クズ夫から「全部水に流せ」と言われたので本当に流したら新しい夫ができました!
水に流せ。
都合が悪くなった人間がよく使うお決まりの言葉。
そんなことで全てなかったことになるなら、誰だってそうするに決まってる。
——なら、やってやろうじゃない。
夫である最低男の言う通り、綺麗さっぱり全てを水に流して差し上げましょう。
「やられた」
机の引き出しにあった空の封筒を手に、タラン侯爵夫人セレナは大きくため息をついた。
封筒に入っていたのは金額にすれば大人一人が一週間生活できるほどだが、食べる物にも困っていた彼女にとっては大金だ。
封筒をグシャリと握りつぶし、家を出たセレナが向かったのは近所の酒場。
昼から酒を出す店はそこしかなく、あの金を盗んだ人間がそこにいると確信があったからだ。
セレナは店のドアを開け、まっすぐ一番奥のソファー席を目指す。
そこには布面積のやたらと少ない赤いドレスに身を包んだ女と彼女の肩をいやらしく抱き寄せ酔い潰れる男がいた。
「いい加減にして」
怒りを抑えながらセレナはその男を静かに見据えた。
「はぁ? 召使いみたいにみすぼらしい妻が領主である夫に口ごたえとはいい度胸だなぁ」
唇を引き上げ意地悪く笑いながら、男は女の胸元に手を差し入れた。
この下品を絵に描いたような男こそ、金を盗んだ張本人マルコス・タラン侯爵、セレナの夫だ。
「……領主というのなら、それらしく振る舞ったらどうなの? 貴方の目は周りも見えないほど節穴かしら」
ハッとしたマルコスが周りを見渡す。
案の定、店にいた人々の冷え冷えとした視線が容赦なく彼に突き刺さっていた。
「ったく、いちいちうるさいんだよお前は!」
マルコスは持っていたグラスを躊躇なくセレナに向かい投げつけた。
グラスはセレナの頬を掠め、激しい音と共に壁にぶつかり粉々に砕け散る。
驚いた客が急いでその場を離れるも、セレナは瞬き一つせずその場に立ったまま彼をじっと睨みつけていた。
「私のことはどうだっていい。でも、領民を傷つけるような行動はやめてって言ったわよね。それすらも守れないの?」
「守るもなにも領地のことはお前の仕事だろ? 誰からも相手にされなかった可愛げのないお前を妻として引き取って仕事を与えた俺に、これ以上何をしろと?」
「貴方は領主よ」
「そうだよ、領主だよ。だから、ここで一番偉いのは俺だ。文句あんのか?」
「……話にならないわ」
セレナはため息もつかず、マルコスに背を向けた。
「お騒がせしてごめんなさい。苦しい中頑張ってくれている皆さんの楽しい時間を邪魔してしまって」
「セレナ様……」
深々と頭を下げるセレナに同情の目が集まると、バツが悪くなった彼は乱暴に席を立った。
「あぁ、気分悪い。セレナ、ここの代金はお前が払え。それと、俺はしばらくこの女のところに行く。領主である俺に反抗したこと、きちんと反省しておけ」
女の肩を抱き、マルコスは逃げるように店を出ていった。
「セレナ様、ありがとうございます。実は店を開けてからずっと居座られてて困っていたんです」
「本当にごめんなさい。代金もすぐに払いたいんだけど、今手持ちがなくて……そうだ、このネックレスを預けておくわ」
首元に手をかける彼女を店主は慌てて制した。
「やめてください、セレナ様。私達のためにご苦労されていることはみんな分かっておりますから」
「情けないけど助かるわ。ありがとう」
セレナが笑顔を取り戻すと、領民達の表情も自然と和らいでいった。
「でも、セレナ様……こんなこと聞いて申し訳ないのですが、あんな領主様でこれから私達は大丈夫なんでしょうか?」
一人の客がたまらずセレナに詰め寄る。
普通であれば領主の妻にそんなことを言うなど不敬だが、セレナは一切怒る様子もなくその客の手を握った。
「不安になるのも仕方ないわ、ごめんなさい」
「とんでもない! セレナ様がいらしてから私達の暮らしは格段に良くなったんですよ。前は食べることもままならなかったのですから……でも」
辛かった記憶に顔を歪める領民の姿に、セレナの胸が痛む。
彼女がこの領に嫁いできた頃は今よりさらに酷い状態で、領民のほとんどがその日食べるのにも困っている有様。
それでも何の対策も取らないばかりか、金銭的にさらに重い負担を強いていたのは、何を隠そう領主のマルコスだった。
