第1話「婚約破棄と王立図書館の奇蹟」
雨が、容赦なく石畳を打っていた。
私は濡れた髪を押さえることもせず、ただ王都の夜道を歩き続けていた。足元の水溜まりが跳ね、ドレスの裾が泥に染まっていく。でも、もうどうでもよかった。どうでもよくなってしまったのだ。
侯爵令嬢リアナ・ヴァレンティア――それが、数時間前までの私の肩書きだった。
「婚約を、破棄させていただきます」
あの冷たい声が、今も耳の奥で反響している。
セルゲイ・アルノ公爵。幼い頃から決まっていた婚約者。私は彼のことを、ずっと慕っていた。控えめで地味な私には過ぎた相手だと分かっていたけれど、それでも彼の傍にいられることが、何よりも幸せだった。
なのに。
「リアナ様には、公爵妃としての資質が欠けています。これ以上、婚約を続けることはできません」
社交界の真ん中で、大勢の貴族たちが見守る中、彼はそう言い放った。
理由は聞かなかった。聞いても、きっと意味がなかった。周囲の嘲笑と憐れみの視線が、全てを物語っていたから。私には何もなかった。美貌も、社交術も、人を惹きつける華やかさも。ただ本を読むことだけが得意な、地味で平凡な娘。それが私だった。
私は何も言い返せず、ただその場から逃げ出した。
父も母も、私を守ってはくれなかった。ヴァレンティア侯爵家は、今や王都での影響力を失いつつある。派閥争いに敗れ、宮廷での発言権も失った。私という娘を、もはや庇う価値がないと判断したのだろう。
「屋敷には、戻れない……」
呟いた声は、雨音にかき消された。
行く場所も、頼る人もいない。財布には僅かな銀貨が数枚。これでどうやって生きていけばいいのか、考える気力さえ湧かなかった。明日からどうすればいい? 宿屋に泊まれるのは数日が限度だ。その後は? 仕事を探す? 侯爵令嬢に何ができる? 何も、何もできやしない。
気がつけば、私は王立図書館の前に立っていた。
巨大な石造りの建物が、夜の闇の中でひっそりと佇んでいる。普段なら夕刻には閉館するはずだが、今日は何故か正面の扉が微かに開いていた。
まるで、私を招いているかのように。
「……入っても、いいのかな」
躊躇いながらも、私は扉を押し開けた。
重い木の扉がきしみ、内部から古い紙とインクの匂いが漂ってくる。足を踏み入れると、そこは静寂に包まれていた。蝋燭の明かりだけが、書架の間を薄く照らしている。人の気配はない。本当に、誰もいないのだ。
王立図書館。
ここは王国最大の知識の宝庫だ。幼い頃、私はよくここに通っていた。社交界に馴染めない私にとって、本だけが友達だった時期があったのだ。歴史書を読み、詩集に浸り、魔法学の理論書に目を通す。そんな日々が、私には心地よかった。
書架の間を歩きながら、私は自然と足を奥へと進めていた。涙で霞む視界の中、背表紙の文字が流れていく。
歴史書、魔法学、植物図鑑、詩集、神話、伝承——。
どれも懐かしい。私がここで過ごした、穏やかな時間の証。あの頃は、まだ未来に希望があった。セルゲイと結ばれる未来を、信じることができた。
「もう、あの頃には戻れないんだ……」
膝から力が抜けて、その場に座り込んでしまった。
冷たい床の感触が、現実を突きつけてくる。
全てが終わってしまった。
婚約も、家族も、未来も。
何もかもが、崩れ去ってしまった。
どれくらいそうしていただろう。
ふと、目の前の書架に、見慣れない本があることに気づいた。
黒い革装丁の、薄い本。
埃一つ被っていないのに、まるで何百年も前からそこにあったかのような、不思議な存在感を放っている。周囲の本が古びて色褪せているのに、この本だけが闇の中で鈍く光を放っているようだった。
「これ……」
手を伸ばすと、本は驚くほど軽かった。
表紙には、金色の文字で何かが書かれている。文字は古代語のようで、すぐには読めなかったが——じっと見つめていると、不思議と意味が心に流れ込んできた。
『契約の書』
「契約の……書?」
心臓が早鐘を打つ。何故だろう。この本から、ただならぬ気配を感じる。
恐る恐る、ページを開く。
すると、白紙だったはずのページに、するすると文字が浮かび上がってきた。金色のインクで書かれたような、美しくも禍々しい文字。
『汝、世界をやり直すことを望むか』
心臓が、大きく跳ねた。
やり直す? 何を? 世界を?
