第3話|筋肉は嘘をつかない、胸肉も嘘をつかない
朝の市場に、やたらとでかい影が現れた。
いや、でかいというより――厚い。横幅もすごいが、前後の厚みが尋常じゃない。歩くたびに地面が軽く震え、通行人が振り返る。
『……なんだあれ。熊? いや、二足歩行してるから人間か?』
「あー、来ちゃった」
フィオが苦笑いを浮かべながら、屋台の準備を続けている。昨日と同じようにスープの仕込みをしながら、チラチラと巨大な影を見ている。
『知り合い?』
「バルガ。この街の冒険者ギルドで一番有名な戦士よ。ただし……」
その時だった。
「**タンパク質こそ正義!**」
突然の雄叫びが市場に響き渡る。
振り向くと、茶色い髪をオールバックにした筋肉の塊のような男が、こちらに向かって歩いてくる。上半身裸で、胸筋が盛り上がり、腕の血管が浮き出ている。
そして、その筋肉男が俺たちの屋台を指差した。
「そこの屋台! 鶏肉料理を出せ! プロテイン摂取のためだ!」
『うわぁ……筋肉原理主義者だ。前世でジムでよく見たタイプだ……』
「バルガ、おはよう。今日も元気ね」
フィオが営業スマイルで応える。慣れたものだ。
「フィオ! 今日こそ納得のいく鶏肉料理を頼む! 昨日の店の胸肉はパサパサで話にならなかった! 筋肉に栄養が届かない!」
バルガが拳を振り上げる。その腕の太さは俺の胴体より太い。
『こいつ、昨日も来てたのか……』
「分かった分かった。でも今日は特別よ。新しい相棒がいるの」
フィオが俺を指差す。バルガの視線が俺に移った。
『……え?』
「……鶏?」
『はい、鶏です。しゃべる鶏です。食材じゃなくて料理担当です』
しばらく沈黙が流れた。
バルガが俺をじっと見つめ、俺もバルガを見つめ返す。筋肉vs鶏。シュールな対峙だった。
「……なるほど、しゃべる鶏か。ユニークな食材だな」
『食材って言うな!』
「すまん。しかし、君は鶏だろう? 鶏肉料理は作れるのか?」
『それは……まあ、そういうことになってるね。複雑だけど』
《心境複雑度:上昇中/職業倫理ジレンマ:発生》
UI板が妙に哲学的になってきた。
◇◇◇
「今日のメニューは胸肉料理よ。でも、普通の胸肉料理じゃない」
フィオが胸を張る。
「コウの火力調整で、今まで食べたことない胸肉を作るから」
『胸肉……パサつきの王様だな。でも、低温調理ならいけるはず』
俺は前世の知識を総動員する。胸肉は65℃を超えるとパサつく。でも55〜60℃の低温でじっくり火を通せば、しっとりと仕上がる。
問題は、俺のくちばし火力でそんな繊細な温度管理ができるかどうか……
「ほう、胸肉か。だが期待はしない」
バルガが腕組みをする。その腕の筋肉が、まるで生き物のようにうねった。
「この街で美味い胸肉を食ったことがない。どこも固くてパサパサ。筋肉の栄養にならん」
『そんなに胸肉にこだわるの?』
「当然だ! 胸肉は高タンパク、低脂肪。筋肉を作るのに最適な食材だ! だが、この街の料理人はそれを理解していない!」
バルガの目が燃えている。筋肉への情熱がすごい。
『なるほど……じゃあ、本当に美味い胸肉を作れば……』
「認めよう。君を食材ではなく、料理人として」
《目標設定:胸肉でバルガを感動させる/難易度:高》
『よし、やってやる!』
◇◇◇
まずは胸肉の下処理から始める。
フィオが市場から仕入れてきた鶏胸肉は、俺の……いや、俺とは血縁関係のない鶏の胸肉だ。たぶん。
『(心の中で)ごめん、同族……美味しく料理するから許して』
「コウ、大丈夫?」
『大丈夫。プロ意識で乗り切る』