「もうあんな思いはさせないわ。私がなんとかするから安心して」
(……とは言ったものの、先立つものがなければできることは限られるわね)
現実を目の当たりにしながらも無理に笑顔を作るセレナ。
その胸の内に気付いた店の主人が、そっと彼女に声をかけた。
「セレナ様、コンラッド様はご存じですか?」
「コンラッド様って、お隣のケディッシュ領の?」
隣接する領地で領主代理を務めるコンラッド・ケディッシュは、堅実な領地経営で信頼を得ている人物。
また、その気さくな人柄で他領の領民とも付き合いが深い、貴族としてはある意味変わり者でもあった。
「実は、あの方は困っている人達にご融資していらっしゃるんですよ」
「まぁ、そうなの?」
「はい、弱き者を助ける『正義の金貸し』なんて変な呼び名で呼ばれることもあるくらいで」
「正義の金貸し……」
「一度コンラッド様にご相談されてみるのはいかがでしょうか? 話を聞いていただくだけでも気持ちが楽になるかと」
重くなっていく空気を紛らわすように、セレナはわざと大きな音を立て手を叩いた。
「そうね! 思いきってコンラッド様に手紙を書いてみるわ。相手にされないかもしれないけれど、やれることは全部やってみないとね」
領民達を安心させたくてできるだけ明るく笑ったセレナだが、その心の中は先の見えない不安でいっぱいだった。
「ケデイッシュ侯爵様、こんなに早くお返事をいただきありがとうございます」
「いや、こちらこそ来てもらえて嬉しいよ。堅苦しいのは苦手なんだ、気軽に名前で呼んでくれないか」
「では、コンラッド様と呼ばせていただきます」
「ありがとう」
彼が穏やかに微笑むと赤い髪の毛がふわりと揺れ、その隙間から覗いた蜂蜜色の瞳がセレナをまっすぐに見つめた。
時にその言動が貴族らしくないと揶揄されることも多いコンラッドだが、容姿だけなら他のどの貴族よりも気品に溢れていた。
「実は、いつか相談にきてくれるんじゃないかと思っていたんだ。そちらの領があまりいい状況でないことは色々聞いていたんでね」
「コンラッド様」
「……大変だったね」
全てを包み込むような彼の温かさに、突然セレナの目から大粒の涙が溢れ出した。
慌てて手で拭っても、涙はすでに止まることを忘れていた。
「……いいよ。思いっきり泣いてしまうんだ。我慢しないで」
今まで抑えていた全てを吐き出すように声を上げ泣き崩れるセレナ。
コンラッドは何も言わずただじっとそばで彼女を見守っていた。
「あの……本当すみませんでした。お恥ずかしいところをお見せして」
顔を赤らめ俯くセレナに、彼は穏やかに首を振った。
「いや、それだけ辛かったんだろう。ゆっくりでいい、これまでのことを詳しく話してくれないか」
もし自分に信頼できる兄がいたらこんな感じなのだろうか。
セレナはふとそんなことを考えながら、彼に促されるままポツリポツリと話し始めた。
マルコスとの結婚は出来の悪い彼を助けるため、計画された政略結婚だったこと。
セレナが思っていた以上に彼は素行が悪く、領地は荒れ放題、領民達の暮らしは最悪だったこと。
それでもめげず領地のために尽くしてきたが、少し状況が改善してもマルコスが原因で水の泡になってしまうこと。
ついに侯爵家の財産も底が見え、資金のやりくりだけではどうにもならなくなったこと。
セレナが現状を包み隠さず伝えると、黙って聞いていたコンラッドは天を仰ぎ大きくため息をついた。
「ごめん、他領だからと躊躇してる場合じゃなかった……」
その一言にまた溢れそうになるものを必死で堪え、セレナは黙って首を振った。
情けない。それでも今の自分にできるのは、この人の助けを借り少しでも自領の状態を良くすること。
そう悟ったセレナは覚悟を決め、もう一度コンラッドに頭を下げた。
「お願いします。どうか力を貸してくださいませんか」
「安心して、ここまで聞いたからにはもちろん協力はするよ。だけど条件があるんだ」
「条件ですか?」
穏やかな笑みから一転、鋭く目を光らせたコンラッドはまっすぐセレナを見据えた。
「タラン侯爵夫人、申し訳ないが貴女には全てを捨ててもらう」
「全て、ですか?」
「あぁ、貴女が侯爵家に嫁いできてから築き上げてきたもの、すべてだ」