手が震える。でも、私は次のページをめくった。
『この書は、選択を一度だけ変える力を持つ』
『過去へ戻り、別の道を選ぶことができる』
『後悔した選択を、取り消すことができる』
『失った未来を、取り戻すことができる』
『ただし——』
ページをめくる。
『代償が必要である』
『汝が最も大切にするものの、一部を対価として納めよ』
『記憶、時間、絆、運命——』
『いずれかを、この書に捧げよ』
呼吸が浅くなる。
これは、夢なのだろうか。それとも、雨に濡れて頭がおかしくなってしまったのだろうか。魔法の本など、おとぎ話の中だけの存在のはずだ。現実に、こんなものが存在するはずがない。
でも——。
でも、もし。
「やり直せるなら……」
声が、震えた。
「もう一度、あの日に戻れるなら……!」
もし、婚約破棄される前に戻れたら。
もし、セルゲイの心を繋ぎ止めておける道があったなら。
もし、父や母との関係を修復できるなら。
もし、もう一度だけ、チャンスがあったなら——。
私は、どんな代償だって払う。
『契約するか、リアナ・ヴァレンティア』
私の名前が、ページに浮かび上がった。
背筋が凍る。この本は、私を知っている。私の名前を、私の苦しみを、私の願いを——全て知っているのだ。
恐怖と期待が、胸の中で渦巻く。
これは罠かもしれない。悪魔の誘いかもしれない。代償が何なのか、まだ分からない。もしかしたら、取り返しのつかないことになるかもしれない。
でも。
でも、もう失うものなど何もなかった。
婚約者も、家族も、居場所も、全て失った。これ以上、何を失うというのだろう。
「……契約する」
私は、そう告げた。
声は小さかったけれど、図書館中に響き渡るほど、はっきりと。
瞬間、本が眩い光を放った。
図書館全体が震え、書架の本がざわめくように揺れる。光は私の身体を包み込み、温かくも冷たくもない不思議な感覚が全身を駆け巡った。まるで、世界そのものが私を受け入れているような——いや、世界が私に問いかけているような感覚。
本当に、これでいいのか。
本当に、やり直すのか。
本当に——。
そして——。
『契約成立』
『汝の選択を、一度だけ変更する権利を与える』
『代償として、婚約者セルゲイ・アルノの記憶の一部を納めよ』
『彼が汝と過ごした、ある一日の記憶を対価とする』
「え……?」
代償が、セルゲイの記憶?
彼の、私との記憶?
どういうこと? どの日の記憶が失われるの? それは、彼にとって大切な記憶なの? それとも——。
問いかけようとした瞬間、視界が真っ白に染まった。
本が手から滑り落ち、床に落ちる音が遠くに聞こえる。身体が浮くような感覚。時間の流れが逆転していくような、めまいにも似た感覚。
そして——。
気がつくと、私は自室のベッドの上にいた。
窓の外は、明るい朝日が差し込んでいる。
カーテンの隙間から見える景色は、見覚えのある庭園。ヴァレンティア侯爵家の屋敷だ。白い噴水、手入れされた薔薇の花壇、石造りの小径。全てが、いつもと同じ。
「戻って……きた?」
慌てて身体を起こす。
鏡を見ると、そこには濡れた髪も泥だらけのドレスもない、いつもの私が映っていた。綺麗に整えられた部屋着を着て、髪も結われている。まるで、あの悲劇が嘘だったかのように。
机の上のカレンダーを確認する。
日付は——婚約破棄の、三日前。
「本当に……戻ってきたんだ」
信じられない。でも、これは夢じゃない。現実だ。
手のひらを見る。まだ、あの本の感触が残っているような気がする。温かくて、冷たくて、禍々しくて、神聖で——。
もう一度、やり直せる。
今度こそ、あの悲劇を避けられるかもしれない。セルゲイとの婚約を守れるかもしれない。家族との関係も、もしかしたら——。
希望が、胸の奥から湧き上がってくる。
でも同時に、不安も押し寄せてきた。
代償として、セルゲイの記憶の一部が失われたという。
それは、一体何を意味するのだろう。
彼は、何を忘れてしまったのだろう。
私たちの、どの思い出が消えてしまったのだろう。
答えはまだ、分からない。
けれど私は、この与えられたチャンスを、決して無駄にはしない。今度こそ、セルゲイの心を繋ぎ止める。今度こそ、婚約破棄なんてさせない。今度こそ——。
「今度こそ、未来を変えてみせる」
私は強く、そう心に誓った。
ベッドから降りて、窓辺に立つ。朝日が眩しい。新しい一日が始まろうとしている。いや——新しい運命が、始まろうとしている。
この三日間で、私は何をすべきか。
まず、セルゲイに会わなければ。そして、婚約破棄の原因を探る。あの時、彼は何故そんな決断をしたのか。誰かに唆されたのか。それとも、本当に私に愛想を尽かしたのか。
原因が分かれば、対処できる。
私は、もう逃げない。
窓の外では、朝日が静かに昇り始めていた。
鳥たちが囀り、風が木々を揺らす。
全てが、あの日と同じ。
でも、きっと何かが違う。
契約の書が言っていた。代償として、セルゲイの記憶の一部を納めたと。
それは、この世界にどんな影響を与えるのだろう。
まだ分からない。
けれど、私は進むしかない。
この選択が正しかったのかどうか、それは——これから私が証明する。
第1話を読んでいただきありがとうございます!