俺はくちばしで塩を軽く振り、胸肉に下味をつける。それから、フィオがハーブとオリーブオイルでマリネード。
「ここからが腕の見せ所よ、コウ」
『了解。低温調理、開始!』
俺はくちばしを集中し、可能な限り弱い火を起こす。ちょろちょろと、まるでろうそくの炎のような小さな炎。
《火力:超弱火/温度:54℃/目標温度到達まで:計算中》
『54℃…もう少し上げないと』
微調整を続ける。55℃、56℃、57℃……
バルガが興味深そうに覗き込んできた。
「ほう、随分と弱い火だな。普通はもっと強火で一気に焼くものだが」
『強火で焼いたら外は焦げて中は生、もしくは全体がパサパサになる。胸肉は繊細なんだ』
「繊細……筋肉のような食材が?」
『筋肉だからこそ、だよ。タンパク質は熱で固まる。でも適切な温度なら、柔らかいまま火が通る』
バルガの目が光った。
「ほう……科学的だな」
◇◇◇
58℃をキープしながら、じっくりと時間をかける。
普通なら10分で終わる調理が、もう30分経っている。でも、これが低温調理の醍醐味だ。
《内部温度:58℃到達/予想完成時間:あと15分》
その間に、フィオがソースの準備を進める。レモン汁、白胡椒、少量のハチミツ、そして……
「隠し味に、昨日のチキンブロスを少し」
『おお、昨日の出汁を活用するのか。無駄がないな』
ソースからも鶏の旨味がふわりと立ち上る。
バルガが腕時計を見ながら、少し不安そうにする。
「随分と時間がかかるんだな……本当に大丈夫か?」
『筋肉と同じだよ。時間をかけて鍛えれば、必ず結果が出る』
「……なるほど」
バルガがうなずく。筋肉の比喩が効いたらしい。
『(筋肉脳にはこの話法が有効だな……)』
《バルガ好感度:上昇/筋肉理論共感度:+15》
◇◇◇
ついに完成の時が来た。
俺が火を止めると、胸肉の表面がほんのり薄いピンク色に仕上がっている。中はしっとりと白く、肉汁が滴り落ちそうになっている。
『見た目は……悪くない』
「香りもいいわね」
フィオがソースをかけ、付け合わせの野菜と一緒に皿に盛る。
シンプルだが、素材の良さが引き立つ一皿。
「できました! 低温調理鶏胸肉のレモン胡椒ソース!」
バルガが皿を受け取る。その大きな手に、小さく見える皿。
「……見た目は普通だな」
『見た目で判断するのは早い。食べてみて』
バルガがナイフで胸肉を切る。
切り口から、薄く透明な肉汁がじわりと滲み出る。普通の胸肉料理では絶対に見られない光景だ。
「……肉汁が出てる」
『そう、それが低温調理の証拠』
バルガが一口、フォークに取って口に運ぶ。
噛んだ瞬間――
「……!!」
バルガの目が見開く。そして、ゆっくりと顔が変わっていく。
「これは……」
もう一口、今度はソースと一緒に。
「……柔らかい」
さらにもう一口。
「しっとりしてる……」
そして――
「**これは……お前の肉じゃない、神の肉だ!**」
『俺の肉じゃないけど、神の肉でもない!ただの鶏胸肉だ!』
しかし、バルガは聞いていない。夢中で胸肉を食べ続けている。
「信じられん……胸肉がこんなに美味いなんて……」
そして、なんと――涙を流し始めた。
「筋肉戦士のバルガが泣いてる!」
周囲の客たちがざわめき始める。
「あの堅物のバルガが料理で泣くなんて!」
「どんな料理なんだ!?」
《注目度:急上昇/バルガ感動度:MAX》
◇◇◇
皿を完食したバルガが、俺とフィオを見つめる。
「……すまなかった」
『え?』
「君を食材だと思っていた。だが、君は間違いなく料理人だ」