セレナは言葉を失い愕然とした。
正直、マルコスだけなら今すぐにでも捨てられる。
でも、彼女にはこの苦しい中でも歯を食いしばり手に入れてきたものだってたくさんある。
「待ってください、今上手く行っている事業もあるんです。協力してくれている人達もたくさんいて、それを基盤としてやっていけば!」
必死の訴えも虚しく、コンラッドは非情にも無言のまま頭を振った。
「いくら基盤がしっかりしていても、その土台がいい加減ではいつかきっと破綻してしまう」
「そんな……」
「はっきり言う、もうそのくらい覚悟を決めなければならない状況なんだ。まずはそれを認めなくては何も始まらないよ」
きっぱりとそう言い放つコンラッドを前に、セレナにはもう返す言葉すらなかった。
悔しさに拳に握りしめても、反発する力すらない今の自分が無性に歯痒かった。
「……少し時間をもらえますか」
「もちろん。貴女自身が納得して動かなければ、私が援助したところで上手くいくはずがないからね」
「分かりました」
深く頭を下げコンラッドに背を向けたセレナ。
「厳しいことを言ってるのは分かっている。だけどもう一度きちんと考えてくれないか? 貴女が本当に大切にすべきものは何なのか」
その言葉に無言のままもう一度深く頭を下げたセレナは、振り返ることなくコンラッドの元を後にした。
「私だってわかっているわ、今のままじゃダメだって」
いつの間にか日も傾き、力無く歩くセレナの影が舗装されていない道路に伸びていく。
それは、まるでこれまでの日々を写し出したかのような歪な影。
邪魔な石ころや面倒な起伏があっても前を見てまっすぐに歩いてきたはずなのに、他人から見ればこんなにも不恰好だったのだ。
もし、夫であるマルコスがまともな人間だったら。
たとえ、まともではなくても浪費癖さえなければ。
せめて、領民を食い潰すような酷い言動がなければ。
どうしようもない「たられば」がセレナの頭の中を埋め尽くす。
込み上げてくる苛立ちをぶつけようにも、その相手はぶつける価値すらない男。
絶えず漏れ出るため息と疲労感に襲われながら、セレナは重い足を引きずるように家に辿り着き自室へと向かった。
だが、現実はまたもやセレナの苦悩を嘲笑う。
鍵を閉めたはずの部屋から漏れ出す微かな光。
それが目に入った瞬間、セレナは顔色を変え駆け出し乱暴にドアを開けた。
「マルコス!」
慌てて振り返った彼の手に握られた数枚の紙幣。
「チッ……見つかったか。でも、こんなもん端金だろ? 見なかったことにして水に流せよ」
いやらしく笑いながら彼は紙幣を無造作にポケット突っ込み、セレナの横をすり抜けていった。
「マルコス、あなたの言うとおりだわ」
セレナはそれまでとは全く違う穏やかな声で部屋を出て行こうとする彼を呼び止めた。
彼女が笑顔でその男の顔を見たのは、一体いつ以来だろうか。
「水に流せば全てなかったことにできるもの。こんなに簡単なことないわ、そうでしょう?」
「あぁ、やっと分かったのか。なら、今までのこともきれいさっぱり水に流してくれるんだな」
「ええ、もちろん。すぐにそうするわ」
淑女らしい穏やかな微笑みを浮かべたまま、セレナはテーブルの上にあった置き時計を手に取ると、部屋の窓を勢いよく開け放った。
「はぁ!? ちょっと待て!」
マルコスのみっともない叫び声が上がった瞬間、綺麗な弧を描き青空へ飛び出していった置き時計。
刹那、侯爵邸の横を流れる川から大きな水飛沫が上がった。
「そうよ、もっと早くこうすればよかったのよ」
部屋にあった物を次々と手に取り、嬉々として窓の外へと放り投げるセレナ。
その度に川から大きな水音が響き、何事かと人々が侯爵家の前に集まってきた。
埃の被った燭台に縁の欠けたカップ、卓上ランプに趣味の悪いクッション、果てはドレッサーの引き出しまで。
窓からひっきりなしに物が振ってきては、その全てが狙いすましたかのように川の中へと吸い込まれていく様を、外にいた人々は呆然と見つめるしかなかった。
「お前、何してんだ!」
「全部水に流せと言ったのは領主様でしょう? まずは手っ取り早くこの家の物から始めませんと」
セレナはそうに笑いかけ、近くにあった万年筆を手に取る。
