れようとも、私はセルゲイ様との婚約を守ります」

「……本当に、よろしいのですか?」

 リオン侯爵の目が、冷たく光った。

「後悔しても、知りませんよ」

 彼は立ち上がり、部屋を出ていった。

 私は一人、ソファに座ったまま、拳を握りしめた。

 やはり、リオン侯爵が黒幕だった。

 ならば、彼の陰謀を暴けば、婚約破棄を防げるかもしれない。

 でも、どうやって?

 証拠もない。父も母も、彼の圧力に屈するだろう。私一人で、何ができる?

 その夜、私は再び王立図書館を訪れた。

 昼間は開館しているが、夜は閉まっている。でも、前回のように、扉が微かに開いていた。まるで、私を待っているかのように。

 中に入ると、書架の奥から微かな光が漏れている。

 光の方へ歩いていくと、そこには一人の人物が立っていた。

 黒いローブを纏い、フードで顔を隠した人物。

「……誰?」

 私は警戒しながら、声をかけた。

「契約者よ、ようこそ」

 その人物——いや、その声は中性的で、男性なのか女性なのか判別がつかなかった。

「あなたは……」

「私は書士(ライブラリアン)。この図書館の番人であり、契約の書を管理する者」

 書士と名乗ったその人物は、ゆっくりとこちらを向いた。

 フードの奥から、淡く光る瞳が覗いている。

「契約の書を……管理?」

「そう。あなたが手にした本は、この世界に数冊しか存在しない魔書の一つ。世界の理を捻じ曲げ、運命を書き換える力を持つ」

「じゃあ、あなたが私に本を——」

「いいえ。本があなたを選んだのだ。あなたの願いが、本を呼び寄せた」

 書士は静かに言った。

「だが、忠告しておこう。契約の書を使えば使うほど、代償は大きくなる。そして、世界は歪んでいく」

「歪む……?」

「選択をやり直すということは、因果を捻じ曲げるということ。世界は必ず、その歪みを修正しようとする。時には、予想もしない形で」

 その言葉に、私は息を呑んだ。

「じゃあ、私がやり直したせいで、何か悪いことが起きるの?」

「さあ、どうだろうな。それは、あなた次第だ」

 書士はそう言って、闇の中へ消えていった。

 一人残された私は、震える手を握りしめた。

 世界が歪む。

 代償が大きくなる。

 それでも、私はやり直すしかないのだろうか。

 セルゲイの様子を思い出す。彼は記憶の断片に苦しんでいた。もし、これ以上契約を使えば、彼はもっと苦しむことになるのか。

 でも、婚約を守るためには——。

「私は……どうすれば」

 呟いた声は、誰にも届かず、ただ図書館の闇に吸い込まれていった。

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