バルガが深々と頭を下げる。その筋肉が、敬意を表するように整列したように見えた。
「この街で、いや、俺の人生で最高の胸肉だった」
『そ、そんなに?』
「筋肉は嘘をつかない。そして、胸肉も嘘をつかない。君の料理には、真実がある」
なんか哲学的になってきた。
「コウ、俺は君を護る」
『護る?』
「この街には君を狙う悪い奴らがいる。俺が用心棒になろう」
『用心棒!?』
「もちろん、タダではない。毎日、あの胸肉料理を食わせてくれ」
フィオが苦笑いする。
「毎日は大変よ……」
「なら、三日に一度でいい。いや、一週間に一度でも!」
バルガが必死にお願いしている。さっきまでの威圧感はどこへやら。
『……分かった。でも、用心棒の前に宣伝をお願いしたい』
「宣伝?」
『街の人に教えて。ここに美味い胸肉料理があるって』
「任せろ! 俺の筋肉にかけて宣伝する!」
《筋肉満足度:MAX/プロテイン指数:急上昇/用心棒獲得:成功》
◇◇◇
その日の午後、バルガの宣伝効果は絶大だった。
「バルガが泣いた料理ってここか!」
「胸肉が柔らかいって本当?」
「しゃべる鶏が作るのか!?」
次々と客が押し寄せる。
俺は休む間もなく火力調整を続け、フィオは手際よく胸肉を調理していく。
「お待たせしました! 低温調理胸肉です!」
「おお、確かに柔らかい!」
「今まで食べてた胸肉は何だったんだ!」
客たちの満足そうな顔を見ていると、俺も嬉しくなってくる。
『料理人って、悪くないな』
そんな俺の気持ちを察したのか、UI板に新しい表示が現れた。
《相棒契約 仮登録 達成率:8%→15%》
『おお、上がった!』
「やったね、コウ!」
フィオがにっこり笑う。
『でも、まだまだ先は長いな』
「大丈夫。この調子で頑張ろう」
◇◇◇
夕方、片付けをしていると、バルガが戻ってきた。
今度は普通の服を着ている。相変わらず筋肉質だが、さっきよりもずっと穏やかな表情だ。
「コウ、フィオ、今日は本当にありがとう」
『いえいえ、こちらこそ』
「実は……俺、筋肉のことばかり考えてて、料理の奥深さを知らなかった」
バルガが少し恥ずかしそうに頭を掻く。
「君の胸肉料理を食べて分かったんだ。料理は科学でもあり、芸術でもあり、愛情でもあるんだな」
『そうですね。前世で学んだんですが、料理は化学反応の連続です。でも、それだけじゃない。作る人の気持ちも込められる』
「前世?」
『あ、えーっと…まあ、昔の話です』
フィオがくすくす笑う。
「コウ、たまに不思議なこと言うのよね」
『企業秘密ってことで』
三人で笑っていると、遠くから白い影がゆらりと現れた。
カーネル伯爵だ。
「ほう、随分と繁盛しているじゃないか」
その声に、バルガの表情が一変する。
「伯爵……何の用だ」
「用心棒まで雇ったのか。君たちも本格的だね」
伯爵の視線が俺を捉える。
「相変わらず美味しそうな鶏だ。柔らかく仕上がっているかな?」
『また"柔らかく"って表現使ってる……』
「今日の売上も好調のようだ。価値が上がり続けているね」
伯爵がにやりと笑う。
「楽しみだよ。あと四日後が」
そう言い残して、白い背中をひらひらさせながら去っていく。
バルガが拳を握りしめる。
「あの野郎……絶対に君を渡さない」
『ありがとう、バルガ』
「筋肉にかけて約束する。君を護り抜く」
《用心棒契約:正式締結/安心度:上昇》
俺たちは夕日の中、明日への準備を始めた。
まだまだ険しい道のりが続くが、今日は確実に一歩前進した。
そして俺は確信した――筋肉は嘘をつかない。胸肉も嘘をつかない。
本当に美味しい料理には、必ず真実がある。