「やめてくれ! それは父上から領主を受け継いだ時に贈ってもらった大切な……」
「あら? ならば余計に水に流しませんとね」
躊躇なく腕を振り上げたセレナは彼の制止を無視し、その万年筆を力いっぱい川に向かって放り投げた。
「セレナ、いい加減にしろ!」
我を忘れ激昂したマルコスがセレナの胸ぐらを乱暴に掴む。
体を激しく揺さぶられ恐怖に心が震えても、彼女にはもう躊躇うことすら煩わしかった。
「私は領主である貴方に言われたことを忠実に守っただけ。どうして文句を言われなければなりませんの?」
「貴様、ふざけるな!」
怒鳴り声と同時にマルコスが高々と拳を振り上げた。
あぁ、なんて愉快なのだろう。
ぐちゃぐちゃに顔を歪め、余裕を無くして怒りに塗れる夫の顔がこんなにも清々しいとは。
堪えきれず緩んだ唇に笑みを添え、セレナは静かに目を閉じた。
「さすがに乱暴はよくないな、マルコス殿」
「なっ!」
勢いよく振り下ろされた拳は、セレナの前に立ちはだかったコンラッドの手の中で止まった。
「なっ、なんでここにいるんだ! 離せ、邪魔すんな!」
マルコスが乱暴に手を振り解こうとしても、コンラッドはその手を離そうとはしない。
「邪魔? 私は自分の仕事をしに来ただけだよ。勝手に揉めていたのはそちらだろ?」
「仕事って何だよ! 人の領地まで来てふざけるな」
「どうやらお忘れのようだね。はっきり『借金の取り立て』だと言えばお分かりか?」
その言葉にハッとしたマルコスは、強引にコンラッドの手を引き剥がすと、ポケットから盗んだ紙幣を慌てて取り出した。
「ほら、これでいいだろ。残りはまた今度払ってやるからさっさと帰れよ!」
下卑た笑いと共にコンラッドの胸元に金を突きつける。
「残念だけど、このお金は受け取れない。貴方のお金ではないからね?」
コンラッドは不敵に微笑みながら、困惑するマルコスを見据えた。
「人の金で返済? 私まで犯罪に巻き込むのはやめてくれ」
「犯罪? 大袈裟なんだよ。これはそもそも領地の金だ、領主である俺がどう使おうが勝手だろ!」
「うーん……それを言うなら、貴方にはもうその権利はないんだけどな」
「ふざけるな、ここの領主は俺だぞ!」
「ここまで言っても、まだ理解できていないのか……」
呆れたコンラッドは大きくため息を吐き、胸のポケットから一枚の紙を取り出した。
「マルコス・タラン侯爵殿、貴方から領地経営のためと借金の申し出があったのは一年前だった、覚えているかい?」
「あぁ、それがどうした?」
セレナにとっては初耳だった。
無論、その借金が領地のために使われた覚えはない。むしろ、コンラッドがこの領の状況を知っていたのだとしたら、どうして彼に金を貸したのか。
正義の金貸し、そんな呼び名まで付けられた彼がまさか夫の浪費に加担していたなんて。
忘れかけていた虚しさがセレナに訪れようとした矢先、まさかの現実が曝け出された。
「マルコス、貴方が領主だったのは昨日までの話。今日からここの領主は私だ」
借用書を彼の目の前に差し出し、コンラッドは得意げに唇の端を上げた。
「貴方が私から借りた金の返済期限は昨日。もし返済できなければ領地を差し出すと、自分でサインしたことをお忘れか?」
「なっ!」
「マルコス・タラン、もう一度言う。ここはもう貴方が治める領地ではない。関係ない人間は早く出て行ってくれ」
「いや、待ってくれ! 金なら少しずつ返す。ここを出たらどこへ行けばいいって言うんだ」
「さぁ? そうだな……貴方の言葉を真似るならこう言うべきか」
大きく息を吸ったコンラッドは鋭い眼差しでマルコスを睨みつける。
「ここの領主は私だ、黙って領主の言うとおりここを出ていけ。その後のことなど知ったことか!」
すごい剣幕のコンラッドを前に、震え立ち尽くすマルコス。
「おや? 自分で出て行かないのなら、貴方のことも水に流して……」
「ふっ、ふざけるな! こんなところ、こっちから御免だ」
悪態を吐く姿も虚しく、マルコスは逃げるように侯爵家を後にした。
「コンラッド様……ありがとうございます」
セレナは一瞬でも彼を疑ったことを恥じた。
彼はセレナの知らぬところで、すでに救いの手を差し伸べていた。
それも彼女の手を汚すことなく、マルコスが自らの手で地に落ちていく着実な方法でだ。
「顔を上げよう、セレナ殿。私も色々黙っていて申し訳なかった」
溢れ落ちた涙がどんなに床を濡らしても、決して頭を上げようとはしないセレナに、コンラッドは優しく語りかける。
「どんなに辛くても決して逃げ出さない貴女なら、これからも上手くやっていけるだろう」
「ここはもうコンラッド様の領地で……」
「だから、私が貴女を任命するんだよ。新しく生まれ変わるこの領の領主代理に」
「えっ!」
コンラッドは先ほどマルコスに見せた書類とは別の物をセレナの前に差し出す。
「もちろん楽な条件ではないさ。でも貴女ならこのくらいやってのけるだろう?」
煽るような視線をセレナに投げかけ、コンラッドはクスリと小さく笑う。
「そういうことでしたら謹んでお受けいたします。一人でもきちんとやってみせますわ」
「一人? それは窓の外を見てから決めてもいいと思うよ」
コンラッドの視線を促され、窓の外に目を向けたセレナ。
「あっ……」
その瞳には、これまでずっと彼女のことを慕い続けてくれたたくさんの領民達の笑顔が映っていた。
借金の肩に領地を没収されるという大失態を犯したマルコスは当然ながら侯爵家を除籍となり、今はその行方すら分かっていない。
セレナとの婚姻関係ももちろんながら解消となり、晴れて彼女は独り身となった。
一応、タラン侯爵家の名だけはかろうじて遠縁の親戚へと引き継がれたが、今後廃れていくのは誰が見ても明らかだった。
それから五年、マルコスという悪縁から解放されたセレナは、領民の助けを借りつつ領主代理として日々奮闘していた。
もちろん楽な暮らしではなかったが、少しずつでも前に進めているという実感に、彼女は今までとは見違えるほど生き生きと領地のため身を粉にして働いていた。
一方、コンラッドは自領の経営を伴侶を得た弟へと譲り、今はただの金貸しとして自由気ままに暮らしていた。
そして、そんな彼の元にセレナの姿があった。
笑顔で出迎えるコンラッドとは対照的に、どこか緊張した様子のセレナはじっと彼の手元を見つめていた。
「はい、確かに……これで貴女に貸付けしていたお金は全て完済だよ」
「ありがとうございます」
安心したように大きく息を吐いたセレナを見つめながら、コンラッドは束ねた紙幣を大事そうに懐にしまった。
「君に領主代理をお願いした時、まさか金を貸してくれと言われるとは思わなかったよ」
セレナは領地再建にかかる費用の全てを返済期限を五年として、彼から借り入れていた。
「それは私のけじめですわ。あの時全て水に流すと決めたのですから、お膳立てされた上でやり直すなんて何の意味もないですもの」
「でも、まさか本当に五年で立て直すとはね」
「私、できない約束はしない主義なので」
「相変わらず頼もしい人だ」
今ではおどけたやりとりすら交わせるほど打ち解けた二人。
「あの……コンラッド様、完済したお祝いに一つだけお願いを聞いていただけませんか」
「もちろん」
だからこそ、セレナのこんな願いにもコンラッドは蜂蜜を溶かしたような優しい笑顔で頷く。
「実は私、一つ夢ができましたの。それをコンラッド様に叶えてほしくて」
「夢? いいね。私で叶えられるのならぜひ」
「むしろ、コンラッド様にしか叶えられない夢ですわ」
「へぇ、何かな?」
「私をコンラッド様の妻にしてください」
「はぁ?」
あまりにも予想外すぎた願いに、セレナを見つめたまま固まるコンラッド。
「自分で言うのもなんですが、領地経営もできる優良物件ですし、見た目だって悪くないかと。それに……」
セレナは真剣な表情で、いまだ固まったままのコンラッドを見上げた。
「今まで助けられた分、これからはコンラッド様のことを幸せにしなければ私の気がすみません。なので、大人しく私の夫になってくださいませ」
その瞬間、コンラッドは大きな声を上げ笑い出した。
「いや、そう来たか。まさか先を越されるとはね」
笑い過ぎて目に涙を溜めた彼は、セレナの手を取りゆっくりと跪いた。
「セレナ嬢、いつもどんな時もまっすぐに生きてきた君を私は誇りに思うよ。だからあえて言う……私は君のことが大好きだ。大人しく君の夫になってあげるから、幸せにしてくれる?」
「もちろんですわ、私はできない約束は致しませんから!」
終




